第16話「妊婦と老人」
音叉と呼ばれるそれは人の精神を調律する事が出来る。
尋常ならざる技術。異世界より持たされたそれを常用する町、アルバン。
この世界は、一見牧歌的であるがその裏に巣食っているのは紛れもない狂気だ。
「この辺りなのか?」
「ああ、間違いない」
目に映る色彩全てが仄暗い町。消え入りそうにくすんだ石畳の中央に立ち、正一は辺りを見回していた。
マリモによれば、この近くに音叉の気配があるという。
位置的には町の中心部に程近く、家々がまばらに並んでいる以外にこれと言って目を引く物もない。
けれど肌を撫でる寒気は、この町に入ってから感じたどれよりも強くある。
町の中心地、揺蕩う者の居る場所に近付いているせいだろうか。
左肩のふわふわとした重みと体温だけが正一に安堵を与えてくる。
この世界に来たばかりの頃、そして彼と出会った頃、正一はここまでマリモに依存するとは思っていなかった。
憎らしくすらあった彼の存在が今では正一の生命と精神の安寧を支える礎になりつつある。
「正一」
「どうした?」
「近いぞ。正面だ」
正一の手は、自然と折り畳まれた弓に伸びていた。
つくづく叔母の教えに感謝させられる。
危機に対して意識を省いて身体が反応し、対応する事。
――何故だろう?
一介の高校生に、何故こんな事が出来るのだろうか。
正一は、自らの家庭環境を普通であると思った事はない。
無論その生い立ちに不平や不満はないし、叔母も写真でしか知らない両親も恨んでいない。
それでもこの世界の環境を放り出され、初めて見えたものがある。
外来種が異世界から来た存在であるように正一もまた異世界からここにやってきた。
頭の片隅で感じていた叔母の教育への疑問と、自分の置かれた現状。
これではまるで――。
「正一!」
突如上がった声が正一の意識を空想から現実へと引き戻す。
左肩を見やると普段よりも切れ味の鋭い顔立ちでマリモが毛を逆立てていた、
「油断するな。くるぞ」
時間にすればほんの数瞬だったはず。しかし実戦においてそれだけ無防備を晒す事は死を意味する。
考えたい事は山ほどあるが、今は目前で怒っている状況に臨機応変の姿勢で臨み、最善手を打ち続ける事。
正一は、トリガーを引いて弓を展開すると、指先に魔力を流し込み、マリモの視線の先を見据えると、妙齢の女がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
黒い巻き髪をした線の細いとても美しい女である。
こんな場所で出会わなければ恋に落ちていただろう。
だが目を引くのは、異様に腹だけが膨れているその姿だ。
にこやかに腹を撫でながら足取りの軽い女の様子は、普通であれば我が子の誕生を待ち遠しくする母親のそれだ。
けれど彼女の場合、問題は腹に入っているのがまっとうな赤ん坊であるかどうかという事と普通の妊婦の倍は腹が大きく膨れている事である。
正一が弓を構えたまま見つめていると、視線に気付いたのか、妊婦が顔を上げて立ち止まると微笑みかけてきた。
「どうかされましたか?」
左肩のマリモに正一が目配せすると、マリモは頷き答えてくる。
「この女からだ」
どこにあるかは想像に難しくない。弓を構えたまま、指先の魔力を一層強めながら正一は妊婦に尋ねる。
「あなた音叉をお持ちですか?」
「音叉というと。ああ、あれですか。私は持っていませんよ」
そう言う妊婦の顔に、嘘偽りの証明は浮かんでいなかった。
性根をそのままに話している。そんな天真爛漫さがアルバンの住人であるはずの妊婦から滲み出している。
それが同時に怖くもあった。
何故ここに居ながらそんな顔が出来るのか。
正一が武器を向けている事すら意に介してはいない風に見える。
アルバンの住人は、皆狂っている。それでもこれほど明るい狂気の様を見たのは、これが初めてだった。
何故なら妊婦は、愛おしそうに腹を撫でながら言うのだ。
「この子たちのいずれかが音叉となるのです」
体内に居るモノは決して人ではない。
人であるにしてもそれはきっと人の形をしているだけの紛い物だ。
人の血を浴びる事で愉悦に浸る狂気もあろうが、人ならざるモノを宿しながら嬉々としている彼女もまた純粋な狂気と言えよう。
「女、双子でも生まれるのか?」
「さぁ何人生まれるかは。それでは」
マリモに問いに会釈しながら答えると、妊婦はそのまま正一をすれ違いながら歩き去っていった。
彼女の中に音叉があるはず。それでも止める気すら起きなかったのは何故だろうか。
思考という物をいっそ放棄してしまえればどれほど楽だろう。
ただ漫然と現況を飲み干せてしまえばこれほど快適な生き方はないはずだ。
人と云う種を進化させた知能が人を狂気に至らせるなら、それが人の進化の先なのかもしれない。
狂気により、動物的本能に支配される原点回帰こそが人の次なる道かもしれない。
それが出来れば世界を生きるのは容易かろう。
特にこういう世界ならば論理や規範をいっそ全てを捨ててしまえば、自由な意思を得る事が出来れば、それが生存戦略なのだ。
「大丈夫か、小僧」
そう語り掛けるマリモの表情には、珍しく影が差していた。
理性を捨ててしまえば、それがこの世界に適応する進化である。
しかしそれは自己を捨てる事に他ならない。
「マリモ、音叉ってどういうものなんだ」
大丈夫と答える事は出来なかった。
それでも今は別の事を考えるのが最善の逃避である。
そう、今はそれでいい。
真正面から向き合い続けて壊れるぐらいなら、それを切り崩しながらでも少しずつ受け入れる。
今は、その準備期間なのだ。
「元々は石だ。小さなな。しかし人間に溶け込んでいるのか……人の身が宿せるような代物じゃないぞ」
人間の精神を改変しうる魔道具だ。
人の身に宿せないという話には納得がいく。
それでもあの妊婦の言葉を鵜呑みにするなら生まれ落ちる子供の一人が音叉となる。
そういう事だと解釈してよい。
「生まれた一人が石になる? 音叉ってそういう風なもんなのか?」
「俺にも分からん。あれは外来種が持ち込んだものだ。さっき話した事が俺の知っている全てだ。こんな性質は知らない」
そう、別の事を考えればいい。
深く何かを考えるのも悪い方に考えるのもまったくもって悪影響しかない。
だから今はリエラとリゼルの事を考えればいいのだと。
「どうすんだよマリモ。お前音叉を追うだけなら大して危険はないとか言ってたな」
「言ったが?」
開きなったような物言いに正一は、眉間にしわを刻んだ。
「人間が音叉を生むなんて事態、色々ねじくれてると思うんだけど」
そんな指摘を受けても、しかしマリモは、尚もしらっとした顔をしている。
「事が随分とデカくなっている様だな。この街が隔離されてからの三十年、事態は大きく変わったらしい」
マリモも全てを知っている訳ではない。二百年間封印されていたのだから無理からぬ事だ。
二百年。
人には長すぎる時間だ。
竜にとってどうかは分からないが決して瞬くようにあっと言う間とは行かないだろう。
それを経てもこうして平常を保っているあたりやはり人とは違うのだ。
まるで違う。決して相容れる事のない獣が今では正一にとってたった一つの繋がり。
バルツ共和国という見知らぬ国での命綱だ。
やはり正一の思考はあさっての方向へと向かう。
直視すれば否応なしに現実が食い殺しにくる。
それでも立ち向かう以外にあるまい。
マリモの他にもう一つ、繋がりを作るために必要なのだ。
「いっそ総当たりってのはどうだ?」
「町の全員にか? 本当の事は言わんだろう。それに頭の中も覗けない。こうなると揺蕩う者を探すしかないな」
随分物騒なアイディアの提示に、正一は少年らしく身じろいだ。
「おいおい。封印を解いて話を聞こうってんじゃないだろうな」
「いや。眷属が居るはずだ。それか化身がな」
マリモの言う眷属や化身とは森に居たナメクジ巨人のような存在だ。
本来の姿になったマリモが巨人を引き裂いた時言っていたのを正一は覚えている。
「森みたいにか?」
「封印はされていても連中はしぶとい。外界への接触手段を持っているはずだ」
「こんな毛玉になったマリモとはえらい違いだな」
正一が憐れみを込めて見つめると、マリモは湯気が出そうなほど頭に血を登らせて左肩で飛び跳ねた。
「あほ抜かせ! 俺に掛けられた封印術は、そんじょそこらの神格種だったら即死する程のもんじゃわい!」
嘘は言ってないのだろうが、強力な封印を掛けられると毛玉の姿になってしまうという原理についての謎は、大いに残っている。
無論これを追求すればマリモのへそが曲がるのは想像に容易い。
「ほうほう。言っとけ、言っとけ」
それでも貴重な茶化しのチャンスである。
正一が適当に突いただけで、やはりマリモのボルテージは激情に猛り来るようだった。
このまま弄り倒すのも悪くはないが、楽しみはアルバンを出てからにすべきだろう。
「さて、マリモ。俺には心当たりは二人居る。お前も多分そうだろ?」
「ほう、見当がついているのか」
正一は、自信たっぷりに笑んで見せると、その推測を口にしようとした。
「それは私の事かな」
しかし心当たりそのものが正一とマリモの眼前に姿を現し、割り込んで来たのだ。
茶けて擦り切れたシャツとズボンを身に着けた年老いた男。アルバンに来て初めて出会った老人が芝生のような眉毛の奥で瞳を光らせている。
正一の考えていた眷属の正体。それは先程すれ違った妊婦とそしてこの老人の二名であった。
「彼女の事も知ってるようだな。どこで気が付いた?」
しわがれながらも芯を残した声音に正一は身構えた。何故なら強者が持っている風格をこの老人が醸しているから。
油断をすれば食われかねない。皮膚を突き刺す感覚がそんな予感を伝えてくれる。
最初に出会った時には、見る影もなかった闘気の溢れる様。
きっと答えを違えれば老人の行動は一つしかない。そしていざその段となれば、正一が無事で済む保証はなかった。
目の前の相手は、恐らくあの森の眷属をも凌駕する脅威だから。
「あんたの言ってた事が全部嘘だからだ」
「全部?」
正一の用意した答えに、老人は髭を撫でながら首を傾いだ。
警戒をしつつも正一は、続ける。恐らく間違った答えを言っていないはずだと信じて。
「音叉はこの街に必要ない。美味い物はない。いい景色もない。心を躍らせる物もないと言ったな」
「そうですが」
老人の頷きに正一の唇が笑みを灯した。
「音叉がどういう訳かこの街に必要なのは分かっている。全員が使った経験があるらしいからな。もっとも理由は不明だけど」
これはマリモの証言から明らかだ。真相は不明でも必要であるという事実は覆せない。
「美味い物もすぐにあった。マリモが飲んだ酒だ。数万年を生きている存在が美味いと言うんだ。相当だろうよ」
マリモの反応は嘘や世辞の類には見えなかった。
酒をたしなむのであれば心底美味いと思える酒なのだろう。
隔離されたアルバンでそれほどの名酒を作れるのは驚きであるが、名探偵も言っている。
全ての可能性を排除して残った事実は、どれほどあり得ないように見えても真実なのだと。
「次に景色。ドルヴァンの屋敷は、それこそ観光スポットになってもおかしくないぐらい綺麗な屋敷だった」
歴史的な価値があるかは置いても、あの屋敷が素人目に見ても素晴らしい芸術品である事は疑いようもない。
もしもアルバンが隔離されていなければ、屋敷目当てで観光旅行に訪れる者も居るはずだ。
「そして最後に心を躍らせる物。この街には天然資源と何よりも音叉と言う魔道具があるって話だ。こんなに心躍る物もないだろ」
こうした資源は、正一の居た世界でも数代に亘る財を成せる至宝だ。
マリモの話を聞くにアルバンという町自体が天然次元が豊富な土地柄故に生まれたと言っても過言ではない。
さらに今では世界から隔離されているにも拘らず、音叉と呼ばれる魔道具を求めて訪れる人が居る。
心を躍らせる物が満載された宝箱のような町だ。
「総合するとあんたの話は全て嘘だった。だから怪しいと思ってたんだよ。じゃあ何故嘘を付いたのか」
この理由については正一の中でもいくつかの可能性が存在していた。
しかしこれと言える答えは一つだけである。
「お前達外来種は、些細な事でも人を惑わさずにはいられないんだろう?」
単純すぎる解答だった。
しかしそれが確信を突いた事を知らしめたのは、老人の強張って皺をぐしゃぐしゃに歪めた表情そのものであった。
「小童が。だがなわしは主様ではないよ」
「眷属か」
想定通りの正体に正一が笑むと、老人は髭を撫でながら続ける。
「わしは言うなれば試金石よ。この街を訪れた人間には必ずお前にしたのと同じ事を言うのさ。わしの言っている嘘を見抜けるかどうかを。この時点で半分は脱落する」
「脱落したら?」
「主様に捧げる、大抵は食料となる」
ぞっとしない話だ。
一体何人のトレジャーハンターがこの老人の毒牙に掛かったのか。
あるいは妊婦も同様の事をしていたのかもしれない。
封印されているとは言え、神格種と言う存在の恐ろしさは森で嫌というほど味わわされた。食料と言われても頭から食われるのならまだマシであろう。
恐らく人間の知力には想像も出来ないほど凄惨な運命が待っているはずだ。
「それで合格者は?」
この状況においても左肩でくつろいでいるマリモが尋ねると、老人は懐に手を入れた。
「次のステップに進める」
そう言って老人が取り出したのは古びた小さい鍵だった。
赤錆でくまなく覆われており、用を成すかも分からない。
老人は、正一に歩み寄ってくると鍵を差し出してから言った。
「次にやるべきはこの街で起きている事の解明だ。東の町外れに図書館がある。そこに行って資料を読むといい」
正一はマリモに視線で確認を求める。
この鍵に触れても大丈夫かどうかを。
最早ここまで来ると何が安全でそうでないかの判断は、正一につける事は出来ないのである。
マリモが小さく頷いたのを確認してから正一は、老人の差し出すカギを受け取った。
錆のじゃりじゃりとした感触は、まるで紙やすりでも触っているようだ。
「これはゲームってわけか」
鍵を握り締めて正一が聞くと、老人が嬉々として答えた。
「言ったろ。見極めておるのさ」
「お眼鏡にかなうと拝謁の機会でも得られるのかな?」
無論そんな物を得たくはない。しかし老人は、人差し指を立てて自身の唇にあてがった。
「もっと素敵な物さ」
そのつぶやきが虚空に消えゆくとともに老人の身体は無産に大気へ溶けてしまった。
人ならざる者に渡された錆びついた鍵。
これがゲームなら宝の在処か、もしくは極悪難易度の隠しダンジョンへの入り口だ。
ゲームなら死んでもやり直しがきく。しかしこれは現実だ。
一度死ねば二度とやり直す事は叶わない。
異形の言葉を信じて、敷かれたレールの上を走るか。
それとも線路を降りて自分の足で歩いてみるか。
「罠だと思うか」
「さぁな。連中の場合、遊ぶのが好きな奴も多い」
それならこれはきな臭いティーパーティーへの招待状という訳だ。
「引き返すのが得策か?」
「それは無理だろうな。この街から出るのは容易じゃないぞ。数え切れないほどの視線を感じる」
「そうか?」
目を閉じて気配を探ってみても視線の類は感じられない。
余程気配を隠すのが上手いのか、それともこの世界でなら魔法の類でそう出来るのか。
「人間の視線じゃない。今のお前だと感知は難しいだろう」
つまり選択肢は存在せず、向こうの意志に従う以外の道はない。
「じゃあこの趣味の悪いゲームに付き合うしかないってわけか」
それならせいぜい付き合ってやろう。
そして目的を遂げてやる。
正一は、腹を決めると東を向いて歩き始めた。
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