第12話「リゼル」

 リエラが居るという東リュベイル病院は、規模で言えば日本の総合病院と何ら見劣りしない豪勢な医療施設であった。

 五階建ての白い石造りの外観は、清潔感に溢れ、内装も床一面が大理石で覆われている。

 その院内を何十人という白衣姿の医師と数倍の看護婦たちが忙しそうに動き回っている。

 入ってすぐにある患者の待ち合い場もやはり日本の病院と同じで、患者の大半は老人だ。

 豪勢な宝石を纏う者、継当てをした服を着ている者。貧富に関係なく医療行為を受けられる事実がバルツ共和国の高い民主制を表していると言えるだろう。

 魔法の有無はあるとは言え、この世界の技術水準と同等の頃の地球に、一般市民でも富裕層でも分け隔てなく診察を受けられる総合病院という物はあったのだろうか?

 正一は、そんな事を考えながら受付に向かい、そこに立っている看護婦に声を掛ける。


「すいません。俺要正一って言います。リエラという女性と待ち合わせしてるんですが」

「はい。話は聞いています。三階の入院病棟に」


 正一は、看護婦に会釈しながらその場を立ち去ると指示通り、三階へと向かった。

 だが三階の入院病棟に足を踏み入れた途端、正一の身体は鉛で縛り付けられたように硬直する。

そこは、一階の空気とはまるで一切が異なっていた。

 肌を突き刺す異質な気と肩に乗りかかる虚ろな静寂。

 泥水のように淀んだ空気が吸い込むたびに体内の生気を絡め取り、呼気と共に外へと持ち去ってしまいそうだ。

 窓も一階とは比較にならないほど少なく、目を細めなければ先も見通せそうにない。


「カナメさん!」


 リエラだった。

 彼女は正一を見つけると手を振りながら近づいてくる。

 最初はリエラの表情が分からなかったが、彼女との距離が縮まると幼子が両親と共に居る時のような安堵がその顔からは、伺い知れた。


「ごめん。遅くなって」

「いえ。こっちです」


 リエラが案内したのは廊下の突き当たりにある病室だった。ドアの隙間から暗澹とした気が漏れ出しており、開ける事も憚られる。

 正一は、生唾を一塊飲み込んでからドアを開いた。

 病室と呼ぶのは、異様過ぎる光景が正一の視界を支配する。

 部屋の中にあるのは鉄格子の牢屋だった。等間隔に三つ並んでいる内の左側に一人の少女が膝を抱えて座り込んでいる。


「妹のリゼルです」


 リエラの紹介と合わせるようにリゼルは、顔を上げた。

 きっとこうなる前は、さぞ美しかったろうと確信させる顔立ちだったが、今やその面影を感じる事は出来ない。

 可愛らしいピンクのネグリジェを着ていても、どれほど髪を綺麗に梳かしてあっても、リゼルの姿は、まるで死者を強引に動かしているかのような活力のない風体である。


「来りに我ら。そう。アツムトの足元、あし。もと。藻が藻が。キリロ人。アザム!!」


 リゼルは、小さな唇を細い指で弾きながら延々と意味を持たない言葉を呟き続けている。きっと森から帰ってきて以降ずっとこの状態なのだろう。

 正一は思った。確かにこれは死なれるよりも残酷であると。壊れている最愛の人に寄り添い続ける事がどれほど修羅であるか。

 こうして目の当たりにすれば、例え我が身を死に捧げようとも、救いたいと願うリエラの想いが痛いほどに伝わってくる。

 どんな言葉を掛けてやればよいのか、許容するには膨大過ぎる現実を前にいよいよ正一は見失ってしまった。


「森の中の小娘よりも酷いな」


 左肩から伝わってくる残虐な言葉。無遠慮な態度に、正一の怒気が飛んだ。


「マリモ!」


 しかしリエラは、マリモの辛辣な発言にも苦笑を浮かべてから、どこか腑に落ちたかのように息を漏らした。


「やっぱり私もこういう状態だったんですね。カナメさんに意識が混濁してたって言われて、もしかしたらって」


 こうなるかもしれないという恐怖を前にしても、それでもリエラは森に入ったのである。

 鋼の意志とは例えでよく言うが、正真正銘その言葉が似合う人を正一は初めて目にした気分だった。

 それでも森から生還したとしても、自分がこうなってしまうのではという恐怖はきっとあるはず。正一はそれを取り除いてやりたかった。


「でもリエラは、館に入ったら治ったから」


 なのに上手い文句はまるで浮かんでくれない。

 不安を彼方へ払うような言葉を見つける事が出来ない。

 自分の芸のなさを恨めしく思いながら正一は、リゼルを見つめた。


「妹さんは……ずっとこうなの?」

「はい。両親は開拓者で早くに亡くしたんです。それで姉妹二人でずっと……だから妹は私に楽をさせようと……」


 リエラと過ごした時間は、短い正一だったが、それでも分かる事はある。きっと妹想いの姉と姉想いの妹で、仲睦まじい姉妹だったのだろうと。

 リエラがそうであるように、リゼルもまた命を賭しても姉の為に何かをせずにはいられなかったのだ。


「森の調査なんて危険だって竜神様も言ってたのに……調査団は調査を強行したんです。私は、あの森に入って竜神様の言葉に納得出来ました。あの森に入って、あそこに居るモノ達を見て。あれは人が手を出していい領域じゃなかった」


 樹牙竜。たしかに彼ならマリモ同様あの場所の危険性は知っているはずだ。

 しかしそれでもマリモが言う様に人間は、未知という物に引かれる性分なのだろう。

 けれどその言葉を否定したのは、他ならぬマリモ本人であった。


「そもそも腑に落ちんのは、調査隊が何を調査しようとしていたかだ」

「それはマリモも言ってたろ。人間は未知に」

「正確には、利益を生む未知にだ。調査団は全員この状態なのか?」


 マリモの問いにリエラが頷いた。


「ええ。症状の重さには個人差がありますが。中には軽く済んだ人も居て、今はのどかな場所で静養しているとか」

「んーん。分からんなぁ」


 そう言うとマリモは、腕を組んだまま唸り出してしまった。

 やはりマリモには、何か思い当たる節があるのだろう。でもこれを素直に聞いたところで話すとは思えないし、かと言ってそれとなく探り出すという策にも乗って来ないはずだ。

 こうなってくると正一の経験上、最善手は真正面から行くに限る。


「何がだよ」


 正一が問い掛けると、マリモは小さな手を教鞭の様に振るいながら語り始めた。


「あの森の化け物共は、まぁ確かにグロテスクな見た目してるが、別に見ただけじゃ精神は病まんだろう」


 少なくとも正一は、あの森の怪物たちを見て相当『来るモノ』があった。

 今回は、発狂こそしなかったが、それでもマリモが居なかったらもし森を生きて出られてもまともな状態ではいられなかったかもしれない。


「個人差あんじゃねぇの。そこは」


 正一の反論に、マリモは首を横に振った。


「あの森に入った者が精神を病むのは、森の主である煤の生み出す魔力のせいだ」

「だったら魔力にあてられたんだろ」


 正一の推理にマリモは、リゼルを見てから反証を唱えた。


「こいつからは、奴の魔力の残滓は感じられん」

「じゃあ別の原因があるって事か」


 その正一の問いに、会話を静観していたリエラが割り込んで答えてくる。


「それはお医者様も言っておられました。精神に影響を及ぼす魔力の痕跡はないと。だから私は森で余程恐ろしい事が」


 つまり現状では、何が原因で精神を破壊されたのかは分からない。それを特定するのも大事だが、それ以上に重要事項はリゼルをどう治療するかだ。

 少なくとも檻に閉じ込めておくのは治療ではない事ぐらい、専門的な医療知識を持たない皆正一にも理解出来る。


「マリモ、治療方法はないのかよ」

「この手のを治す方法は、あるにゃあるが」

「あるにゃあるが?」

「ないにゃない」

「どっちだよ」


 マリモの態度は、いつものように大事な事を隠している、というよりはどうすべきか迷っているという風だった。

 これを急かしてもいい答えは返ってこない。

 正一は、黙ってマリモが口を開くのを待つ事にした。


「アルバンの街に行ってみるか」


 暫し待ってようやく得られたマリモの提案だったが、リエラの顔から血の気が引き、あの森に住む悍ましい何かでも見たかのように慄いた。


「そ、そんな危険な!」


 リエラでも知っているという事は、この世界の一般常識。恐らく森以上に危険な場所なのだろう。

 既にそれは理解出来た正一だが、改めてリエラに尋ねる事にした。マリモと違って知っている情報を隠す様な事をしないからだ。


「危険なの?」

「ええ。アルバンの街は三十年前に隔離されたんです」

「隔離?」


 意味を測り兼ねる単語の登場に正一は訝しみながらも続きを催促する。


「どういう事?」

「世界から完全に隔離されたんです」

「詳しい事は?」

「それは分かりません。ただあの街で何かが起こったそうです。詳細は政府の中でも極一部の高官しか知らないとか。それでもあの街は隔離されたんです。何千人もの人々ごと」


 ただ事でないのは確かだ。一体全体どうしてこんな世界に来る羽目になったのか自分の運命を呪い始める正一とは対照的に、マリモはどこか合点がいったような顔をしている。


「なるほど。俺が封印されている間にそんな事になっていたのか」


 やはりマリモは何かを知っている。そしてその情報を意図的に隠している。

 アルバンが森以上に危険な場所なら、このマリモの秘密主義が正一のアキレス腱になりかねない。

 それに現在樹牙竜からも、ドラグン地区からは出ない様に厳命されている。もしもアルバンがヒュマン地区にでもあったらそれこそ目も当てられない。


「リエラ、そのアルバンってどこにあるの?」

「フェアリ地区です。ここからずっと北にあります……」


 場所は、フェアリ地区。聞き覚えのない場所だ。

 フェアリという事は妖精とか精霊とかその辺りが統治していた場所なのだろう。

 少なくともヒュマン地区に行くよりはマシそうだ。


「フェアリ地区ってどんな所? 俺来たばかりでこの国の事全然知らないんだ」

「フェアリ地区は、以前妖精が統治していた事からこう呼ばれています。自然信仰や魔力との結びつきが強く、腕のいい魔導師を多く輩出している土地です。気風としては大らかな人が多いですよ。自然が色濃く残っているので観光地としても人気ですね」

「ドラゴンへの信仰は?」

「ドラグン地区程ではないと聞きますが、それでも敬意と信仰を持っているそうです」


 恐らくフェアリ地区にも正一とマリモの話は行っているだろう。

 二百年前、マリモの封印に関してもドラグン地区以外は参戦したという事から、恐らく好印象は持っていない。

 ヒュマン地区程でないかもしれないが、それでもノーリスクで行ける場所でもなさそうだ。


「マリモ。そこに確実に方法はあるのか?」


 正一の問いに、マリモは破顔した。


「あそこならな」


 ならば選ぶ道は一つ。正一が腹をくくろうとすると、リエラの怒声が耳をつんざいた。


「マリモさん! あなたは、バリスタや大砲で撃たれても死にそうにないからともかく」

「失礼だな。確かに死なんが」

「カナメさんは普通の人間なんですよ! いやまぁ大概戦闘力おかしいとは思いますけど。化け物染みてはいますけど」

「失礼だな。まぁ認めるけど」

「あそこには精霊族ですら近付く事が出来ないんですよ! 一応ただの人間であるカナメさんが行ったらどうなるか!」


 心配してくれているのは分かるのだが、どうにも言葉の端々に悪意が籠っているとしか思えない様な表現を入れ込んでくる。


「リエラさ、妹からよく毒舌って言われなかった?」

「……それはともかく!」

「言われてたな」

「言われておったな」

「いくら妹を助ける為とは言え、私の命の恩人を死なせるような真似は」


 誤魔化す様な素早い切り返しに、正一の口元に微笑が咲いた。きっとこんな状況でなければ彼女とは、毎日でも楽しく過ごせるはず。

 それだからこそ正一にとっても価値があるのだ。危険を冒し、命を張るに足る、そんな価値がリエラという少女には存在する。


「じゃあ報酬くれる?」

「報酬?」

「俺が命を張れるに足る報酬をさ」


 リエラは今まで隠していた戸惑いを露わにした。そう、きっと彼女の天秤は揺れている。どちらにも傾き得るが、それでもリエラの選びたい皿は決まっているのだ。

 だったら、そちら側に重石を乗せてやればいい。きっかけを正一が作ってやればいい。


「本当は、俺に行って欲しいんでしょ? そこに行って得られるかもしれない物に賭けたいんだろ?」

「それは……」


 リエラの本心は分かり切っている。どれほど懸命に殺した所で、抑え込んだ所で漏れ出す声は他人の耳に届いてしまう。

 そんな助けを求める声を無下に出来る程、要正一は、割り切った生き方の出来る男ではなかった。


「俺はやってもいい。でもさすがに奉仕をするつもりはねぇよ。対価は払ってもらう」


 叔母から言われた言葉がある。

 タダで賭けられた命ほど無価値な物はない。

 どんな対価を払ってでも、その言葉を引き出せるほどの覚悟が賭けられる側にも必要だと。

 そうでなければそれはただの安い言葉に過ぎないと。

 そしてそんな相手でなければ命を懸けるべきではないとも。


「……なんでもあげます」

「文字通り?」


 意地の悪い事を聞いている。普通なら戸惑ってもおかしくないはずだ。

 それでもリエラに宿る意志に微塵の迷いも見られなかった。


「こんな私で良ければ心も、体も、純潔も全てをあなたに捧げます。一生あなたの奴隷にしてくださって構いません。どんな扱いでも私は笑顔で受け入れます。一生をあなたの物に」

 上辺だけではない。そう納得させるだけの説得力がリエラの言葉にはある。


「いらない」

「……私じゃダメですよね。女のとしての魅力なんて」

「いや。リエラは可愛いよ。でも奴隷だのは、ちょっと俺には重いや」


 彼女にはそうするだけの、正一が命を賭けるだけの価値があるのだと。

 だったら対価は、きっとこれぐらいで十分だ。


「俺、探偵やるって言ったでしょ。うちの事務所の秘書をやってくれないか? それで毎日飯を俺に作ってくれる事。それから暇な時は、ちゃんと女の子として俺とデートしてくれる事」

「それは……どういう」


 リエラは、正一の条件が信じられない様子だ。

 命を賭けるに足る対価。それにはあまりに安すぎる条件だと。

 だがリエラにとってはそうでも、正一にしてみればこの上なく上等な報酬だった。


「わざわざ全部をくれなくてもいい。リエラは、そのチャンスを俺にくれないかい?」

「カナメさん……それって」

「だってさ。無理やりなんて俺も楽しくないよ。俺、こっちの方来たばっかりで友達も居ないからさ。まずは友達から」


 正一は、呆然としているリエラに手を差し伸べた。

 彼女は、まるで夢見心地の瞳で正一の掌と顔とを交互に見ている。


「つーことでどうかな」


 満面の笑みを向けるとリエラは、その青い瞳から宝石のような潤いの輝きを零しながら正一の手を握り締めて来た。

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