第2話「逃走する少年と毛玉」

 異世界に来てしまった。

そんな夢想でしかありえないはずの出来事が現実として正一に突き付けられている。

 目の前で不遜な態度でいる掌大の毛玉もちゃんとした生き物なのだろう。

先程倒した男達も本当に兵士なのだろう。

正一が封印を解いて毛玉を解放してやったのも。

外国どころか、まったくの異世界に来た事も。


「どうすりゃいいんだ」


 きっと叔母さんが心配している。

今すぐ帰れるなら誤魔化しようもあるだろうが、このまま夜にでもなったらまずい。

失踪扱いで警察のお世話になるし、下手したら誘拐騒ぎにもなりかねない。


「おい小僧」

 そんな正一の事等お構いなしと言わんばかりに、毛玉は相も変らぬ尊大な態度で、無遠慮に語り掛けてくる。


「この世界の事情をいろいろと教えてやろう。もっとも俺も封印されてからの二百年の事を全て詳しく知っている訳ではないがな。封印の隙間から多少聞こえてはいた。その情報を教えてやろう」

「そんな事言っても」


 まだ状況が呑み込めないし、何よりこの毛玉がそこまで信用に足るという保証もない。

大体兵士たちの反応からすればこの毛玉は、相当に危険な怪物という可能性だってある。


「おい、そろそろ目を覚ますぞ」


 思案の海に沈み掛けていた正一が意識を現実に引き戻すと、先程倒した二人組が唸り声を上げていた。

 ここが異世界ならもはや話して分かるという次元の話でもない。

毛玉は、正一を異世界から来たと言うが、この二人がその話を信じる保証はどこにもないのだ。


「なにがどうなってるんだよ」


 とにかく逃げるしかない。

正一が兵士二人に背を向けて駆け出すと、許可もなく毛玉が正一の左肩に乗って来た。


「それは俺にも分からない。だが俺はお前に感謝するぞ人間。封印を解いてくれたからな」


 危険な奴かもしれないが、事情を理解しているのも、まともに話が通じるのも今はこの毛玉しか居ないのだ。

だから少なくともしばらくは毛玉の提案を受けて現況を乗り切る以外の道はない。

これが正一の下した結論だった。


「それでお前は俺にいろいろ教えてくれるんだよな。ならまずどこに逃げればいいか教えてくれ」


 正一の問いに毛玉は、ニッカリと牙を見せていた。


「この近くにイベルンという大きな都市があるはずだ。そこに行けばいい」

 そう。今は、この毛玉に頼るしかない。

正一は、毛玉の指示通りに走り、ようやくイベルンという街に辿り着いたのは、足が震えて立っている事も出来なくなる程になった頃だった。

 そこは煉瓦造りの建物が数えるのも馬鹿らしくなるぐらい立ち並び、土日の渋谷の駅前と同等か、下手すればそれ以上の人が白い石畳の上を流れていく。


「おお、二百年前でも活気があると思ったが、これほどになっているとはな」


 感嘆の声を漏らす毛玉だったが、体力さえ残っていれば正一も同様も反応を見せたい所だった。


「たしかに……すげーな。ゲームみてぇ」


 街並みもそこを行き交う人々の服装もよくあるファンタジーゲームのそれである。

もしもゲームの世界に入り込んだと言われても、今の正一なら鵜呑みに出来る自信があった。


「ゲーム?」


 途端に毛玉が訝しんだ声を上げた。


「どんなゲームだ。ボードゲームとか?」


 毛玉との会話の流れから察するにこの世界には魔力はあるらしい。

つまり魔法か魔術、それに類する何かが存在しているのだろう。

 だが文明レベルは明らかに地球よりも劣っていそうだ。

街並みを確かめてみると街灯らしきものが道路の脇に規則正しく並んでいるから中世よりは進んでいるように見える。

 魔力があるのだからガス灯や電気灯等ではなく、魔力灯みたいな物だったらやっぱり中世レベルなのかもしれないが。

活動写真と言われていた頃の映画ぐらいはあってもおかしくなさそうだが、多分テレビもテレビゲームも存在していないだろう。


「ああ、いや。別に」


それその物の概念を知らない相手に、上手く説明出来る気もしないので、正一は毛玉の疑問に答えるのを躊躇った。


「気になるぞ。話せ」


 だがそれが余計に毛玉の好奇心をくすぐってしまったらしい。こうなると面倒くさそうなのは、出会って数時間の付き合いでも分かる。

何か良い別の話題がないかと正一が模索すると、意外にも早くそれは見付かった。


「それよりお前、名前は」

「名前?」


 首がないためなのか、毛玉は、身体ごと傾げた。


「教えてくれよ。俺は要。要正一」

「教えるのは構わないが、俺の名前は人間には発音出来んからなぁ。通称みたいのならあるが、どうしようかなー」


 だが名前がないのも面倒である。しかし毛玉を見るに教えたくないというよりは、教えても正一には呼べないから困っている様子だった。

それでもいざ彼を毛玉と呼ぶと怒りそうなのは、容易く想像出来る。

こうなると手っ取り早い手段は一つだ。


「じゃあマリモでいいか」


 自分で呼び名を付ける。正一としては見た目に合ったネーミングだったが、当のマリモ本人は気に食わない様だった。


「おい、なんだそのキューティーな名前は! 威厳もエレガントさも全然ないじゃないか!」

「ていうかお前の言葉が分かるようになっても結局お前ルー語なのな」

「なんだそのルー語ってのは! それよりマリモってなんだ! お前達の世界の言葉なんだろう! どういう意味だ」


 正直に答えると怒るだろう。

 しかしもはや嘘を付くのも面倒になった正一は白状した。


「丸い藻」

「まんまじゃないか! 大体俺が藻だと! 史上最強と言われたドラゴンの俺が」

「どの辺がドラゴンで史上最強なんだよ」


 史上最悪の人格破綻者というなら話も分かるが、今の所ゆるキャラのキーホルダーが命を得たとでも言った方が通りは良さそうだ。

 それはマリモ本人も理解しているのか、正一を真っ直ぐに見つめていた視線を逸らした。


「ふん。今は封印の影響でこうなっているだけだ」


 言い終えた途端、毛玉の眼の色がどす黒く輝き出した。


「だが正一とやら、お前もノーマネーで情報を得られるとは思っていないだろう?」


 性根の部分は、やはり聖獣というより、カテゴリ的には魔獣の方が似合う畜生だ。


「なんだよ、それ。何が欲しいんだ」


 正一が尋ねると、毛玉は猫のように卑しく笑んだ。


「契約だよ」

「契約?」


 こういう手合いが求めてくるのはゲームや漫画だと魂だとか命だが、封印されていた本物の怪物だという事を考えるとそれではすまない可能性もある。


「見た所、お前には魔法の素質がある」

 先程兵士を倒した時にもマリモは言っていた。正一にはそんな自覚は毛ほどもないし、日本に居た頃も魔法なんて使えた試しがない。

 幼少の頃は、色々な技を試してみた。

 腕を伸ばそうとしたり、手からビームを撃ってみようとしたり、小学校高学年になってからは、魔法の呪文を詠唱してみたりするのに、はままった時期もある。

 もしそんな才能があれば十七年間の人生で行ってきた必殺技の真似事のどれかが成功してもおかしくはないはずだ。

 そうなると今正一に魔力があるなら、それは潜在的な物ではなく、この世界に来た途端使えるようになったという事かもしれない。

 マリモの知識量は恐らく本物だ。

 嘘の知識を教えているとは思えない。

 嘘を付いている時に出る特有の卑しさがないからだ。

 もっとも知識を教えてくれる時以外には、ぷんぷんと出ているのだが。

 魔力を寄こせという話で、もしこれが生命に直結する事態なら知識を得てから契約する必要がある。


「魔法ってこの世界の人間なら誰でも使えるのか?」

「いや。天才と呼ばれる人間でも修業せんと使えんな」

「魔力は?」

「個人差がある。まぁ持ってない人間でも後天的に魔力を高める方法はいくらでもある。先天的な方が優秀な魔導師になる場合が多いが、魔力を持たずに生まれながら大魔導師と呼ばれる程大成した人間もいる」


 少なくとも努力もなしに身に付く力ではない。そして正一の出自を考えれば先天的に魔力を持っているとも考え辛い。

 こう考えると次なる質問は決まっている。


「何らかの方法で大量の魔力を一瞬で得る事って可能?」

「不可能じゃないが、相応の代償は伴うな」

「少量なら?」

「まぁそこまで負担はかからんな。永続的となるとまた話は変わるが、まぁ好き好んでやる人間は居らん。そうやって手に入れた魔力は体から抜けやすいもんだ」


 正一が今どれほどの魔力を得たのかは分からないが、絶対量はかなり少ないと見ていい。そして手っ取り早く手に入れると体から抜ける事もある。


「魔力がなくなるとどうなる」

「体力と精神力、両方に直結してるからな。死にはせんが相当疲れるはずだ」

「そうか……」


 嘘を付いているようには見えない。少なくとも死ぬ事はないという話なら、多少魔力を与えて問題はないと言える。


「どうやらお前の住んでいた世界には魔法の概念はないらしいな」

「どうして分かるんだ」


 そう聞いたが、ここまで質問攻めにされたら誰しもがその結論に至るだろう。だがマリモが繰り出した回答は正一の予想とはまるで違ったものだった。


「お前の頭の中を覗かせてもらった」

「おい! 覗きは変態の始まりなんだぞ!」

「そう怒るな。お前の世界の事は、大体理解した」


 つまり今までの思考は、ダダ漏れ。それどころか恐らく深層心理や記憶の部分までも男ぞ枯れた事になる。

 虚偽の程は確かではないがやはり嘘を言っているようには見えない。そして同様にこれは脅迫でもある。自分を騙す事は出来ないというマリモなりの。

 こうなってくると言いたい事は素直に言った方がいいだろう。


「ていうか普通に喋るのか、ルー語なのか統一しろよ」


 正一の気になる点を指摘してみたが、マリモは相手にする様子もなく話題を切り替えた。


「お前は鍛えたら相当なものになる。まぁ今も身のこなしは素人とは思えんがな。それなりに武芸を嗜んでいたようだ」

「まぁ色々あってな。それなりに」


 物心付くか、付かないかの頃。正一の両親は、事故で死んだ。それからは唯一の親類で母の妹だった当時まだ高校生の叔母が正一の面倒を見てくれたのである。

 そして叔母は、正一を強く育てようと要家に代々伝わる要流戦闘術を叩き込んだのだ。

 厳しくもそれ以上に優しかった叔母。きっと彼女は今頃心配しているのだろう。

 彼女にだけは心配をかけたくない。そう願って生きてきたはずなのに――。

 正一の暗澹と焦燥を除いたのか、察したのか、語り掛けるマリモの声音に明るさが増していた。


「基礎の下地は出来てる上にこの魔力だ。まぁ本来の力を取り戻した俺には及ばないが人間では破格だ。鍛えたら大抵の連中よりも強くなれる」


 自分を一番に置く不遜さは相変わらずだが、正一の実力を随分と高い評価しているらしい。だが正一にとって気になるのは、プライドが高く性格の悪い怪物が何故そんな事をするかだ。


「なんだよ。褒めてどうしたんだ?」

「お前を俺のボディーガードにしてやる」

「断る」

「断るな」


 なんでこんな憎たらしい変態毛玉を守ってやらねばならないのか。それをするメリットがあるなら聞かせてもらいたいものだ。


「何で俺が毛玉の護衛をしないといけないんだ」

「この世界の情報をくれてやるからさ。それに本当にいざという時は、俺が守ってやる」


 ボディーガードされる側がいざとなったら守ってくれる?

 完全に矛盾している。

 ボディーガードを守れる実力があるなら最初から自分で自分を守ればいい。

 正一は、左肩で自信ありげにしているマリモを侮蔑の視線で見つめた。


「どういう事だよ」

「封印の影響で今はこんな状態だがな、それでも短時間なら本来の姿に戻れるだろう。そうなったら俺は誰よりも強い。この世界を滅ぼしかけた事もある」

「じゃあ今の内に握り潰しとくか」


 正一は、肩に乗っていたマリモを鷲掴みにすると渾身の力を込めた。

 毛並みはふさふさとしているが本体は、意外と固くゴムボールの様である。


「スタァァァップ!」


 とんでもない悪党でもとりあえず弁明させてやるのが法治国家に住んでいたものとしての情けだろう。

 正一は指に込めた力を僅かに抜いて、マリモを眼前まで持ってきた。


「なんだよ」

「何でキルミー!?」

「人間滅ぼそうとしたんだろ。なら人間に滅ぼされても文句は言えないだろ」

「ふざけるな! こんないたいけなファーボールを」

「自分で言うな」

「握り潰すだと!? 言っとくが俺には内臓とかぎっちり詰まってるからな。手で潰したらぶちゃっあってなるぞ! ぶちゃーって」


 それはさすがに勘弁願いたいが、たとえ異世界であろうと平和を守れるならそれぐらい手を汚すのもやぶさかではない。


「だから頼むから待ってくれ! 俺が悪かった! 偉そうにし過ぎた! とりあえず話し合おう。対話が重要だろうが! トークイズジャスティス!」

「お前が話好きなのは分かったから要点をまとめろよ」

「あのなぁ二百年ぶりに話すんだぞ。そりゃ話したい事もあるだろうさ。饒舌にもなるだろうさ」

「で?」


 そんな事情知ったこっちゃない。

 そう言わんとする正一の口振りだったがマリモは気にも留めていないようで軽やかに破顔した。


「だからとにかくここで変身する訳にも行かないが、お前がどうしょうもない時は助けてやる。だから普段はお前が俺を守ってくれ」

「世界一強いなら俺の力はいらないだろ?」

「だから言ってるだろ。全力を発揮出来るのは一時的。基本的にはこの姿のままだ。そしてこの姿じゃそれこそ人間の子供にもかなわん」

「その代りに俺にこの世界で生きていく術を教えてくれると」

「そういう事だ。無論封印の影響は徐々に消えていく。完全に消えたらお前が元の世界に帰る方法も一緒に探してやろう?」


 元の世界。確かに叔母は心配しているかもしれない。

 だがそれ以外に正一を待っている人は居ないはずだ。

 知人は居ても友人と呼べる相手は居ない。恋人も居ないし、好きな人も居ない。

 代わり映えのない日常を変える気力もなく、漫然と生き続けるだけの毎日だった。


「悪いが記憶の断片は見えちまった。まぁそれなりに苦労はしてきてるようだが、悪い思い出ばかりという訳でもないらしい」


 マリモの言葉には謝意の念が僅かながら混じっている。正一の人生を垣間見たのは本当に不可抗力なのだろう。


「帰りたいんだろ? ならお前にとってもいい条件なはずだ」

「それは……」


 上手く言葉には出来なかった。

 付き合いの短い、まして人間ですらない怪物に語るのがためらわれるのが半分。

 自分の心だというのに真意をくみ取れないのが半分。

 また思考を呼んだのか、それともそれなりに長く生きているらしいからか。マリモの表情に初めて見る柔らかさがあった。


「まぁいいさ。この世界に残るなら恩は返そう」


 考えもしない選択肢だった。

 敢えてこの世界に残り続ける道もある。

 気になる漫画やゲームの続きもあるが、所詮は擬似体験。

 今居る本物に比べれば鼻で笑える代物だ。


「それに俺は、人間の魔法の知識もある。強くならなきゃこの世界じゃ生き残れないぞ。それこそRPGとか云う奴と同じだ。町の外には魔物がうようよしてる場所もあるし、俺もそうそう助けてはやれん」


 どうやら正一の頭を覗いた時に大分地球に関する知識も得た様だ。

 この特異な能力を前にすれば、確かにこの毛玉が相応の力を持っている事は理解出来る。

 そしてもしもこの毛玉に似た生物が敵意を持って襲ってきたら、それは確かに恐ろしい事だ。

 さらに言えば先程叩きのめした兵士の件もある。

 あれだけやられて、その上マリモの封印を解かれたのだ。特にあの髭男だと、血眼で草の根の間すら探しかねない。


「なぁ、悪い話じゃないだろう」

 マリモの甘言に、正一の警戒心は増していた。

 正一からすればメリットずくめの話だが、マリモ側にそこまでの物があるのだろうか。

 ボディーガードと言っても正一は、所詮シロウトに毛が生えた程度の物。

 それにここまで親身になるには訳がある。そう考えざるを得ない。


「裏がありそうだけどな。俺を魔法使いとして鍛えて食べごろになったら食うつもりとか」


 正一としては九割方、冗談のつもりの言葉だった。なのにどうだろう。この毛だるまを突破した汗が雨の様に流れているのは。


「んなことするわけないじゃーん」

「おい汗凄いぞ!」


 本当に信用しても良いのだろうか。

 適当なところまで育てて、自分の力を取り戻すための餌とする可能性もある。

 そしてこの考察ですら恐らくマリモに筒抜けている。


「とにかくだ。お前一人じゃこの世界の言語もままならんのだぞ。まぁ仲良くやろうや」


 こんな場所で意思疎通の手段を奪われたら、正一の今後は想像に難しくない。

 かなり直接的な脅迫だ。選択肢はない。なら敢えて乗っかり、そしていざとなれば


「分かったよ。じゃあよろしくなマリモ」


 この化け物を殺す――。

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