第3-5話 金曜に孤鳥は飛びたつ

 翌、金曜日。


 蒸し暑さと、就寝直前にかかってきたクラスメートの電話の内容が相乗効果で俺の安眠を妨害したせいで、結局俺が活動を開始したのは普段の起床時間から遡ること数時間前のことだった。


 朝食を諦めて早々に家を出ようとしたところ、既に台所には母親が立っていて、いつもとは違う時間帯に起きだした俺に驚く様子もなく、母親は俺を食卓に座らせた。


 あー、母上。俺はちょっと今日は急ぎ学校にいかねばならんのだが。


「朝ごはんより大事な用事? なんなら、母さんが学校に文句を言ったげる」


 ……あっはい。そうですか。


 こうなればテコでもきかないのは、生まれてこの方この人の世話になってる身にはよくわかる。諦めて手を合わせると、改めて並んだ皿を眺める。

 食卓には、玉子焼きに大根おろし、目指し、ワカメの味噌汁に炊き立ての銀シャリ。


 物ぐさな母親には珍しい、そこそこに手間のかかった朝食であった。

 玉子焼きを口に放り込む。醤油を隠し味にした甘さ控えめの玉子焼きは、あまり料理が得意でない母親の手料理の中で、数少ない逸品だ。小学生時代に褒めて以来、弁当にも必ず入っているレギュラーメンバーである。


 煮干しの効いた味噌汁を啜ると、胃にじんわりと熱が流れ込んでくる。

 その感覚に、思い出した。以前にも、確かこんなことがあった。


 それは、小学生の頃、あいつが死んだことを俺が知った翌日のことだった。

 あの日も、早起きをした俺を呼び止めたのは、台所で朝食の用意をする母親だった。


 ということは。次に来るのは……

 一通り飯をかきこんだ後、廊下で鳴る電話。ああ、やっぱりそう来るか。


「おう」


 珍しいじゃないか、朝に電話なんて。親父殿。


「なんか、落ち込んでるってな。母さん心配してたぞ。ナナちゃんの時以来だって」


 気のせいだよ。別に誰かが死んだわけじゃない。


「中学生が落ち込む理由に、人死になんて重すぎるんだよ。おまえはもっと、日常的なことで悩むべきだと、父さんは思うがね」


 それで、御用件は? わざわざ単身先から国際電話をかけてくるんだ。何か言うことがあるんだろう?


「来週に雪組の新プログラムのチケットが売り出されるから、ペアで取っといてくれ。朝一で電話しないと繋がんないからよろしく」


 ああ、そういうことですかよこのクソ親父! いい年こいて夫婦でヅカデートとかお熱いことで。わかったからこれでいいか。こちとら登校前の忙しい身なんですがね。


「ああ、それと」


 なんだよ。これ以上のおつかいなら勘弁してくれよ。


「ナナちゃんを、いつまでも言い訳に使うなよ。んじゃあな」


 思考が白くなる。親父はのんびりした口調のまま、電話を切った。


 ――くそ。もうちょっと手加減しやがれ。最低だな、このクソ親父。


 台所から母親が追い打ちをかける。


「今日は、トンカツ揚げるから。寄り道せずに帰ってきなさいよ」


 へいへい。善処しますよ。


 まったく。なんでこう、親っていう生き物は変なところで勘が良くできているもんかね。


 ◆  ◆  ◆

 


 両親からの、花屋の前を通りかかったが、シャッターが下りていた。

 いつも箒をかけている森さんの姿もない。新川さんの姿も、見かけない。

 誰もいない道端で、中臣のことで話がある、と独り言を口にしても、全く反応がない。


 俺が登校前に試みた、『機関』の人間との接触は、ことごとく失敗した。


 考えれば、俺は中臣以外、『機関』の誰とも、連絡先を交換していなかったのだった。

 誰かと会えるまで探してまわるか? いや、それは意味がないだろう。

 いつも俺を監視しているはずの機関の人間がいないということは、何らかの理由がある。


 昨日、中臣は『地ならしに手間取った』と口にした。

 ならば、これはその結果なのだろう。


 古泉と『機関』、中臣と『学派』。おそらくはそれが、牽制しあい、そのリソースを潰し合っている。

 おそらくは、中臣が、俺を迎えに来る、その舞台を整えるために。


 それじゃあ、仕方がない。


 俺は、一人、ただの中学生として、世界の脇役として、教室ぶたいに向かうとしよう。



 ◆  ◆  ◆



 なんて、恰好をつけて踏み込んだ教室に、目当ての人物、中臣はいなかった。

 涼宮が三人目の犠牲者と思われる上級生に蹴りを叩きこんで教室に転がり込んだところを見ると、どうやら勇気あるチャレンジャーはまたもや理不尽な涼宮理論の犠牲になったようだった。


 涼宮はぼんやりとその修羅場を眺めていた俺を睨みつけると、何か言いたげに口を中途半端に開けて、だが、すぐさまふてくされたようなアヒル口で席についた。


 なんだってんだ。こちとらおまえと関係ない……いや、関係ないではないが、おまえの日常生活とはノリの違う時空の大問題で頭がいっぱいなわけで、変に日常サイドを引っ掻き回してほしくないもんだ。


 チャイムが鳴り、担任が踏み込み、それでも中臣はやってこなかった。


 一限、二限、三限、四限、昼休み、五限、六限。


 正直、授業の内容など頭に入ってくる気がしなかった。

 言ってみれば俺の今の思考リソースは表面張力ぎりぎりまで水の入ったコップのようなもので、脱脂綿で吸い取るだののイカサマでもしない限りこれ以上はコインの一枚だって投げ込んだら溢れて色んなものが決壊しかねない状態だったからである。


 帰りのホームルームが終わり、三々五々生徒達が教室を出ていく。

 最後まで教室にいたのは、俺を除けば涼宮だった。


「あんた、まだいるの?」


 涼宮が俺に声をかけてきたのは、何日ぶりだったろうか。


 たしか、『機関』に接触された翌日、渾身の涼宮ビンタを喰らったとき以来だったかね。

 ちょいと待ち合わせがあるんでね、と俺は机に突っ伏しながら答えた。

 涼宮はまた朝方のアヒル口になると、ふん、と鼻を鳴らして、教室を出ていく。


 ああ、それがいい。それでいい。


 ここから先は、日常ルートの中学生日記ではなく、たぶん、もっと面倒で生臭いR15ルートの時間だ。


「お待たせ」


 なあ、そうだろう、中臣よ。

 そして、涼宮と入れ替わるように、教室にはいつの間にか、中臣がいた。



 ◆  ◆  ◆



 教室の窓から、夕日が差し込む。

 あの日、体育倉庫近くで俺に手を差し伸べたときと同じように、笑うような口元で、中臣は立っていた。


 相変わらず、存在感のない奴め。


「ああ、この時間軸に僕がいる意味はない。その意味では、存在感などなくて当然なのだろうね」


 ……マジで返されるとは思わなかったよ。というか、随分と印象が変わったな。以前のお前はもっと……


「色んなものに疑問を持っているような、かい」


 ああ、そうだ。いつだって、問いかけから始めるような。断言から入ることが少ないような。そんな奴だった気がする。


「多分、それは正しいんだろう。僕はずっと問い続けてきていた。僕は何をすべきなのか。それが正しいのか。姉さんの代わりに死に残った自分に、何ができるのか。疑問符をつけ続けていた。けれど、その疑問は、解けたんだ」


 あの、七夕の日にか。


「あそこにいたのは、確かに姉さんだった! しかも、『情報統合思念体』によれば、姉さんたちは『未来人』……未来から来たというじゃないか! つまり、未来で姉さんが生き延びることは規定事項なんだ! ならば、姉さんが生きていない過去こそが間違っている! つまり、今を書き換えようとする僕の試みは間違っていない!」


 ああ、やっぱり、そういうことだったか。


 中臣はずっと、『機関』にいながら、涼宮の力を使って過去を覆す計画を立てていたのだろう。

 ただ、おそらくは森さんの言うところの「天秤」が、実行に傾かなかったのだ。


 《神人》が世界を破壊することで、本当に新しい世界が生まれるのか。確証がない状態でその手段をとることは、リターンに対するコストが極めて高かった、そんなところか。

 それが、あの七夕の日に、中臣の中ではひっくり返ったのだ。


 未来から来たという、自分の姉の姿を前にして。

 それを「自分が計画を実行した結果」であると、自分に言い聞かせて。


 なあ、中臣よ。涼宮の力を使って、世界を書き換えられるという保証はあるのか?


「あの『未来人』の存在が、その証明だ。世界を書き換えられなければ、彼女が未来から来られる道理はないだろう」


 ……そうだろう。それしかないのだろう。だって、もっと確固たる証拠があるのならば、涼宮がこんな日常を送ることができるはずはない。


 安全に世界を変えられる確証のある力を涼宮が持っているならば、中臣だけが動くものか。国、より大きな権力、そんなものが動き出すに決まっている。それがないということは、おそらく誰もまだ、涼宮の力の全貌を、理解できていないのだ。


 何ができて、何ができないのか。副作用は。リスクは。コストは。

 中臣よ。おまえほど頭がいい奴が、それを理解していないはずはないだろう。


「……臆病風に吹かれたか、谷口。責任は僕が取る。世界を壊した悪は僕が背負う。それでいいだろう」


 以前、教室で交わしたのと比べて、中臣は随分と硬質で乱暴な口調だった。


 ああ、それがおまえの素だったのか。なら、別に最初からその話し方でもよかったんだぜ。女子からの受けは悪くなったかもしれないが、むしろその方が俺は話しやすかったぞ。


「ふん。まあいい。――僕から開示できる情報は以上だ」


 俺は目を細めて、中臣の顔を改めて心ゆくまで観察した。

 口元を吊り上げて笑みの形にしていた癖に、中臣の目は、少しも笑っていなかった。


 そうだろうさ。中臣。おまえは今、楽しいんじゃない。嬉しいんでもない。ただ、そうせざるを得なかったから、そうしているのだ。


 おまえは「死に残った」と口にした。現代日本語文法にはめったにでてこない言葉だが、そこから伝わる気持ちだけは痛いほどわかる。本来死ぬべきはずが、生き延びてしまった。もっと価値があるものを犠牲にした。その罪悪感と、後悔が、おまえの原動力なのだろう。


 俺はおまえの姉さんとやらがどんな人だったのかを知らない。二人の関係もわからない。ただ、幼い中臣は、それを失うことで、世界を変えちまおうとするくらいにおかしくなっちまいやがったのだと、そこだけはわかる。


 それは、俺も通った道だから。同じ方向を向いているのだから。


 ――なぜ、中臣は、また俺の前に現れた?


 答えは単純。こいつは俺に選択肢を提示しにきたのだ。

 新たな世界がいいか、元の世界がいいか。俺に選べというシナリオだ。


 新たな世界。

 あいつが、■■■■が生き延びて、俺の隣に座っているような。中臣の姉が上級生として東中に通っているような。そんな世界と。


 元の世界。

 『機関』の皆が欠落を抱えたまま、涼宮ハルヒのお守りを永遠に続ける世界と。


「『機関』に未練があるならば、新たに生まれ変わった世界でまたやり直せばいい。そこに、彼女を加えて、おまえ好みの場を作ればいいことだろう」


 もしも、あいつが、『機関』の人間と一緒になったとしたら。


 ああ、嬉々として首を突っ込むに違いない。《神人》に、閉鎖空間に、超能力に、そういうものに目を輝かせて、周りを振り回すほどの行動力を発揮するかもしれない。


 突拍子もない計画を立てて俺に実行役を任せ、俺はそれにやれやれと文句を垂れながら従って、それを中臣が胡散臭い笑顔で眺め、中臣の姉さんがきっと、お茶でも淹れながら俺たちのバカ話をとりなしてくれるのだ。新川さんと森さんがそれに協力したり諫めたりしつつ、古泉一樹のろくでもない計画によって事態は混迷を深め、その解決のカギにはいつも生きる爆弾みたいな涼宮がいて、ヤツに気づかれないように俺たちは秘密結社として暗躍を繰り広げるのだ。


 ……なんて、まぶしい世界だろう。


 天秤が、傾いていく。ゆらり、と。おまえもそれを望んでいるのだろう、と。


 ――そんな非日常的な学園生活を、おまえは楽しいと思わないのか。


 答えろ俺。考えろ。どうだ? おまえの意見を聞かせてもらおうじゃねえか。言ってみろよ。


「さあ、谷口。僕と来い」


 中臣の言葉。それが、さらに、天秤の皿に乗せられる。


 ゆらり。ゆらり。


「――周防すおう七曜ななよも、君をあっちで、待っているぞ」


 かちり。


 その名をもって、天秤の皿は、確かに片方が高く空へと掲げられた。

 それを切り捨てろと。おまえにとって、軽いと断じるべきはそちらなのだと。


 俺は、大きく息をつくと、差し伸べられた手を、緩く振り払った。


 だめだ、中臣。俺は、そちら側には、いけない。


「は」


 中臣の呼気が、奇妙な音を立てた。

 口の端の笑みが、弾けそうなほど引き上げられた。頬を、一滴、雫が落ちた。


「そうか。……おまえも、おまえの傷も、もう、乾いていたのか。僕だけか。姉さん」


 中臣。焦り過ぎだ。未来で姉が待っているのなら、


「うるさい! 谷口! おまえも! あの北高の男も! 姉さんを姉と呼んでいいのは僕だけだ!」


 中臣は叫ぶと、盛大に机を叩いた。派手な音が校舎に響き渡る。

 廊下から、こちらへと向かう足音が聞こえた。今の音を聞きつけたのだろう。教師? このタイミングで?


「まあ、いい。予想していなかったわけじゃない。こうなれば、やることは単純だ」


 そう言って、中臣は半開きになった教室のドアを一瞥した。

 つられて俺も、そこに視線を向ける。


 駆け寄ってきた足音はそこでぴたり、と止まり。


「――おまえを殺して、涼宮ハルヒの出方を見る」


 俺の五感が認識したのは、視覚に広がる涼宮の驚愕の表情と、腹部に広がる熱、濡れた感覚、そして、世界が灰色にトーンダウンしていく浮遊感だった。

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