第1-2話 涼宮ハルヒの自己紹介
当時惚れた女の手をつかみ損ねたせいですっかりダウナーモードになって、滑り止めを含めた私立受験について全滑走大回転を決めた俺は、親の「まあ、学費は安いから悪くないわよ」という気遣いがあるんだかないんだかよくわからないフォローを聞きながら、近所の公立校に進学するはめになった。
最初に後悔したのが、その立地だ。なにせ墓地と火葬場の裏である。いや、厳密に言えば間に住宅地は挟んでいるが、まあ辛気臭いことには変わりない。しかも、よりによってその墓地は、俺にとって因縁浅からぬ場所、虎と馬とがマイムマイムを踊りながら傷口にマスタードを練り込んでくる思い出の地だったのである。というか、そもそも逃げ出したくて仕方なかった我が元母校のお隣ときたものだ。代わり映えも何もあったもんじゃあない。
新入生の教室は見晴らしの良い3階で、しかも俺の席は窓際だった。ふと視線をやれば、あの日と同じように火葬場から煙が昇り、いらっしゃいとばかりに墓地が並ぶ。中二病真っ盛りの多感な少年にこれはしこたま堪えた。まあ、無駄に広い体育館で行われた入学式の校長のあいさつの長さに対する怒りで上書きされる程度のダメージではあったが。
幸いにして、顔を合わせたら殴りかかってしまいかねないような知り合いは新たな生活における級友の中には誰一人としておらず、俺の堪忍袋の平穏は保たれ、道場の師範から破門される危険性は限りなく0に近いことを確認してとりあえず安堵の溜息をついた。
新生活で新しい自分デビュー! なんて気持ちはなかったが、登校初日から錆びたナイフのような扱いを受けるのは御免被りたいからな。
ともあれ、俺が窓の外の墓地から無形のプレッシャーを受けながらぼんやりとしている間に、担任は挨拶を終え、全員に自己紹介をせよと仰せになったらしい。
俺の優秀な無意識はどうやら主意識をぼんやりさせたまま無難に自己紹介を終えたようだ。少なくとも周りの反応から察するに、そこそこ明るいお調子者っぽいキャラクターを印象付けられたらしい。まあ、外面のよさは昔からだ。脳内CPUの大半を教室の外に馳せながら、俺は後ろの席が勢いよく引かれ、生徒が立ち上がる音を聞いた。
そして、俺の後ろの席の奴は――ああ。俺は生涯このことを忘れないだろうな――後々語り草となる言葉をのたまった。
「涼宮ハルヒ」
ここまでは普通だった。少しばかり険のある声だったが、まあ、そこまでは取り立てておかしいものじゃない。緊張で声が強張るなんて、むしろ可愛げがあるじゃないか。真後ろの席を身体をよじって見るのもおっくうなので、俺は前を向いたまま、その涼やかな声を聞いた。
「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
さすがに振り向いたな。
長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャをつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな黒い目を異常に長いまつげが縁取り、薄桃色の唇を固く引き結んだ女。
涼宮のつり上がった眉がやけに痛々しかったのを覚えている。えらい美人がそこにいた。
俺は、そいつを知らなかった。俺は、その姿を知っていた。
声をあげかけ、唇を噛んだ。
似ている。似ていない。見たことがある。見たことがあるはずがない。
違う。だってあいつは。窓の外を見る。立ち上る煙を。薄曇りの空を。
そして、改めて後ろの女、涼宮ハルヒを見た。
間違いなく、初めて見る美人だった。
涼宮は喧嘩でも売るような目つきでゆっくりと教室中を見渡し、最後にぼんやりと見上げている俺をじろりと睨むと、にこりともせずに着席した。
教室は沈黙していた。そりゃあそうだろう。宇宙人? 未来人? 異世界人? 身を切った自爆ネタにしては、涼宮のそれはあまりにも本気で、笑いどころを外していた。
とはいえ多分、この教室の中で、涼宮が本気だと理解したのは、俺だけだったと思う。
昔、どこまでも本気でそういうものを追いかけた女がいた。そういう女を俺は知っていた。涼宮の言葉は、表情は、そいつと全然違うくせに、その癖、なぜか同じものを連想させた。
ラジオだったら放送事故確定な沈黙が数十秒発生したあと、やがて担任が次の生徒を指名して、教室の空気はようやく正常化した。
かくて、俺たちは出会っちまった。
しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。
このように、一瞬にしてクラス全員の注目を良かれ悪しかれ一身に集めた涼宮ハルヒだが、翌日以降しばらくは割とおとなしく一見無害な女子生徒を演じていた。
だが、こいつがそのうち馬脚を現すことを、俺は半ば確信していた。賭けてもいい。こいつは数日以内に爆発する。そんな確信のもと、俺は後ろの席を極力振り返らないよう努めて生活した。
繰り返す。涼宮ハルヒは美人である。
十人に聞けば十人がそう答えるだろうし、東京のどこぞの大通りを歩けばダース単位でスカウトが声をかけてくるだろう。小学生時代の色々さえなければ、俺だってたまたま席が真ん前だったという地の利を生かしてお近づきになっとくのもいいかなと一瞬くらいは血迷ったかもしれない。
だが、失敗を繰り返さないのが人間というものだろ? 俺はケチのつき始めのドミノ倒し、その一枚目を自分から倒すことを華麗にブリッジ回避した。
……少なくとも当時はそのつもりだった。
まあ、そのときの俺は知らなかったのだ。俺の後ろに鎮座していたトラブルというのは、触れなければ始動しないドミノではなく、積極的にこちらを追いかけてくる誘導性の高いミサイルだったということに。
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