3章 芳幸の父
――よし君、泣かないの。お父さんきっと元気になるから。もう二時よ。遅いから寝ましょうね。あら、お母さんから電話。出てくるからいい子で寝てるのよ……智子どうしたの、芳晴さんは? え……そう……二日は持たないの……今から二人病院に連れて行こうか? 電車はもうないけど、タクシー呼べば行けるから。明日の朝で……いいの? そう、わかった。明日の朝、連れて行くわ。
翌日の土曜日、優子と芳幸はほぼ同時に目が覚めた。昨日あまり眠れなかったからか、九時を過ぎてしまった。二人でリビングに出ると、伯母が朝ご飯を作っていた。母の智子が病院で寝泊まりしてる間、いつもお世話をしてくれている。
玄関の方をちらっと見ると、三人分の荷造りがしてある。
「おばちゃんおはよう! ご飯食べたらパパのとこ行くんだよね!」
火を止めて二人の方に近寄ってきた伯母は、「おはよう」の挨拶をしなかった。芳幸たちのほうをじっと見つめて、
「パパね、死んじゃった」と言った。芳幸は時間が二秒くらい止まったかのような心持ちだった。
彼女は膝立ちになって、目と口を開けて固まっている自分の姪と甥を強く抱きしめた。芳幸の目から大粒の涙がこぼれ、我慢できずに声を上げて泣きじゃくった。右耳の鼓膜が破れそうなほどの弟の泣き声を聞きながら、優子は目を真っ赤にして、伯母の肩に顔をうずめた。
芳幸の実の父親が亡くなったのは、今から八年前――芳幸が小学三年生だった時だ。亡くなる二年ほど前に病気が見つかり、入院しては退院するのを繰り返していた。幸い彼の会社は大手の優良企業で貯蓄も十分にあったし、妻の智子も同じ働いておりそれなりの収入を得ていたので、生活に困ることはなかった。実際、優子も芳幸も中学から私立の進学校に入った。優子は本をたくさん買ってもらっていて、たまに服を買いに母と出かけることもあった。芳幸はちょうど周りが皆ゲームをしている年頃だった。新しいゲーム機が発売され、欲しいなぁとも思ったが、ゲームだしなぁと踏みとどまり、智子に聞かれても欲しいとは言わなかった。
結局智子は誕生日プレゼントにゲーム機を買ってくれた。素直に嬉しかったが、どうしても申し訳なさのほうが買ってしまって、下を向いて「ありがとう」とぼそっと言った。
その晩、芳幸は喉が渇いたので水を飲みに階段を降りた。すると仏壇の前に母がいた。母は夫の仏壇の前で、「ごめんなさい、ごめんなさい」とつぶやいていた。
「どうしたの?」と尋ねると、
「なんでもないよ」と微笑んだ。暗くてよく見えなかったが、泣いているのだけはわかった。
芳晴を失って六年後、智子は取引先の奥田和弘との交際を始めた。藍がなかなかうまくいかずに悩んでいたことをもう若くないのにあっさり達成してしまうだなんて、と芳幸は2人に感心していた。一方で、親の恋愛を目の当たりにするのは少し変な気持ちだった。
何度か4人で食事にも行った。母の彼氏はいい人そうだった。芳幸と優子は彼のことを「和弘さん」と呼んでいた。おそらく新しく父親になるであろう和弘に対し、二人に抵抗はなかった。芳晴が亡くなったのがもうすでに昔の話になっていて、親子三人で芳晴のお葬式の時のことを楽しく話すときすらあった。
そしてつい最近、二人は婚姻届を出した。智子の姓は「奥田」になった。養子縁組手続きはまだなので芳幸と優子はまだ「田中」だ。結婚した後も、三人で住んでた一軒家に和弘が住人として増えただけで、生活に変わりはない。
二人が結婚する前から、「欲しいものがあったら言うんだぞ。母さんと相談して買ってやるから」と和弘はよく言った。
優子はやはり服やら本やらをねだった。服はたまにしか了承されないが、本に関しては惜しげもなくお金が使われていった。彼女の部屋いっぱいに置かれている歴史に関する本の数はそこら辺の書店にも劣らないはずだ。
芳幸はテナーサックスが欲しかった。だが将来音楽家になるつもりはないし、一生飽きずに吹くこともない気がする。服や本に比べたらあまりにも値段が違うので、いつか自分で稼いだお金で買おうと思っていた。
ある日、芳幸が学校から家に着くと、リビングのほうから呼ばれた。行くともう三人が集まって椅子に座っていた。芳幸はとっさに頭の中を巡らせて、親に怒られるようなことをしたか思い出そうとしたが幸いそんな心当たりはなかった。
「母さんね、会社を辞めることにしたの」
なんと反応すればいいかわからず、「そうなんだ」とだけ呟くように小さな声を出して芳幸も母の向かいの席に着いた。優子も初めて聞いた話らしく、下唇を軽く噛んだ。智子が続ける。
「お金はお父さんがちゃんと稼いでくれるし、もういいかなって、気が抜けちゃった。それに今まであんたたちとの時間取れていなかったでしょう。もう今更かもしれないけどあんたたちが自立するまでゆっくりしようと思って。自立してからもゆっくりするけど。優子、芳幸、いい?」
「『いい?』って……母さんの好きなようにしなよ。俺の決めることじゃないよ」
「ママ疲れ気味だったもんね。うん、自分で決めたらいいよ」
智子は隣に座っている夫のほうを見た。
「いい子供たちを持ったね。お金のことは俺が何とかするから、ちゃんと休んで」和弘が微笑むと智子も微笑んだ。
「ありがとう」
やっぱりおかしな気持ちだ。
芳幸は部屋に一人でいるのが嫌になって、優子の部屋に行った。
「母さんって疲れ気味だったの?」
「そうだよ、見てて分からなかった?」
「うーん、母さんのこと気は使ってたつもりなんだけど……」
「甘えないようにしていただけじゃない? あんた人を頼らないからね。ママ不安がってたよ、あんたが自分のこと嫌ってるんじゃないかって、忙しくて甘えさせてやれないから遠慮して、ついに嫌われたんじゃないかって」
芳幸が「俺がどうにかしなきゃ」と感じたのと同じようなものを智子も感じた。そして智子はどうにかしてきた。芳幸は何もしてこなかった。自分の無力にうなだれた。
どうしてそういう考えに至った? 八年前の九歳の自分を責めた。この八年間、自分は何の役にも立っていなかった。むしろ心配させてしまった。取り返しのつかないことをした。つくかもしれないが、芳幸には人生の半分が無駄だったように思えてならなかった。
「まあ大丈夫よ、会社辞めるって言ってるんだから。学校帰ったら話とかたくさんして相手してやればいいわ」
頷くしかなかった。
翌日から、智子は退社手続きと仕事の引継ぎを一週間で終わらせてやる、と意気込んで電車に乗り込んでいった。日に日に残された仕事は減っていく一方なのでいつも定時で帰ってきた。芳幸は学校であったことを少しずつ話してみようと思ったが、何から話せばいいのか分からず、夜になってから考えあぐねた末、「なんでお父さんと結婚したの?」と聞いてしまった。
「……嫌だった?」
「嫌じゃないよ、嫌じゃないけど、なんでかなって」
「和弘さんとはパパも含めて友達だったの。私とパパがタッグを組んで和弘さんのとこと取引して、その帰りに居酒屋に行って、三人で飲んで。そこから仲良くなって」
智子が思い出話を始めた。芳幸は、今が母の話を聞く時だと思ってじっと聞くことにした。
「私とパパはそのまま付き合って、結婚して、子供産んで。和弘さんも二、三人と付き合ったけれど上手くいかなくて。その頃は和弘さんも私のことは友達だと思ってて。まあ、そのままずうっといって、パパが死んで。悲しかったねぇ、あれは。あんたたちが生まれてからあっという間だったし。でね、パパは死ぬことが何となく自分でわかってたから、自分が死んだ後の話を私とよくして」
智子は昔のことを淡々と語っているだけだが、想像してみれば夫が死んだ後のことを話し合うなんて芳幸には耐えられない話だ。
「まあいろいろ言ったよ、優子は甘えん坊だから優しい人以外は結婚させるなとか。私は厳しい人のほうが精神鍛えられるんじゃないの、って言ってみたけど絶対ダメって聞かなくて。甘いよねー。芳幸はね、癒してくれる人がいいって。私は藍ちゃんとかいいと思うんだけど、あの人は何て言うかね。あと……」
智子は顔を落として、もう一度上げて息子の目を見た。
「子供たちに気を遣わせるなって」
くすっと笑った。
「もっぱら芳幸のことだけどね。あんたすっごく遠慮がちだったから、これがどうしてもできなくて。さすがに抱っことかは嫌がるだろうから、欲しいものくらい買ってあげたかった。物を与えすぎるのも良くないって聞くけど、パパがいない分、物くらいは与えてやらなきゃって。でも芳幸、こっちから聞いてもいいって言うんだもん。ほんとに申し訳なくて、あんたにも、パパにも」
誕生日の晩の出来事を、芳幸は思い出していた。「ごめんなさい」を母は何度も繰り返していた。
「ごめん」
「ほんとだよ、もう。だからね、二年くらい考えて、やっぱりあんたたちにはお父さんが必要だと思ったの。で、浮かんだのが和弘さん。とりあえず事情だけを話して。そうしたらお願いする前に『付き合おう』って言われちゃって。いつからかはあまり聞いてないけど、私のこと好きだったんだって」
途中から自慢話に切り替わったが、芳幸はさっきの申し訳なさが尾を引いて突っ込む気にはなれなかった。
「でも私、よくよく考えてみると人と付き合うつもりはなくて。でも、和弘さんがあんたたちの父親になるっていうのはそういうことだよなぁって思って。七回忌が終わるまで待ってもらったの。私がパパの、芳晴さんの妻じゃなくて、優子と芳幸の母親としてけじめをつけて、心の準備をするためにね。和弘さんも、父親になる心の準備をこのときしてたと思うよ。付き合い始めるまでは内緒にしてたけどね。まぁ、付き合ってからは成り行きで結婚したなぁ、『そろそろかな』って時期がお互いに初めて重なったのがついこの間。こんなもんかしらね」
「うんこんなもんでいいわ。こんな長いと思わなかった」
芳幸と智子が声に出して笑う。その時、和弘が帰ってきた。
「あ、お帰り、父さん」
「ん、ただいま、奥田芳幸くん」
養子縁組手続きを済ませたらしい。和弘は芳晴の仏壇の前に座った。
「芳晴。君の子供たちが、僕の子供になりました。安心してください、もう二人とも十分大きいですが、立派な子に育てますから」
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