2章 藍の愛

 好きな人に、振られて半年が経った。

 まだ好きかと聞かれたら、好きだと答えるだろう。本当に好きかと聞かれても、その通りと答えるだろう。

 そんな奴忘れちゃえよと言われる。でも忘れられない。

 そんな奴のどこが好きなのと聞かれる。理由なんてない。

 そうやって、半年はすぐに経ってしまった。振られたぐらいですぐにすっぱり諦められるのだとしたら、それは「本当の恋」ではなかったのだろうが、さすがに三か月くらいすれば、忘れられるだろうと思っていた。

 小学生の時、藍は典型的な恋に恋する女の子で、しょっちゅう「マシな男子」を付き合う気もなく好きだと言っていた。中学生になってからそれが恥ずかしくなり、もっと真面目で大人な恋愛がしたと思うようになった。

 藍を振ったのは、山下徹という同学年の男子だ。「友達としてしか見ていない」と言って振った。平凡な容姿でとりわけ女子に人気なわけではないが、男女の隔てなく交友関係が広かった。藍も彼と委員会で知り合い、友達の一人だった。くだらない雑談ばかりしていた。藍の誘いで「デート」という言葉をお互い口にはしないものの、二人で遊びに行ったことも一度だけあった。他の女友達とも同じような振る舞いをしていたのかは藍にはわからないが、振られたときにはそうなのではないかと思い始めていた。

 山下の話は兄の慧と、芳幸と祥一にはよくしていた。今もどういう所がよくてどういう所が悪いだとか、河津さんと楽しそうに喋っているのを見かけて悲しいだとか、しょうもない話を延々と聞いてくれる。慧は藍に的確なアドバイスもよくしてくれた。

 一方で女子の中での恋バナでは藍は全く山下のことを話さない。付き合っているわけでもない、こちらが一方的に好きなだけなのに話をしてしまうのは申し訳ないしあまりいいことでもないと思っていた。他の子の彼氏の惚気話や小学生の頃のかわいい思い出をニコニコしながら聞いていた。

 藍はこれから先、何年も、絶対に愛してくれない人を愛し続けてしまうのではないかと不安だった。しかしその不安に悪い気はしなかった。

 見返りを求める愛なんて愛じゃない。相手も好きだったら一番いいけれど、それがなくても私は山下を好きでいられる。

兄の慧にはそれができない。彼が中学の時はクラスメイトの「よっちん」とかいう人と付き合っていたから、優子は二人目。今はよっちんのことを何とも思っていないのだろう。藍は、二回も恋愛を成就させる兄がうらやましかった。同時に一回成就したものを捨ててしまう兄はわけが分からなかった。


 昼ご飯を終えて、いつものように図書室に行こうとフラフラリと教室を出る。最近彼と喋っていない。だめだとはわかっているけれど、くだらないことでいいから話したい。彼女の心は憂鬱だった。

「藍、図書室?」

芳幸が肩をポンポンと叩いた。頷くと、「一緒に行こう」と言って歩き出した。

「何借りるの?」

「小説。何かないかなあーって」

「家族もの?」

 芳幸は藍のほうを見て、フッっと笑って「ご名答」と言った。母親が再婚してまだ日も浅いから、色々と考えることがあるのかもしれない。

 図書室には、男子が一人だけ、椅子に座って本を読んでいた。

 見入ってしまった。我に返って彼から目をそらすと芳幸と目が合った。「どうしたの?」と言われて思わず口ごもった。

「……あの本読んでるの、誰?」

「ああ、あれ? 蒼井じゃないかな、ほらバド部の」

 祥一の愚痴にいつも登場していた人なのであまりいい印象は持っていなかったが、こんなに垢抜けた雰囲気の人だとは思わなかった。

「一目惚れ?」芳幸が真顔で聞く。

「違うわ」そうかもしれない。

「あいつ勉強めっちゃできるらしいよ」

「へぇーすごい!」

「ときめいてるね」芳幸の口元が笑っていた。いつまでも振られた男のことをグダグダ考えてないで次に進め、と彼の目が言っていた。

 いやいやいや、好きなのは山下だ。他の男に目移りなんてするものか……ときゅっと口を閉じた。


 最近、慧の部屋に妹がよく入り浸るようになった。一週間ほど前から毎日やってくる。慧が勉強をしているときは彼のベッドでごろごろしていて、ふと集中力が途切れてぼーっとし始めると、すかさず山下の話を始める。慧が「好きなんだね」と言うと、嬉しそうな顔をして「うん、そう」と答えて自分の部屋に戻っていく。

「……なんかあったの?」

 今日は勉強をしながら慧のほうから聞いてきた。自分の分かりやすい態度はもう少しどうにかならないものかと思いながらも、まあいいかと直そうとはしない。

「慧はさ、どうやってよっちんと綺麗さっぱり別れたの?」

 ベッドの上で寝ながら聞いてみた。本気で好きな人への未練を兄はどうやって手放すのだろう。

「ああ、俺は陽と別れて、距離を置いてからさっぱりしたんだよ。向こうから冷められちゃったから、こっちが好きでも意味ないし。好きだったけど、幸い『運命の人』とか『一生』とかそういう風には思わなかったし」

「じゃあ、よっちんとはいつか別れるだろうなって思って付き合ってたの? ずっと一緒にいようとか思わないの?」

「あの時はまだ中学生だったからなぁ、そう願ってはいたよ。でもダラダラ付き合っても意味ないんじゃないかって話し合って別れた。お互いのためにね」

「好きなのに?」

「好きって気持ちが一番偉いわけじゃない。『愛』が何でも許されると思ってたら自分がダメになるってわかってたから」

「優子ちゃんともいつか別れるわけ?」

「優子は甘えん坊だから、こっちが構ってやれば離れてはいかないよ、きっと」と慧は微笑んだ。藍は兄の惚気が気恥ずかしくなって「ふーん」と言ってそっぽを向いた。

 自分の場合は別れたのではなく振られただけ。ほかの人を好きになったって何の問題もない。何の問題もないのだけれど……山下が好きなのに目移りしたみたいなのは嫌だ。山下を捨てたみたいで……。

「一目惚れ?」藍の心は兄にはダダ漏れだった。

「違う、ちょっといいなって思っただけ。別にだからって乗り換えるわけじゃないから」

「乗り換えちゃったら? 山下って奴もう脈ないんじゃないか?」

 藍もそう思った。でも一度振られてもう一度告白したらOKをもらえるという話はよくある。告白されることでその人を異性として気になり始めるからだ。もしかしたらいつか振り向いてくれるかもしれない。もし他の人と妥協で付き合ってる時に山下との間にチャンスがあったりなどしたら、どちらにも失礼だ。だから他の人と恋愛をするなら、山下への未練を完璧に断ち切ってからじゃないと。

「お前さ、山下に執着してる間に他のもっといい男見逃してたらもったいないぞ。とりあえずそいつからは離れろ」

 そう簡単に離れられるならとっくに離れてるわ……と思いつつも、本を読んでいる蒼井の姿が目に浮かぶと、慌てて山下に切り替えることがよくある。意識的に離れまいとしているのかもしれない。

 山下のことはどうして好きになったんだっけ……と藍は昔のことを思い返していた。委員会でたまたま同じになって、仕事をして……そうだ、仕事をしているときの雰囲気に惚れたんだ。

「山下も一目惚れみたいなもん?」

 口に出てしまっていた。慧は「ならいいじゃん、蒼井って人のこともちゃんと好きになれるよ」と次に進ませようとする。

 違う、一目惚れなんて本当の好きじゃない、そんなの本物じゃない。山下のことも好きじゃない。

「一目惚れでも立派な恋だから。あんなに悩んでたんだから、ちゃんと好きなんだよ」

 そうとは思えない。内面を見て、ずっと一緒にいたいって強く思わなきゃ。

「理想の形に熱心なのもいいけど、恋愛はそれだけじゃないから、もっと大人になりなよ」

 慧は、藍はまだ子供なんだと言う。ちゃんとした大人の恋愛をしてきたと思っていたのに。小学生の時から全く成長していないとも言える。

藍の目はどこを見ているのかわからなかった。

「藍……お前山下と仲良かったとき、楽しかったんだよな」

 楽しかった。一緒に仕事をしたり、遊びに行ったり、話をしたり、あの頃は楽しかった。今、二人はなるべく距離をとるようにしていて、たまに藍が話したくなって話すこともあるが、それはどこかぎこちないもので藍は歯がゆかった。告白なんてしなけりゃよかった、あの頃に戻りたいと思うときは何度もあった。

「思い出を無駄にしたくないんだよ、お前は。過去の思い出を次のための糧にしないから、あいつ離れちまったら全部無駄に思えるんだ。山下のことも好きだよお前は、でも山下との思い出のほうが大事なんじゃないかなぁ」

 納得した。振られてからのこの違和感が少しずつ溶けていくようだった。じゃあ、山下との思い出だけ大事にしていればいい。山下のことを好きでいなくていい。

 山下の笑った顔が藍の頭の中から消えると、次に浮かんできたのはやはり本を読んでいる蒼井だった。彼と仲良くなってみようかな、祥一も最近は彼の愚痴を言わないし、そこから知り合いになれるかも――藍の思考がいったんストップした。もし蒼井にも振られたら、また同じ道を歩く気がする。無駄なことで悩んでしまう気がする。

 もういったん、やめよう。


「山下徹と河津千佳が付き合っている」という噂を耳にした。これを聞いたとき、藍はふぅーと息を漏らして図書館に足を向けた。

 よかった。なんとも思わない。

 どうでもよくなってしまったのだ。


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