1章 祥一の放課後

 秋なのに少しばかり暑苦しい体育館で、シューズが床をキュ、キュと鳴らしている。祥一は右後ろに高く上がったシャトルを左のネット際に落とす。相手はまたまっすぐ上げてきたので、今度は右前に落とす。もう一度まっすぐ高く上げてきた。祥一はラケットを振り下ろした。甘かったかなと思ったが、相手は左後ろから右前に打ってきた祥一のスマッシュに追いつけなかった。

 バドミントンの球は、小さなコルクの球に16枚の羽根がくっついたもので通称「シャトル」と呼ばれる。

「お前やっぱすげえな、あんな速いのまともに返せねえよ」

 篠原がシャトルを拾いながら言った。

 いや、今のは大したスマッシュじゃない。打った時にいい感触がなかったし、コースも甘い。諦めなければこっちのコートに返せただろうに。祥一は小さくため息をついて、レシーブの体勢をとった。


 今年の春、祥一たちの代の部長が佐々木に決まった。他の連中は、部長は佐々木か祥一だろうと踏んでいたので、特に驚きもしなかった。佐々木だけは、彼の名前が呼ばれた時ちょっと嫌そうな顔をして、ちらりと祥一の方を向いた。

 副部長には祥一ではなく蒼井が選ばれた。ただこの役職は特にやることがない。役職者を祥一と佐々木で固めて彼らの反感を買うのを先輩方が避けたのだろう。

 佐々木が、校門で待っていた祥一を見て、やるせのない笑みを見せながら「お待たせ……なんだよ、何にも知らされてなかったからてっきり、お前がなるんだと思ってたのに……」と言って駆け寄った。

「お疲れ、俺も何も言われてないよ。でもついに、次の団体戦はもう俺らが出られるな」

「そうだね。昨日の先輩たちの試合は二回戦で終わっちゃったけど、俺たちどこまで行けるかなぁ」 

 祥一は目を輝かせて佐々木のほうを向いた。

「県行こうぜ! 県!」

「県、行ける? 他の三人どうするの?」

「何とかしてけじめつけて練習させてさ、五人で県行こうぜ! ほら、学年ごとに立てる目標、夏の大会が終わったらこれにしようぜ」

 祥一は個人シングルスでは何度も県大会に出場していたが、誰かとその舞台に行ったことはなかった。いつか行きたいと思っていた。バドミントンの団体戦は、一戦目と三戦目がダブルス、二戦目がシングルスで、二勝すれば試合に勝利ということになる。必要な人数はちょうど五人なのだ。


 晩夏、部員たちの反応は微妙だった。佐々木がミーティングで「団体戦で県大会進出」を提案したが、あまりいい反応はなかった。しかし、彼らは他に立てた目標もないので、とりあえずそれを了承した。他のやつらが喧嘩を吹っ掛けるようなことはしなさそうだと見た祥一は、黙って佐々木の話を聞いていた。

「県大会に出るためには、今までより一生懸命に練習しなきゃいけません。俺たちは練習する時間が限られているから、その分、集中しないと達成できるものも出来なくなります。これから頑張りましょう」

 普通の話だ。部員の反感を買うものではなかったが、彼らの心を動かすようなものでもなかった。

 練習はミーティング前と雰囲気も変わらない。やっぱり目標を高くしただけでは効果はなかったようだ。みんなの本気度は伝わってこない。

 祥一はあることに気づいていた。自分と佐々木以外の高一は、悔しさだとか、プレッシャーがない。スマッシュを打ち込まれても、この間の蒼井みたいに「相手は強いなぁ」で終わる。バドミントンが上手くなりたいと思っているのは確かだろう。上手く打てる方が楽しいに決まっている。だが、その度合いも「上手くなれるに越したことはない」程度のもので、必死さがないのだ。


学校の桜の葉もあと少しでなくなる。昨日までは暖かかったのに、今日は乾いた冷たい風が頬を切っていく。あと三週間ほどで本番なのに未だに練習に身が入っていない。

 真っ暗な夕方の帰り道を歩く。うちの部活は何がいけないのだろう。 どうやったら彼らの意識を変えられるか、祥一は自分の足先を見つめながら考えていた。幸い、彼らはもともと運動神経は良い方で、練習さえすれば実力はつくはずだ。それに、何がなんでも練習しないようなひねくれた奴もいない。祥一に言わせれば「中途半端」なのであった。

 

「祥一君?」

「あ、和弘さん。こんばんは」

智子の再婚相手だ。仕事の帰りだろうか。

「いつもこの時間まで部活やってるの?」

「はい」

「偉いねえ、僕は今日は定時帰りだよ。バドミントン部だっけ? 祥一君強いんだよね」

「いやそんな、俺レベルなんてゴロゴロいます。でも学校ではめちゃくちゃ強いってなってて、自分たちがまともに球を返せないだけなのに」

「ん、他の子たちは弱いの?」和弘は祥一の毒の入った言葉を聞き逃さなかった。

「弱いっていうか……練習をしないんですよ、ちゃんと。部長は真面目なんですけどね。なんででしょうね、引退した先輩方はいつも一生懸命で、お互い高め合ってというか、部活に打ち込んでました。けどうちの代はそういうのがないんです。団体で県に行けないんです」

「団体で県大会に行きたいんだ。それは、他の子たちも強くならないとね」

「はい。でも……」彼らは練習してくれない。

「祥一君は、何かしたの? その彼らの尻を叩くようなこと」

 祥一は口をつぐんだ。言われてみればしていない。バカみたいだ。自分が一生懸命やっていればあいつらも感化されると思っていたが、それで今まで何も変わらなかった。注意やスピーチは佐々木に任せて祥一は何もしなかった。佐々木が大胆な事を言えるような人じゃないこともわかっていたはずだ。

「明日から、少し厳しく接してみます。どこがどういけないのか、きちんと具体的に言ってしまえばいいかもしれない」

和弘は祥一をじっと見て、「まあ、そうだね。やってごらんよ。また何かあったらいつでも相談乗るから」と言った。

 その日の夜も自主練はしたが、祥一は勉強する気が起きず、ベッドに飛び込んだ。部活を始めてから、テスト直前しか勉強はしていない。


 翌日、放課後の体育館には祥一の怒号が飛んでいた。「そのくらいの球は取れ!」「集合の時は走れ!……早くしろ!」「浅い!」「遅い!」「高二にもなってフォームがなってない! 捻挫するぞ!早いうちに直せ」

 技術的なことから少し注意すればできることまで、祥一は一つ一つ見つけては注意していった。佐々木も少し戸惑っていたが、いつもよりもがむしゃらにコートの中を走った。

 祥一は心を鬼にしたつもりで、嫌われてもいい覚悟でを続けようと思っていた。もう高校生だ。このくらいならやっていけるだろう。個人じゃなくて、皆で上を目指したい――だが、すべて空回りした。たった一日だった。

 部活が終わった後、誰もいない廊下で蒼井が祥一に言った。

「どういうことだ、國谷。お前自分が正しいとか思ってんのか? バドミントンやりたいなら、高校の部活なんかじゃなくてクラブとかそっちに行けよ。それか強豪校に転校しろ。いきなりあんなことされても困る」

蒼井は怒っていた。祥一もカッとなって言い返した。

「お前らがけじめつけてちゃんと練習しないからだよ」

「けじめがついてないのはお前だよ、朝から晩までバドのことばっか。そのくせ実績はせいぜい県大会じゃん。そんないい加減な信条俺らに押し付けられても困るんだよ」そう吐き捨てて去って行った。


 祥一は芳幸の家に出向いた。インターホンを鳴らすと芳幸が出てきた。

「祥一、どうしたの? 家の鍵忘れた?」

「いやそうじゃないけど。和弘さん……いる? 話したいことがあって」

「ああいるよ。まあ上がって。お父さん、祥一が話があるって言って来た」

 智子のことは母さん、と呼ぶのに、こっちは「お」をつけるんだな、と祥一は思ったが今はそんなことはどうでもよかった。

 祥一は和弘の書斎に連れていかれた。中にいる和弘が椅子に座りながら「こんばんは。昨日の今日だね」と笑った。祥一も「こんばんは」と頭を下げた。芳幸が書斎から出ると、今日部活であったことを話した。

「極端な話、祥一君だって世界を目指すとか、そこまでの思いはないだろう。せいぜい関東に行ければ御の字だよね?」

その通りだ。別に、皆がみんな全国一とか世界とか、オリンピックなんか目指す必要はない。祥一も将来の夢は「オリンピックで金メダル」ではない。でも最低限、部活をやっている以上、皆で上を目指して真面目に練習するものじゃないか。例えば部活中は時間を無駄にしないようにキビキビ動いたり、プレー中に際どいコースのシャトルも諦めずに取りに行ったり……そのぐらい、ちょっと意識すればできるはずなのに。それにキビキビ動くのは部活の空気や雰囲気にいい影響を与える。少しの緊張感が生まれて、プレーの動きも良くなるはずだ。

「それをだ、いい影響と思っていないんだよ、彼らは。祥一君、もう少し蒼井君たちのことも理解しようとしないと。やる気のあるないなんて相対的なものなんだから」

 相対的……? 祥一の割には人の話を結構素直に聞いていたが、これには眉間にしわを寄せた。

「簡単なことだよ、君が今まで考えたことがなかっただけで。じゃあ、祥一君の願いが叶ったとして、みんな県を目指して必死に練習しています。そこに転校生がバド部に入ってきました。彼は将来はオリンピックでメダル獲得も遠くないと言われている期待の星。もちろん本人も本気で目指しています。まあそんな子が来ることはないと思うけど、例えばの話ね。彼はバド部のレベルの低さに失望します。イライラもします。でもせっかくこの部に来たのだから皆とオリンピックに行きたいと考えます」

「ちょっと待ってください、そんなの彼の勝手です、わがままです」祥一は思わず和弘の話を遮った。「こっちは県を目指して、オリンピックよりは低い目標だけどやってるんです。オリンピックに行きたいならもっと強いところでやればいい」

「そうだよね、来ないでほしいと思うよね」

「はい」

「そういうことだよ、皆それぞれ違う目標でそれなりに一生懸命やってるんだ。目標の高いほうが偉いわけじゃない」

「あ」

 目の前が明るくなったような気もするし、暗くなったような気もした。そういうことか。何も分かっていなかった。

 和弘が祥一を気遣うような素振りをしながら言った。

「それでも、県大会に行きたい? 行けない所ではないんだよね?」

「……行きたい。皆で。行きたいです、行こうと思えば行けるはずです」

 和弘は意地悪な男ではなかった。祥一も、そこまで打たれ弱い男ではない。


 翌日、土曜日の部活のあと、佐々木は一年だけ先に帰らせた。

「國谷君から話があるそうです」

 佐々木には話を振ってくれとだけ言っておいた。何かしようとしているのはわかっているだろうが、何をするのかは見当がつかず、佐々木は不安そうに様子を見ていた。

「県大会に行きたい。団体で」

 増田と篠原はまたその話か……と目を見合わせた。蒼井は微動だにしなかった。

「本気で行きたい。皆で行きたいんです」

頭を下げた。蒼井は芳幸が頭を下げるのがあまりにも意外で何の返事もできなかった。

「一回だけでいいから。一回県に行けたらもうそれでいいから。だから……」

「わかったわかった」蒼井が話を遮った。「勝算はあんの?いつも団体は先輩達でも三回戦ぐらいで負けてるぜ」

 市大会の団体戦は例年二、三十校ほど参加する。上位二校が県大会に進出できるので、四回勝てばいいのだが、祥一の学校は三回勝ったことがない。

「行ける。俺と佐々木、篠原と増田でダブルスを組んで、蒼井がシングルスに入れば」

「俺がシングルス? 一番強い國谷が入ればいいんじゃねえの。何でそういう組み合わせ?」

 和弘から、勝つためのプランを考えるのは祥一の仕事だと言われていた。

「相性を見て、こういう組み合わせ。蒼井と佐々木、よくラケットぶつかってるから。最初のダブルスは俺らが入って、シングルスは蒼井。で最後に増田と篠原。これで行ける」


日曜日を挟んで月曜日の練習は空気が変わっていた。こんなに簡単にいくとは芳幸も佐々木も思わなかった。練習時間のほとんどを実戦練習に費やすことにした。ダブルスの四人が練習している空気は一年に「怖い」と言われるくらいだった。蒼井も一年のダブルスを相手にしたり、シングルスを相手にストレート勝ちしたりしていた。


時間は過ぎていく。


秋の大会が終わった。祥一は個人で県大会出場を果たした。

「準決勝まで行ったな」増田がつぶやいた。

「もう少しだったな。俺たちが勝ってれば行けたんだな、県」篠原も低い調子で言った。

「団体戦はなぁ、負けても誰のせいでもないし勝っても誰のおかげでもないんだよ多分。だから俺たちのせいじゃない! 相手めっちゃ強かったし」

「いや最後は俺以外全員悪いって。ダブルス両方ともズタボロだったじゃねえか」

「ごめんなさーい」とおどけた調子で佐々木が入り込んで言う。「あ、まだ県大会行ってないから約束は続いてるからな。次の団体戦は春。それまで気抜くなよ。

「はーい」四人は気の抜けた返事をした。皆笑っていた。

「それに蒼井、最後のシングルスの相手は人数合わせの一年生だと思うね。部員が全然いなくて苦労してるってあそこの部長言ってたから。強いのにうちより少ないんだね」

「國谷、お前県目前で負けたのに悔しくねえの? いっつも負けた時は沈んだ顔して、悔しそうな顔しない俺たちのこと睨み付けてたくせに」

 蒼井に鋭く言われ、祥一はやっぱりあの時は馬鹿だったんだなあと思った。実は祥一は家での自主練を少し減らしてみたのだが、むしろいつも以上によく動けたと実感していた。今までは「がむしゃらにやること」に満足していただけなのかもしれない。

「んー、まあ、いいんだよ」

 県大会に進んだら、また元に戻るのだろうか。いや、進んだら皆うれしくて、自分の可能性をもっと試したくなって、今と変わらず練習するかもしれない。そうであってほしい。今、ものすごく楽しい。

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