第7話
それからアヤコに電話をかけたのは、ものの10分も経たない内のことだった。彼女は雨が酷いから家から出たくないと云っていたけども、どうしても今夜新名は逢って話がしたかった。
19時に仕事を上がり、会社から車で帰宅し、渋々承諾してくれた彼女の訪問を待つ。テレビを付けないでいるリビングにはうっすらと雨音だけが響き、だけども新名はそれを不快に思うことはなかった。
そして約束の21時、鍵を開けアヤコがやってきたことを知ると、新名はゆっくりとソファーから立ち上がり彼女を迎えた。
「いらっしゃい、アヤコさん」
「───────何なの?、貴之。この荷物は」
リビングのドアを開けた途端、嫌でも目に飛び込んできたボストンバッグの存在に、アヤコは訳が分からないと云う風に眉間に皺を寄せていた。新名から旅行に行くだなどと云う話は、まったく聞かされていない。だけども新名は別に『旅行』に行く為に荷物をまとめた訳ではなかった。
「俺さ、今日でここを出て行くよ。だから、アヤコさんとも今日でお別れ」
突然そう口にされた言葉の意味が何なのか、暫しアヤコは大きく目を見開いたままその場に立ち尽くしていることしかできなかった。しかし、意味を理解した後も別段取り乱すようなことはなく、彼女はまっすぐに新名を見詰めると、その理由とやらをあえて問うてみることにした。今の今まで何不自由ない生活をさせてあげていたと云う自信があっただけに、どうして急にそんな気になったのか、何となく興味があったからである。
新名は口元に微笑を浮かべると、両手をズボンのポケットにと徐に突っ込んで云う。
「俺ね、ずっと周りの人間て『バカなんだ』って思ってた。そんなせかせか働かなくたって簡単に金を手に入れる方法はいくらでもあるんだし、結構世の中って人生て甘いものなんだけどなって、心ん中で笑ってた。─────でもさ、この歳になってようやく気が付いたんだよね。そう云う考えしかできない俺の方が余っ程『バカ』なやつだって。楽して手に入れたものなんて、やっぱそれだけの価値しか持てないもんなんだよね。…だから俺は『ここ』じゃない別の『どこか』に行くよ。俺が俺の為に色々と『信念』ってやつを持てるようにね」
その為にこうしてすべてを投げ捨てる必要は特にないのかも知れない。だけどもこのままアヤコとともにいることは、自分にとってプラスにはならないような気がした。
始めるなら何もない、ゼロからの状態の方が良い。
そんな潔い強さを持てたのも、凡河内のおかげだと思った。
アヤコはそんな意志の強さをみせる、何とも凛々しい新名の面持ちに思わず苦笑してしまう。それは今まで見てきたどの表情よりも気高くて、あまりにも魅力的に思えてしまったからだった。
だけどももう、この手にはけして戻らない。それが今たまらなく悔しいと思った。
「…貴方は私と同じ考えをしているものだとばかり思っていたのにね─────…。はっきり云って失望したわ」
「─────でも、今度逢う時にはもっと良い男になってると思うよ」
「ふふ…っ、そう云うところは相変わらずなんだから…」
俯いた為に落ちてきた前髪をゆっくりと掻き上げ、口元にただ微笑を浮かべるだけのアヤコをそ…っと新名は最後に抱き締める。『恋人』と呼び合える程けして深い愛情を抱いている訳ではなかったが、それでもやはり愛しいと思う気持ちは確かに存在していた。
「……バイバイ、アヤコさん──────…」
■ ■ ■
そのままの足で上がり込んだ大原のマンションで、新名は集まってきた連中に散々『バカだ』と罵られ続けていた。『格好つけるにも程がある』『後先考えないただのバカ』。どれもが見事に的を得ていた為返す言葉もなかったが、すぐに新名はブチ切れて容赦なく皆を蹴り飛ばしていた。
バカなことだとしようとも、後悔などはまるでしていない。明日からどう生きて行こうかと考えるだけで、不思議と今は楽しい気分になることができた。暫くは何かと不都合なことが続くかも知れないが、それもまたひとつの試練だと思えば良い。
そこまで前向きな姿勢を見せられてしまっては、皆もそれ以上は何も云えなくなってしまっていた。
「おはようございます、新名さん」
「ん、おはよう」
「今日も雨酷いですよね~…。何でも今日のお昼までには台風が上陸するとか」
「…どうりで風が強い訳だ」
今日から電車通勤と云うこともあり、すっかり濡れてしまったスーツの上着を椅子の背にと引っかけ、新名は持参したタオルでわしわしと頭を拭う。この酷い雨と風のせいで遅れてくる者は続出し、台風が通り過ぎる午後までは全然仕事にならないと云った風だった。
「まぁ、午前中はのんびりしてくれよ」
営業主任までもがそう諦めたように溜息を吐き、とりあえず新名は溜まっていた伝票を軽く整理して、外の様子が窺える休憩所へと足を運んでいた。そこから見える、丁度自身の会社の目の前にいつも凡河内はトラックを停めている。
案の定そこには今日も『ネクスト・サービス』と書かれたトラックが停車しており、こんな日でもやはりいつもと変わらぬ仕事をしなければならない彼の身を新名は酷く案じていた。
あれ以上風邪をこじらせてなければ良いけども─────…。そう思っていた矢先に別のビルの配達から戻ってきたらしい凡河内の姿が目に付き、思わず凝視してしまう。と、彼は急にトラックの荷台にと手を付いて、もう片方の手でつらそうに額の辺りを抑えていた。────あの分だと本格的に風邪を引いてしまったに違いない。新名は暫しその様子を黙って見ていたが、ふいに駆け足で営業部へと戻ると、大声で主任にとこう云った。
「すみません、自分、ちょっと外回りしてきます!」
「えっ?!、あっ、『外回り』って新名くん…?!」
背後からそう訳が分からないと云う風な声が聞こえていたけどもあえて無視を決め込み、新名は再び駆け足でエレベーター前にと向かって行く。そして1階を押し、会社のエントランスへと降り立つと、皆の目も気にせずに表にと飛び出した。
吹き付ける雨風は相変わらず獰猛で、道路のあちこちには店の看板やごみと云ったものが酷い散乱を見せている。下水溝は降り続く雨によって逆に溢れ出し、そこら中がもう水たまりになっているかのような状態だった。
そんな中新名はまっすぐにトラックへと駆け寄り、肩で息を衝いている凡河内の体を支える。
「──────オイッ、大丈夫か?!、凡河内っ」
その声と振り向いた先にあった面持ちと。凡河内は一体何故に新名がこんなところにいるのか、理解することができない。しかもこんな風に気遣われ────昨日の一件でもう二度と口も聞いてもらえないだろうと思っていた凡河内は、ただただ大きくその目を見開いてしまっていた。
「…どうして─────…どうして新名さんが、ここに…?」
「そんなことは良いから、配達先の伝票を渡せ。それと、『ネクスト・サービス』だって分かる上着か何か貸してくれ」
それはもしかしなくても配達を手伝うと云うことか。途端、凡河内は否定的に首を横に振り、『それはできない』と云った。
「新名さんにそんな迷惑をかける訳にはいきません。…俺のことなら大丈夫ですから、気にしないでください」
第一、自分の仕事をまったく関係のない人間に預けてしまうなど、会社に知れたらそれこそ大変なことになってしまう。
だけども一度言い出したら意地でもやり通すのが、新名貴之と云う人間である。
「こんな時にそんなバカみたいなこと云ってんだよ、おまえは。だから上着貸せって云ってるし、そんなのバレなきゃどうにでもなるもんだっつーの」
「………でも……」
「『でも』もクソもねーの!午前中にこの荷物全部捌かなきゃ駄目なんだろ?!だったら二人で片付けた方が確実に早く終わらせられんだろうが!」
「……………………」
「大丈夫。俺ならちゃんと仕事こなすから」
云ってにっこり、と笑う新名に、一体その自信はどこからくるのかと思わず脱力してしまいそうにもなるのだが────次の瞬間何故なのか、凡河内はぷっと吹き出し、気が付くと声をあげながら笑い出してしまっていた。
─────仕事に対する価値観のまるで異なる人物。なのに今、自分は新名のくれる言葉に頼もしさすら感じてしまっている。
それがたまらなく可笑しくて。でも、それはけして不快な感情から生まれたものではなくて、『こう云う人なんだよなぁ…』と思うと心が至極軽くなって行くのが分かった。
「……本当、貴方ってば『格好良い』人ですよ…」
「なぁ、このジャンパー借りて良い?あとボールペンと何かメモ用紙─────…」
そんな凡河内の言葉も耳には入っていないのだろう。新名は勝手に荷台へと上がり込み、配達に必要と思われる道具を早速探し出している。
凡河内は『ふぅ…っ』とひとつ溜息を吐き出すと同じように荷台に乗り込み、そこに積まれている荷物たちをともに配達する決心をするのだった。
■ ■ ■
効率良く手分けして配達をこなした為か思ったよりも早くに荷台は片付き、昼も待たずに終わらせることができた二人は、がらんどうとなったその中で座り込み、暫しの休息をとっていた。
運の良いことにトラックに戻ってきた後から雨脚は急に強まって、僅かに開けてある荷台のドアから見える景色はまさにバケツをひっくり返したかのようだった。
「…良かったな、こうなる前に配達終わってさ」
「えぇ─────…。新名さんには本当、感謝しています」
これがもし一人だったならば、確実に終わってなどいなかった。凡河内がそう頭を下げながら礼を口にすると、新名は少し困った風に笑った。
「でも、どうしてこんな雨の中手伝いにきてくださったんですか?てっきりもう─────…新名さんとは話せないものだとばかり思っていたのですが…」
それは昨日の云い合いを指しての言葉なのだろう。でも、それならば自分の方が余程酷いことを云ってしまった。────いや、昨日だけではない。その前もその前も、凡河内に対し酷い言葉を口にしてしまった。それも一方的に、不躾に。
なのにそう話せなくなることを気にしていた風な彼の台詞に新名は、本当に『らしい』なと思う。いつだって誰かを責めるよりも先に己の内に非を探し、それを素直に認めることさえできてしまう凡河内。そのどこまでも純朴な人柄に、何度眩しさを憶えたことだろう。
新名は濡れて滴り落ちてくる雨の雫を前髪ごと掻き上げて、口元に何とも云えない笑みを浮かばせる。
「なんか窓の外見てたらさ、おまえが丁度具合悪そうにしてたから。で、昨日のこととかあったしさ、何か力になれないかなって思って会社を飛び出してきたんだけど─────…これってば結構ズルいきっかけ作りだったりしちゃうよな」
『ズルい』も何も、そのおかげで自分は助けられた訳なのだ。すかさず凡河内はそんなことはないと云う風に言葉を紡ごうとしたが、それを察した新名によって先を塞がれる。
「俺さ、昔からずっっっっと楽な人生ばっかでさ。周りの奴が色んなことに必死になってる姿とか努力してるとことか見てるとさ、素で『バカじゃねーの?』って思えてさ、いつも心のどこかで笑ってた。─────でも、おまえに会ってから分かったんだ。俺はそんな周りの皆にただ嫉妬してただけなんだって。自分にはけして分からない『何か』を持ってる皆がさ、ただ単に羨ましかっただけなんだって。そう思ったらなんか今まで適当に生きてきた自分がすごくバカみたいに思えてさ、昨日おまえと別れた後に『変わらなきゃ駄目だ』って決心したんだよ─────…」
云って新名は手を伸ばし凡河内の後頭部に触れると、そのままゆっくりと引き寄せて互いの唇を重ね合う。当然凡河内は予期せぬ行動に酷く驚いて、だけどもただ大きくその目を見開くことしかできなくて。そんな、見るからにパニックに陥っていると分かる表情を浮かべてしまっている凡河内に、新名は優しく微笑みながら口にする。
今のキスは以前のように、理由も意味も分からないものではけしてなかった。
「俺、おまえのことが好きだよ。一人の人間としてすごく惹かれてる」
男だからとか女だからとか、そう云う小さなことではない。新名は純粋に『凡河内晃秋』と云う人間が好きなのだと思った。
それはけして恥じることではないと思ったし、だからこそこうして本人にも打ち明けた。自分の方から告白したことなど初めてだったりしたけども、これはこれで意外に爽快で気持ちの良いものだった。
「あ、あのっ、自分はその…っ…」
突然男にキスをされ、そんなことまで云われても一体どうリアクションを返せば良いのか分からずに、凡河内はただただ眉尻を下げながらそう口籠る。冗談や不快だと云う風に軽く片付けてしまうには、あまりにも新名の表情は、台詞は真摯過ぎたのだ。
「とりあえずはまぁ、『お友達』から始めようぜ」
ここからが本当の意味での付き合いの『始まり』になってくれれば良い。新名は笑顔でそう云って、未だ困惑している様子の凡河内の肩を叩き、今もなお降り続いているこの雨が少しでも長引いてくれるよう、心の中でそっと願うばかりだった。
…fin…
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