第6話

 ずっと胸の内に訳の分からないわだかまりを残したまま、日々はただ変わり映えすることもなく淡々と紡がれて行く。

 あれから凡河内の笑顔を見る度に何故か息苦しいものを感じてはいたけども、新名は努めて普通に彼と接することができていた。元から愛想を振りまいたり取り繕ったりするのは得意だ。そうは思っていても以前と比べ、あきらかに溜息の数は増えていた。

「─────新名さん、最近何か…ありましたか?」

 そんなある日、いつものように集荷にと訪れた凡河内は、ずっとそのことを気にしていたかのようにふと、新名に問うていた。だからと云って周りに何か心配させてしまうような態度を見せていたという訳ではまるでなく、新名自身そう思っていただけに酷く驚かされていた。

 それでも普通を装って長テーブルの縁に寄りかかると、新名は腕を組み、笑顔を浮かばせる。

「何で?…別に何もないケド?」

「…そうですか。なら、良いんですけど─────…。何か最近の新名さん、様子が違う風に見えたから」

「─────『様子が違う』?」

「…えぇ、何か悩みとかあるんじゃないかって────…。何となくそう、勝手に思っていたんです。でも、何もないなら良いんです。お荷物お預かりして行きますね」

 ここ最近何となく感じていた違和感は、結局ただの取り越し苦労だった、と云う訳だ。────それならその方が良い。ぺこり、と頭を下げて凡河内は荷物を片手にドアを開け、瞬間、腕を引かれた感覚に思わずよろけてしまいそうになる。

 誰の仕業だなどと思うまでもなく腕を掴んだのは新名で────初めて見る彼の苦しそうな表情に、胸が嫌な音を立てていた。

「…新名、さん…?」

 何を云えばいいのか分からずにそう名前を口にしてみると、新名はぱっと手を放し、数歩後ろにと距離を取ると曖昧な笑みを浮かばせた。

「─────引き止めたりしてごめん。ご苦労さん」

 云って自分の机にと戻ろうとする新名を、今度は凡河内が引き止める。このまま何も云わずに出て行くなんて、とてもじゃないができそうになかった。

「俺はただの配達員ですし、新名さんのこともまだ全然理解できていないとは思います。でも。そんな俺でも力になれることはあると思うので────…何かあったら相談してくださいね」

 そんな『ただの配達員』だけが自分の異変に気付いてくれ、こうして力にまでなってくれようとしている。でも、今はその凡河内の優しさが新名にはたまらなくつらかった。

 何の曇りもないその黒目がちな両の目が、たまらなく─────…。

「…ありがとう。でも、平気だから」

 そう云うと今度こそは背を向けて、その場から静かに立ち去った。あれだけ安心感を憶えていたものがこんなにも心苦しいと思ってしまうようになるなんて。改めて新名は己の思考と云うものに嫌悪感を抱いていた。

 ──────これじゃあまた、逆戻りじゃねーかよ…っ。

 こんなにも誰かの存在に心を揺さぶられてしまうだなど、生まれて初めてのことだった。



     ■   ■   ■



「お疲れ様でーす」

「おうっ、また明日!遅刻すんじゃねーぞっ」

「はぁぁぁ~…、今日も付かれたなぁぁ~…」

 ただ今の時刻は夜の11時。無事にすべての運搬作業を終えた後運悪く会議なるものが入ってしまったがために、いつもより終業時間が遅くなってしまった『ネクスト・サービス』の面々は、ようやく帰れると云う喜びに自然と笑みを浮かべていた。─────が、その中で一人、浮かない顔付きを見せていた凡河内は一向に帰り支度が進まず、そんな彼の様子に気付いた同僚の成井が、心配そうに覗き込む。

「…どうしたんですか?、凡河内さん。集荷から戻ってきてから何か、様子変じゃないですか?」

 どんなに荷物が多い時であろうと笑顔の絶えることのない凡河内が、珍しくも暗い表情を見せている。それは他の誰が見ても至極明白なことだった。

 だけども凡河内は『何でもないよ』と口にして、脱いだ制服をただハンガーにとかけて行く。そう云われてしまってはさすがに成井も、これ以上は深く訊ねることができない。

「────あ、そうだ、この後一緒に飯でも食いに行きません?俺、料理のすごく美味しい店知ってるんですよ」

 それが成井なりの気遣いだと云うことも十分承知していたが、自分にはこの後行かなければならない場所がある。凡河内はロッカーの中からデイバックを取り出し肩から下げると、大原に笑顔を向けて云う。

「…ありがとう。でも、俺今日この後行くところがあるからさ────…。また今度誘ってくれよ。…お疲れさん」

 ぱっと軽く手を上げて皆の輪から外れて行き、凡河内はたった一度通ったと云う記憶だけを頼りに大通りでタクシーを拾い、新名の住むマンションにと向かうことを決めていた。それは多分に大きなお世話なだけであり、ただのお節介でしかない行為だろうことは十分理解している。────でも、彼女と別れ、苦しい想いをしていた時に新名は自分の心を癒してくれた。美味しい料理で持て成し、安らかな眠りまで用意してくれた。

本当にあの時、彼の存在に身も心も救われたのだ。だからこそ今度は自分が、苦しんでいるだろう新名の力になってあげたい。

 そうして約40分後、どうにか新名の住むマンションにたどり着いた凡河内は、改めて自身を落ち着かせるように何度か深呼吸を繰り返し、そしてオートロック画面にと部屋番号を表示させる。

『…はい、どちら様ですか?』

 暫しの間を置いて聞こえてきたその声は、紛れもなく新名自身のものだった。凡河内は途端、跳ね上がる鼓動を感じながら返事を返す。

「あの、…夜分遅くにすみません。凡河内です」

『…………何の用事?』

 インターホン越しにそう問うてくる彼の口調は、いつもの気さくなそれとはあきらかに異なるものだった。でも、それも仕方のないことだろう。誰だってこんな時間にいきなり訪ねられたら迷惑に思うというものだ。

「…いや、あの…先程の様子がやはり、すごく気になって────…。新名さん、本当に平気なのかな?、って…」

『…………………』

「すみません、本当。こんな時間に突然訪ねてきたりして。でも、俺────…」

『──────待ってて。今そっちまで行くから』

 言葉の途中で遮られ、プツンッ、とインターホンの接続が切られる。そのままどれくらい待ち続けていただろう。ふいにホールの奥から姿を現した新名は内側から自動ドアを開けると、いつものように笑顔を浮かべている凡河内に開口一番こう云った。

「…おまえさ、迷惑なんだよこう云うの」

「!」

「何をどう思ってここまできたのかは知らないケド、はっきり云っておまえのしてることはただの『迷惑』だ。いっつもいっつもにこにこバカみたいに笑ってさ、そんな奴に誰が相談するかっつーんだよっ」

 静まり返ったエントランスに、新名の荒げた声だけがやけに響き渡る。多分にそう思われるだろうとは覚悟もしていたが、それ以上につらい言葉の数々を向けられた凡河内は、指先から冷えて行く感覚を憶え出す。

 見詰める新名の瞳にはもう、突き放すような色しか見付けることはできなかった。

「…あ…っ…。すみません、俺────…何か、勘違いしてたようですね。…すみません、新名さんのおっしゃる通りです────…」

 こんな時にも笑うことしかできない自分を、新名はやはり『バカ』だと思っているのだろうか。それを確かめる勇気など持てなくて、そうだと思い知ることがつら過ぎて、凡河内はそのままぺこり、と深く頭を下げると、顔を見ることなくエントランスから出て行った。

 新名はただその後ろ姿を黙って見送っているだけで、ふいに自動ドアを開き奥へと歩を進めると、おもいきり強く拳を壁にと叩き付けていた。

(…どうして俺は『あんなこと』しか云えないんだよ…っ!)

 どうして、どうして裏腹な言葉ばかりが口を吐いてしまうのか。凡河内には何の罪もなく、ただ心から自分のことを心配してくれているだけなのに、どうしてまた『バカ』だなんて言葉を吐き付けてしまったのだろうか。

 今更そんな風に後悔してみたところで、一度口に出してしまった言葉を取り消すことはできない。誰かを疵付けると云うことがこんなにもつらいものだなど、初めて思い知ったような気がした。

 でももう何も元には戻らない。

 互いの関係は今日、この時をもって、最悪の終幕を迎えてしまったのだから──────…。



     ■   ■   ■



 翌日、新名は担当を代わることもせず、いつものように5時半頃集荷に訪れた凡河内と普通に顔を合わせていた。それは至極事務的なものでしかなかったが、凡河内もまた昨晩のことなどまるで気にしていないと云う風にやんわりとした笑顔を浮かべ、何ら代わり映えすることもなく元気に挨拶をして出て行った。

 所詮凡河内にとって自分はその程度の存在だと云うことだ。あんな風に暴言を吐いてみたところで、彼の笑顔は何も変わらない。そのことに対して何の感情も抱いていないと云ったら嘘になるかも知れないが、すべてはもう関係のないことだ。

 新名はカードの刺さったファイルを引き出しの中にと押し込み、とりあえず目の前のパソコンを弄るだけだった。



     ■   ■   ■



「凡河内さーん、本当に大丈夫なんですかー?」

「ん?あ、あぁ、大丈夫だって…」

 新名と普通に話せなくなってから、どれだけの時が過ぎたことか。暦は11月の中旬となり、日に日に下がって行く最低気温と云うものに、今年も厳しい冬がくるのだと配達員全員が予想していた。尤も、寒さがピークを迎える12月ともなれば毎日が繁忙期で忙しく、『寒い』だなど思っている暇もなくなる訳なのだけども。

 そんなある日の夜7時半、珍しく早くに夜配・集荷の終わった凡河内は営業所で一服し、これからまだ戻ってくる同僚たちをのんびりと休んで待っていた。と、そこに仕事を終えたらしい成井が姿を現し、先の言葉を発したのだった。

 成井は何かと抜けている割には周りの世話を焼きたがる性分らしく、ここ最近凡河内は顔を合わせる度に心配ばかりされている。それだけ疲れている顔をしていると云われればそれまでなのかも知れないが、今はあまりそうやって気にかけて欲しくなかった。

 だけども事実疲労は顔に出て、目の下のクマも酷くなっている。おまけにここ最近ほとんど眠れていないせいか、風邪の引き始めのような症状が出てしまっていた。だからこそ成井は心配し、そうして声をかけてくれたのだ。

「今結構風が流行ってるみたいですから、あまり無理はしないでくださいね。俺と違って凡河内さんは『バカ』じゃないんですから」

 そう云って胸ポケットから煙草を取り出し、葉先にとライターで火をつける。凡河内はその言葉を耳に流し込みながら、思わず苦笑してしまっていた。

(…俺だって新名さんに云わせればただの『バカ』だ)

 そんな風に考えてみたことはなかったが、見る人が見れば自分の笑顔と云うものは至極無神経でバカみたく思えてしまうものなのかもしれない。

 凡河内は騒ぐだろう成井のことを考え小さく溜息を吐き出すと、配達先でもらったのど飴をひとつ、口の中にと放り込む。時刻はそろそろ8時台にと差し掛かり、年中流しっぱなしにされている営業所内のラジオからはお決まりの『天気予報』なるものが放送されていた。


『ここで台風の情報をひとつ。寒気に伴う影響で発生した台風16号は現在沖縄諸島に接近し、金曜日には東京・神奈川に上陸するものと予想されます──────…』



     ■   ■   ■



「ねぇ、今朝の天気予報見た?なんか台風発生してるんだってね」

「あー、見た見た!何でこんな時期外れに上陸するんだか…」

「ただでさえ今日も雨で気が滅入ってるって云うのにさぁ~…。本当、台風って嫌だよね~っ」

 従来6月や9月と云った頃合いに多く発生する台風が明日にも上陸するかも知れないと云う気象庁の発表に、朝から部の女性社員たちは不機嫌そうな面持ちを見せていた。しかし、台風を快く思っていないのは男性社員たちも同じで、要請があれば台風の中でも営業に出向かなければならないことを思うと、まるで気が気ではなかった。

 そんな中新名は自動販売機の置かれている休憩所にと佇み、紙コップに注がれたホットコーヒーをゆったりと口にしていた。その視線の先には酷い雨に打たれながら走り回っている凡河内の姿が見受けられ、台車を手に向かい側の建物の中にと入って行くのを見届けると窓ガラスから目を離し、再び温かいコーヒーを口にした。

 ──────最近、何をしていても心は空っぽだ。

 今が楽しければそれで良いと常日頃から思っている筈なのに、アヤコを抱いていても美味しいものを食べていても、いつもの連中と飲んでいてもバカみたいに金を使ってみても、どうしてか『楽しい』と思うことができなくなってしまっていた。

 そんな自分を悪友である梨本は『本当に珍しいこともあるもんだ』と云いながら笑っているだけだったけども、その珍しさが度を越えてしまったが為にこうして悩んでいる始末なのである。

 でも、これ以上何をすれば楽になれると?

 何を云えばすべてを気にせずにいられるようになるとでも?

 その答えが未だ見付けられないでいるから、こんなにも胸が痛んで仕方がないというのに。

 新名はふいに中身を飲み干した紙コップをおもいきり強く握り潰し、今日の空と同じ灰色な気分のままに歩き出していた。



     ■   ■   ■



 朝から降り続いていた雨は午後になっても弱まる気配を見せず、外回りから戻ってきた同僚たちの上着やズボンのすそはすっかり濡れそぼってしまっていた。この天気も台風の影響によるものなのだろうか。だとしても本当に迷惑な雨だと思った。

 そうして5時半ちょっと過ぎ、いつものようにドアを開け訪ねてきた凡河内の元気な声が響き渡る。

「どうも、『ネクスト・サービス』です」

 その声に新名は椅子から立ち上がり、ファイルを片手に出迎える。と、やはり彼もまた酷く雨に濡れた状態で、だけども上着が濡れていないのは、着ていたレインコートか何かを外で脱いできたからなのだろう。それも訪問先への気遣いか。

「今日はそこに置いてある書類三つだけだから」

「あ、はい。分かりました」

 いつもと変わらぬ笑顔を浮かべたまま、ボールペンで必要事項を記入して行く。そんな凡河内の姿を見下ろしながら新名は知らず眉間に皺を寄せてしまっていると────ふいに彼は『ゴホゴホッ!』と激しい咳を口にした。まさか風邪でも引いているのではないか、と思った新名は、以前のように思わず声をかけてしまっていた。

「…オイ、おまえもしかして風邪引いてんのか?」

 思わぬ新名からの問いかけに凡河内は一瞬驚き、だけどもそれを超えには出さぬよう努めて普通に言い返す。

「…えぇ、ちょっと昨日の晩から具合が悪くなりまして─────…。でもまぁ、風邪には強い体質ですので大したことはないです」

 体質的に強かろうがどうだろうが、こんな雨ではさすがに体もつらいだろうに。それが自分に対する強がりなのか、仕事に対する正義感なのかは分かる筈もなかったが、凡河内の『こう云う』ところがたまらなく癇に障ってしまう。

 新名はあきらかに不機嫌そうな面持ちで、思わず声を荒げていた。

「どうしてそう『大したことない』だとか気取ってみせる訳?こんな酷い雨なんだから普通に休めば良いじゃねーかよ。どうせおまえ一人いなくたって仕事は回るんだからさ、そんな無理してまで出てくる必要なんかねぇっつーんだよっ」

 そんな無理をしてまで仕事をこなしたところで、何の得にもなりはしない。どうせ穴を空けたとしても周りの連中がそれを埋めるだけのことであり、ましてや凡河内などしがない配達員に過ぎない訳なのだ。代わりならいくらでも用意できるだろうに。

 だけどもその言葉を聞いた凡河内は瞬時に険しい顔付きを見せ、まっすぐに新名をとらえてこう云った。

「…以前にも思いましたけど、どうして貴方は仕事に対して『そう云う』考えしか持っていらっしゃらないんですか?そんなに一生懸命頑張っている人間は『バカ』ですか?たとえ自分一人がいなくても回るような仕事であろうとも、私は私の為にただ信念を持って働いているだけです。それが必要かどうかの判断は、あくまでも私が下すことですから…っ」

 云って凡河内は入力処理を終えたカードとファイルをテーブルの上に置き、書類を手にすると無言のままにその場から出て行った。一人残された新名はただ立ち尽くしていることしかできなくて、今更ながら自分の吐き出した言葉の悪意と云うものを思い知らされたかのような気がしていた。

 凡河内を見ていると、酷く苛立ちを憶えてしまう理由─────。それはずっと長いこと気付かないフリをしていたが、多分に自分は彼の生き方が羨ましかったのだと思う。

 何もかも適当にこなしているだけですべてが簡単に手に入るような人生を今の今まで送ってきた新名にとって、多大な苦労をしながらも自分の夢に向かって頑張り続けている凡河内の姿はたまらなくまぶしいものだった。

 どんな時も笑顔を浮かべていられること─────それは日々の生活にいつも何かしらの『意味』があったからに違いない。

 そんな彼を妬み、気分次第で冷たく当たったりしていた自分はなんて小さな人間なのだろう。ここまで自分が性根の腐った最低なやつだとは思ってもみなかった。

 新名は思わず悔しくて泣きそうになってしまう目元を擦り付け、ぐっと顎を上向ける。これはそう、『終幕』などではない。自分は『ここから』すべてをやり直さなければならないのだ。

「…こんな『サイテー』のままなんて、俺のプライドが許す訳ねーだろ…っ」

 そう独り言を零す口元には何故か、笑みが浮かんでいた─────。

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