第5話

 翌朝、酷く寝不足ながらもどうにかいつもの時間に起床できた新名がリビングを訪れてみると、すでにもう凡河内の姿はなかった。果たして出勤時間に間に合ったのかどうなのか。昨晩そのままにしてあったテーブルの上は綺麗に片付けられており、そこには彼が書いたと思われる一枚のメモが残されていた。

『昨日は色々と、どうもありがとうございました。───凡河内───』

 歳の割には丸っこい文字で書かれた文面に、思わず笑みが口を吐く。昨日あのままベッドにもぐり込んでしまったおかげで、着ていたワイシャツとスラックスはものの見事に皺くちゃ。とりあえずまだ寝惚けている頭を覚ますべく、シャワールームへと赴いた。

 そして軽く汗を流した後、ホットコーヒーを一杯口にしてから、いつものように出社した。────そこまでは多分、頭が正常に機能していなかったのだと思う。いざ仕事場のデスクに向かってみると昨晩しでかしてしまった行為が鮮明に思い浮かばれ、それからの新名は周りの人間が思わず心配してしまう程挙動不審な人物となっていた。

 ───────凡河内にしてしまったキス。

(…あぁもうどうして俺の頭は、そんな悪夢みたいなことをわざわざ憶えてたりするんだかっ!)

 無類の女好きである自分が、どうしてあの時女顔でも何でもない男相手にそんな気になってしまったのかが分からない。当然ながら今の今まで一度もそう云う嗜好を持ち合わせたことがなかった新名にとって昨晩の行動は、己のことでありつつもまったくもって説明のつかない事態だった。

 生憎新名はいくら酒を飲んだところで見境がなくなる、などと云う性質ではまるでない。────ならばどうしてあんな真似をした?男相手に欲情してしまう程、女に不自由していると云う訳でもないのに。

「あ~~~~…っ、自分自身に腹が立つ~~~~っ…」

 思わずそう声に出し、がりがりと頭を掻き毟る。と、その様子を傍で見ていた女性社員の一人が、おずおずと新名の名前を口にする。

「あのぉ~、新名さん。ちょっとお願いしたいことがあるんですけどぉ~…」

「…あぁ?」

「あっ!、忙しいなら別に良いんです!無理して聞いてもらう程大事な仕事でもないですし…」

 余程無愛想で不躾な態度をみせていたのだろう。振り返った途端に慌ててそう言葉を紡ぎ出す彼女の様子に新名はひとつ、大きく息を吐き口にする。

「────いや、ごめん。誤解を招くような云い方しちゃって…。良いよ何?、手伝うよ」

「あ、そうですか?なら机の運び出し───手伝ってもらっても良いですか?」

「あぁ、もちろん。女手だけじゃ運ぶのも大変だからね」

 いくつ運ぶのかは知らないが、それなりに時間がかかるだろうと思った新名は、念の為スマートフォンをスラックスのポケットへと押し込める。

「で、何?誰かがきみ一人に『やれ』って云った訳?」

「……三上部長です」

「あー…なるほどね」

 多分にそんな無謀なことを云うのは彼くらいなものだろう、とは思っていたけども、やはりその通りだったと云う訳か。どうせまた仕事もしないで一日中プラプラしているだけだろうから、それくらい自分でやれば良いものを。

 そうは思っても、あの人が部下の意見などを素直に聞き入れてくれる筈もない。下手に勤続年数が長い上司と云うものは、扱いづらく厄介だ。

 思わず二人して『はぁ~…』と重苦しい溜息を吐き出すと、不要な机が仕舞われていると云う2階、第4会議室へと足を運んで行く。途中擦れ違う同僚たちに軽く手を振りながら暫し横並びになって歩いていると、ふいに彼女が顔を覗き込むような仕種を見せてきた。

「─────良かった。新名さん、いつもと全然変わらない」

「え?」

「何か今日、朝から少し様子が変だったじゃないですか。だから皆で『どうしたんだろうねー?』って心配してたんですよ」

 だから先程おずおずと彼女は声をかけてきた、と云う訳か。自分でもかなりやばい状態にあった自覚があるだけに、実に申し訳ない気持ちになってくる。

「…そっか、皆には悪いことしちゃったな」

「そんな、気にしなくても良いですよ。私たちが勝手に心配してただけなんですから」

「…うん、でもごめんな。ありがとう」

 そう云って浮かべる新名の笑顔に、思わず彼女の頬は赤くなる。こんな間近で微笑まれた、などと他の女性社員に云おうものならば袋叩きに合ってしまいそうだ。

 そのままエレベーターに乗り、二人は目的地である2階に降り立つと、早速運び出しに取り掛かるべくワイシャツの袖を捲った。

 ──────それからどれだけの時間が経過したことか。不要になった机を15卓、業者が取りにくると云う裏通用口の外へと運び終えて腕時計を見てみると、時刻はすでに5時半近くとなっていた。始めた時間を考えるとそう大した時間でもないのだが───新名は途端、『まいった』と云う風に頭を掻き毟り、急いでエレベーターにと乗り込んだ。

「そんなに何を急いでるんですか?」

 そんな新名につられるままに同じエレベーターにと乗り込んだ彼女が、不思議そうな顔で云う。

「いや、俺さ、今宅配便の集荷担当やっててさ。で、いつも『ネクスト』さんが5時半頃に取りにくんだわさ」

「─────あ、なるほど」

「まぁ、別にカードの入ったファイルを渡すだけだから、俺がいなくても全然問題はないんだけどさ。とりあえず『自分の仕事』だから」

 正直昨日の今日で凡河内と顔を合わせるのはつらかったりもするのだが、昨日の今日だからこそ普通に接しなければならない風に思う。きっと義理堅い彼のことだから、改めて礼のひとつでも云わないと落ち着かないでいるだろう。

 7階、営業部のあるフロアで彼女と別れた新名は、少し足早になりながら荷物の受け渡しを行っている一角へと向かった。と、案の定凡河内はもう足を運んでいたようで、ドアの外にはいつものように台車が用意されていた。

「あ、どうも『ネクスト・サービス』です」

 ドアを開け中に入ると、そこには同じ部の女性社員と凡河内の姿が見えた。彼は入ってきたのが新名だと分かるとぱっと笑みを浮かばせ、書き終えたらしいボールペンを胸ポケットに差しながら振り返る。

「────ごめん、俺の仕事なのにわざわざ出てきてもらっちゃって」

「いえ、別に良いですよ。新名さん、他に何か仕事してらしたんでしょ?」

「あぁ、いらない机の運び出し。…おかげで腕が痛くてたまんないよ」

 云って疲れをほぐすかのように腕を軽く揉んでみせると、彼女と凡河内は小さく笑んでいた。今日の荷物は書類が2件あるだけで、凡河内はそれを小脇に抱えるとファイルを差し出しながら云う。

「昨日は本当に色々とありがとうございました。おかげでゆっくり休むことができました」

「…そっか、それは良かった。で、今朝は遅刻しないで行けたのか?」

「えぇ、それはもう習慣付いてますので。ちゃんと6時に出社しましたよ」

「今度はおまえの休み前にでもゆっくり飲もうよ。また何か美味いもん作るからさ」

「…はい、楽しみにしてますね」

 『それではお預かりして行きますね、ありがとうございました』。凡河内は元気良くそう云ってドアを開け出て行き、その姿を見送った新名は自分の机に戻ろうと足を進める。─────が、唐突に後ろから腕を掴まれ、思わず倒れてしまいそうになる。

「なっ、何?急に引っ張ったら危ないって─────…」

 何とか倒れずには済んだものの、体勢を整えながら彼女にそう注意すると、何故か至極目を輝かせ満面の笑顔で距離を詰めてくる。当然恐怖を感じたものの掴まれた腕から逃れることはできなくて、新名はただ半笑いを浮かべたまま黙っている他になかった。

「もしかして新名さんて今の人と仲良いんですか?!」

「えっ?!あ、…まぁ、一応…」

「嘘─────っ!、なら紹介してくださいよ!あの人のファン、結構いたりするんですから!」

(ふぁ、『ファン』って貴女、芸能人じゃないんだから……)

 思わすそう突っ込みたくなってしまう気持ちを押さえ付け、とりあえず『ははは…』と笑って誤魔化すことにする。前に他の女性社員に聞いた時にも思ったが、何気に凡河内は人気者らしい。

 それを僻むつもりも羨ましいと思う気持ちもなかったが、何故だか胸の辺りにもやっとしたものを憶えた新名は、誤魔化し笑いを続けたままやんわりと彼女の手を解く。

「…それじゃあ俺、悪いけどもう戻るから」

「あ────っ!、ずるーいっ!!」

 『ずるい』と云われようがこれ以上、相手をしている暇も余裕もない。そのままひらひらと手を振って自分の机にと戻ると、思わず新名は『ふぅー…』と長い溜息を口にした。

 そして何気に眉間の間にと指を当ててみると、そこにはくっきりと深く皺が浮かび上がった状態で────…。それがまたひとつ彼にと溜息を口にさせていた。

 アヤコの言葉によると、機嫌が悪い時程『ココ』に皺に寄るらしい。その不機嫌な理由とやらが何なのか、思い当たる節はないかと云う風に暫し新名は思案する。────が、それがひとつの仮定に当て嵌まりかけたその瞬間、新名はそれを打ち消すかのように心の中だけで凄まじい雄叫びを上げてしまっていた。

 ─────そんなことは『ありえない』。万にひとつも『ありえない』。

 凡河内を想う彼女に対して嫌な気分を抱いただなんてそんなこと、『ありえる』筈がなかった。



     ■   ■   ■



 いつもアヤコと逢う時は、彼女からの連絡待ちだった。

 だけどもその日は新名の方から電話をし、普段ならけして口にすることのない無理なお願いをしてしまった。それは普通の恋人同士ならば当たり前の言葉なのかも知れないが、二人の関係に『今すぐどうしても逢いたい』などと云う情熱的な言葉はなかった。

 だけどもアヤコは初めて耳にした新名からの誘いに快くOKしていた。

「はぁ…っ…、は…っ…貴之…っ…」

 そして今いつもよりも強く互いを求め合い、惜しげもなく晒される彼女の裸体に新名は何度も熱を押し込めた。紅く魅惑的な唇。何とも豊満な乳房。洩れる吐息は至極艶やかで、余計なことを考えなくても済むように夢中になってそれらを掻き抱く。

 まるで、『何か』を言い聞かせるかのような行為。

 まるで、『何か』を振り払おうとするかのような行為。

 それでも今はこうしてアヤコを抱いていないと、どうにもいられなかった。

「今日も何だかご機嫌斜めみたいね」

 飽きる程抱き合った後無性に喉の渇きを憶え、ベッドの上にアヤコを残したままキッチンに向かおうとしていた時だった。そう声をかけられ振り向いてみると、アヤコはとんとんっと眉間を軽く指で叩き付け、大人の笑みを浮かべていた。

 それを見て思わず苦笑してしまいながら眉間の皺を戻して行き、新名は言葉もないままに部屋から出て行こうとした。─────が、ドアノブに手をかけたところで足を止め、再び振り返るとまっすぐにアヤコを見詰め問うてみる。もちろん、返ってくる言葉など容易に察することはできたけども。

「…ねぇ、アヤコさん。一生懸命頑張ることとか正直に生きてくことってさ、やっぱり馬鹿だと思う?」

 その問いにアヤコは少しだけ驚いて。しかし、次の瞬間酷く冷めた目を向けられる。

「─────そうね。そんなのきっと損してばかりで『馬鹿だわ』、って思うわね」

 案の定そう返された言葉に自嘲の笑みが浮かんでしまうのは、一体何故なのか。新名は『…だよね』と一言小さく呟くと、薄暗いキッチンに向かって歩き出していた。

 そして冷蔵庫を開き、中からミネラルウォーターを取り出そうとした際に凡河内から購入した、残り僅かとなった生ラーメンが目に入り────途端、新名の脳裏にはさまざまな台詞が蘇る。


『─────『頑張る』理由は人それぞれ。私は私のやれることをやり続けるだけですよ』

『だから早く店が持てるよう、毎日頑張っている訳です』

『ん~…でもやっぱり『美味しくない』ものはお客さんにオススメできないですからね』

『それはもう仕方ないですね、性分ですから』──────…


 己の夢をしかと持ち、あんなにも日々一生懸命頑張っている凡河内を、自分は今のアヤコのように蔑むことができるのだろうか。以前のように『バカバカしい』などと云う一言で、簡単に片付けてしまうことができるのだろうか。

 新名はただ無意識の内に痛み出す胸を押さえ付け、静まり返ったキッチンに一人、暫し立ち尽くしたままだった─────…。

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