第4話
翌日、肉まんのお礼を云わなければと思っていた新名だが、いつもの時間になって集荷に現れたのは別の配達員だった。
「凡河内ですか?今日は非番なんですよ」
普通のサラリーマンとは違い年中無休の会社なので、休みは毎週交代で取っているとのことだった。そう云えば何度か凡河内ではない配達員が集荷をしにきたことがあったかと、今更ながら思い出す。
(まぁ、礼なら別に明日でも良いだろう)
そう思うと新名は残った雑務を片付け、いつものように7時には会社を後にした。そして近くの駐車場に停めてある黒のポルシェに乗り込むと、それを買い与えてくれたアヤコからタイミング良く連絡が入る。
「…うん、じゃあ昨日出そうと思ってた美味しいワインと料理を用意して待ってるよ────…」
これで昨日買い込んだ食材を無駄にしないで済むと云うものだ。思わず綻んでしまう口元もそのままに、けして嫌いではない料理をもう一品追加しようかとスーパーに向かうことにする。昨晩のようにまた、変な時間に腹を空かしてしまわないように。
「─────さてと、とっとと家に帰って飯の用意でもしましょうか」
買い物を済ませ再びハンドルを手にすると、自宅を目指して車を走らせた。それからほんの10分程度だっただろうか、ふいに新名はフロントガラス越しに見慣れた男の姿を確認し、思わず路肩にと一時停車をしてしまう。
見慣れた男───凡河内は車道の並びにある一件のカフェレストランから出てきたばかりと云う風で、その傍らには恋人だと思われる清楚な女性が立っていた。が、二人を包む雰囲気は見れ取れる程はっきりと不穏の色をみせており───…『ケンカでもしたのか?』と思った途端目の前で、凡河内は彼女の平手打ちを受けていた。
そのまま背を向け走り出す彼女を追いかけることもせずに、凡河内はただ小さく項垂れて殴られた頬を抑えていた。────これは最早『ケンカ』などと云うレベルではないのだろう。彼の寂しげな横顔がそれを物語っているような気がした。
「…なんか見ちゃいけないもん見ちゃったみたいだな……」
仕事上の付き合いだけの人間のプライベートな部分を目撃してしまうとは、何とも複雑な心境だ。とりあえず見て見ぬフリをしておいた方が良いだろうと判断し、一度はハンドルを握った。─────が、このままだと気持ちが悪いだけだと思い返した新名は途端、ドアを開け、未だ立ち尽くしているだけの凡河内の元へと駆け寄った。
「─────おいっ、そこの『運送屋』!」
咄嗟に口を吐いて出た名前ではないそのフレーズに、だけどもはっと凡河内の顔が上を向く。
「……新名さん。どうしてここに…?」
当然と云えば当然か、不思議そうな面持ちをみせている凡河内を静かに見下ろすと、新名は正直にこう云った。
「…悪い、今のやり取り全部見てた」
「!」
「おまえの姿が見えたから車を停めただけなんだけど────…見て見ぬフリ、してやんなくてごめんな」
前回の時もそうだが、またしても悪いことをしている訳ではないのに謝ってくる新名に、凡河内は思わず苦笑してしまう。
「…なんで新名さんが謝るんですか。こんなところで彼女を怒らせた私の方が悪いのに」
「でも、知人にはあまり見られたくない姿だろ…?」
「………………」
「こんな時まで気ぃ遣わなくても良いからさ───────…」
そう云う新名の言葉に凡河内は暫しの沈黙を挟んだ後、再び小さく苦笑した。
「そんな、こちらの方こそ気を遣っていただいて────…。本当、申し訳ない限りです」
─────きっとこれもまた彼の云う『性分』と云うやつなのだろう。このままだと互いに謝罪を繰り返すだけで一向に話は進まない。
と、云っても別に彼女との間に何があったのか、聞き出したいと思っている訳ではけしてない。ただ素直に『つらい』と吐き出すことのできない凡河内を今は独りにさせておくのが嫌だった。
たとえそれが彼にとって『お節介』なだけだとしようとも。
「────今日ってこの後何か予定とかあんの?」
「…えっ?あ、いやっ、別に何もないですけど…?」
唐突にまたこの人は何を問うてくるのか。思わず『?』と云う風な顔付きで返答をしてしまうと、新名はにこりと微笑んで肩にとがっちり腕を回してくる。
「なら今日は俺んちでゆっくり酒でも飲んで行けよ」
「えっ?!やっ、あのっ、そんな別に良いですよ!私なら全然、気にしてないですし─────…」
家に帰って一人で泣きたいだとかそう云う気持ちは特になかったが、だからと云って日頃良くしてもらっている客の一人にそこまで気を遣わせてしまう訳にはいかない。考えるまでもなく断りを入れてくる凡河内の胸中が如何なるものか、容易に察することができた新名は、彼が気にしなくても済むような言葉を選んで口にする。
「俺はただおまえと飲んでみたいだけ。──『そう云う』理由でもお付き合いできない?」
ラーメンを注文してくれた時にも思ったが、どうしてこう、新名の微笑には『NO』と云えなくなってしまうような効果があるものか。凡河内はその問いにただ小さく首を横に振り、新名に促されるままに彼の車にと乗り込んだ。正直仕事だけでの付き合いである相手の家まで行くのはどうかとも思ったが、今はただ素直にその厚意を受けることにする。
(…どうせ今夜は家に帰ったところで寂しい思いをするだけだしな…)
それならばいっそ、誰かとともに騒いでいる方が気が紛れると思った。
「………随分とまた、すごいところに住んでいらっしゃるんですね…」
車を走らせること約30分。新名の自宅だと云うマンションの一室に通された凡河内は、リビングに足を踏み入れるなりそう驚きの声をあげていた。どのくらいの㎡数かは分からないが、このリビングだけで自分の部屋が丸々入ってしまう程の広さである。新名の勤務先が一部上場の大企業であることは当然知ってはいるのだが────…まさかこんな生活ができてしまう程の高給取りだったとは思いもしなかった。
そんな驚きを露わにきょろきょろと辺りを見回してしまっている凡河内に、新名は思わず苦笑してしまう。
「別に俺が選んで買ったって訳じゃないけどさ、確かにまぁ、色々と結構なトコだわな」
「いやもう『結構』どころの話じゃないですよ。こんなすごい家に住んでる人と知り合いになったのなんて初めてです」
「ははっ、とりあえず適当に寛いで待っててよ。軽くつまめものとか用意するからさ」
云って新名は一人キッチンへと向かい、ズボンの後ろポケットに突っ込んであったスマートフォンを取り出して操作する。
「────あ、もしもしアヤコさん?ごめん、ちょっと急に断れない仕事が入ってさ。…うん、ごめん。この穴埋めは必ずするからさ。…うん、それじゃあまた。俺も愛してるよ────…」
初めてアヤコに吐いた嘘。でも、世間的に云う恋人とは異なる関係にあるせいか、たいして罪悪感を憶えることもなかった。新名は再びスマートフォンをポケットの中にと押し込むと、ワイシャツにネクタイと云う出で立ちのまま料理を始めた。
その間、自分の部屋よりも広いリビングに取り残されてしまった凡河内は一体どこでどう寛げば良いのか分からずに、暫し辺りをきょろきょろと見回してばかりいた。まったく物が散らかっていない、すっきりとした空間。まるでモデルルームにでもきているかのような趣味の良いインテリアで統一された室内は、あまりにも自分にはそぐわない世界のようだった。
とりあえず凡河内は毛の長い絨毯の上に置かれた、見るからに座り心地が良さそうなソファーに腰を下ろし、ほとんど『借りてきた猫』状態で新名が戻ってくるのを待つことにした。
そんな所在なさげにちょこんと座っている凡河内の姿に気が付くと、料理を手に戻ってきた新名は思わず『ぷっ』と吹き出してしまっていた。
「────何だよ、そんなかしこまっちゃって。もっとリラックスしてくれて良いんだぜ?」
「………はぁ………」
そうは云われても『初めてきたお宅(しかも取引先のお客様宅)』などと云う状況で、すんなりとリラックスできてしまう訳がない。───だけども次の瞬間、鼻腔を突いた何とも美味しそうな匂いに、ぴくんっと凡河内の顔が持ち上がる。
「…チーズの焼けた匂いがする」
「あぁ、今日は良いワインがあるんでね、それに合わせた前菜を作ってみたんだけど─────…」
云ってトレーからテーブルの上にと料理を並べて行く様子を、凡河内は至極楽しみと云う風な面持ちでじっと見詰めたままだった。将来自分の店を持ちたいと云う夢を持っている彼にとって、『食』は何にも勝る喜びなのだろう。
新名は最後に、本当ならば今夜の主役となるべきだった年代物のワインをテーブルに乗せると、凡河内と向き合うような形でソファーの上にと腰かけた。
「それじゃあ、乾杯しよっか」
「あ、はいっ。────いただきます」
互いのワイングラスを軽く当て、注がれた赤い液体を口の中にと含ませる。途端、凡河内は驚いた風に目を開き、改めて香りを鼻にする。
「…美味しい───…。このワイン、すごく美味しいですね。こんなの、初めて飲みました」
「ま、その辺じゃ滅多にお目にかかれない代物だからな」
「………………」
「はははっ、別にそんな気にする必要なんかねーよ。俺ならいつでも飲めるしさ、今夜は遠慮するなって」
『滅多にお目にかかれない』代物を『いつでも飲める』と云うだなど、本当にこの人は住む世界が違うのかも知れない。凡河内は至極味わってそのワインを飲み干すと、テーブルの上に広げられた料理に箸を付けた。
「…これ、サワークリームとゴルゴンゾーラチーズのソースですか?」
「そう。他に白ワインとコショウ、塩も軽く入ってるけどね」
「…うん、美味しい。こっちのローストビーフも香辛料が効いてて美味しいですね」
ひとつひとつの料理を実に美味しそうに食して行く凡河内に、自然と新名の口元は緩み出す。アヤコはいつも淡々と口に運ぶだけだったので、こうして喜びを露わにしながら食べてくれるのはとても嬉しい。新名は空になった自分のグラスと彼のグラスにワインを注ぎ入れ、組んだ足の上に頬杖を突いていた。
思えばこうして自分の職場にと出入りをしている配達員に過ぎない凡河内と、プライベートな時間を過ごしているだなんて至極不思議な感じがする。普段は制服を着ている彼の私服姿も何だか新鮮で、帽子を被っていない髪は短く、前髪がツンと立っている。上は紺色の英字プリントが入った、フード付きのトレーナー。下は色落ちした風合いのグレージーンズを履いていた。
「いつも私服はそう云うカジュアルなもんばっかなの?」
酒を飲みにきた、と云うよりは料理に夢中になってしまっている凡河内に何となくそう問うてみると、彼はふっと顔を上げ、緩んだ表情のまま頷いた。
「そうですね、いつもこんな感じです。───新名さんはやっぱりシックな感じが多いんですか?」
「俺?ん~~…まぁ、大体はそうかもな。でも、ジャージとかも楽で好きだよ」
「…へぇ、それは意外ですね。あ、着替え、しなくても良いんですか?」
そう云えば新名はワイシャツにネクタイ、スラックスと云う服装のままだ。料理をするのに邪魔だったのかネクタイはピンで止めてあるが、けしてリラックスできる格好などではない。
だけども新名は別段気にしている風はなく、むしろ着替える方が面倒だと云いたげな顔をする。
「皺んなったらなったで別のスーツを着てけば良いだけのことだから。────あ、そうそう忘れてた。おまけでくれた肉まんありがとな。昨日早速食べてみたんだけど、普通に美味かった」
凡河内に会ったら云おうと思っていたことをふいに思い出し、改めて新名が礼を云うと、凡河内は『良かったです』と笑ってグラスを傾けた。
いつもの『職場』と云う環境から離れ、『友人』とも違う関係にありながら、どうしてこんなにも自然と話せてしまうのか。互いにそれを不思議に思っていながらも戸惑いを憶えるようなことはなく、まるで初めからそう云う関係であったかのような、心地良い空気が二人の間には流れていた。そのせいか、美味しい料理をつまみに交わす会話は弾み良く、遠慮をしつつも勧められるままに空けて行くワインは、凡河内をすっかり無防備な状態にさせていた。
凡河内はふいに火照った頬を冷ますように両手で包み込みながら、静かに目を伏せて行く。
「───────新名さん。これからする話は俺の『独り言』だと思って聞いていただけますか…?」
今の今までずっと自身のことを『私』と呼称してきた彼が『俺』と云い、初めて見せる神妙そうな面持ちに新名はただ頷いた。その反応に少しだけ口元に笑みを浮かべたが、すぐにそれも姿を消して行く。凡河内の瞳にはあきらかに悲しみの色が滲んでいた。
「…俺ね、今日別れた彼女と付き合った当初から結婚を考えていたんです。彼女もそのつもりでいてくれて、『自分の店を持つ』と云う俺の夢もすごく応援してくれました。でも、その為に始めた今の仕事の多忙さに二人の時間を作るのがだんだんと困難になりまして─────…ここ数カ月の間で彼女とまともに逢えたのは2、3回くらいだったんです。それでも俺は毎日過ぎるのが早過ぎてそんなには気にならなかったんですけどね、彼女の方は───…その内色々と考えるようになったらしいです。『分かっていても寂しいの』、…最後にそう云われました」
そこで一旦言葉を切り、つらいのか表情を隠すように小さく俯いてしまう。それから口元に自嘲の笑みを浮かべると、言葉の先を続けた。
「結局俺は甘えていたんです、『恋人』と云う関係に。だから彼女が寂しい思いをしていることにも気付いてあげることができなかった─────…。本当にもう、自業自得ですよね。いつだって俺は自分のことしか考えてなかったんですからね……」
その先はもう話す言葉がないのか、いつまでたっても凡河内は黙ったままだった。ただずっと下を向き口元を歪めているだけで、泣いているのかどうかも分からない。先程は『全然気にしていない』だなどと口にしていたが、やはり、彼女との別離は相当堪えていたに違いない。新名には生憎その気持ちを理解することは難しかったけども、ひとつだけしっかりと分かっていることがある。
新名はソファーにの背に預けていた上体をゆっくりと起こし、まっすぐに凡河内を見詰める。
「─────でもおまえ、いつも周りに一生懸命じゃんかよ」
「!」
「俺には自分の夢しか考えてない人間に、そこまでできるとは思えない。いつだっておまえは周りを気遣って、一生懸命頑張ってんじゃないかよ。だから俺が思うにおまえが『甘えてた』んじゃない。彼女の方がその関係に『甘えきっていた』からこそ、おまえと離れてるって云うことに我慢できなくなったんだと思う」
自分のものだと思っている筈の恋人が、仕事に同僚に、客に時間に奪われて行く─────。彼女はきっと、そんな錯覚を憶えてしまっていたに違いない。凡河内は誰にでも優しい人間だから、疑うつもりはなくとも知らずそう孤独に支配されて行く。
冷たい云い方かも知れないが、相手を信じることができずに『逃げ出したい』などと思ってしまった時点で彼女はもう負けている。本当に好きならば、どうにでも打開策はあった筈なのだから。
『所詮はその程度の相手なんだよ』。
思わず吐いてしまいそうになるその言葉を飲み込んで、いつの間にか表を上げていた凡河内に新名は笑顔を向けて云う。
「大丈夫。おまえのその夢も仕事も全部引っ括めてさ、分かってくれる人は絶対いると思うから」
ただの慰めの言葉にしか聞こえないかも知れないが、新名は本気でそう思う。人として問題があると思われる思考の持ち主である自分に、ここまで心を開かせた類稀なる人物なのだから。たとえそれが『物珍しい』だけであろうとも、確かに新名は凡河内と云う存在に至極惹かれていた。
云ってまた先程のように何事もなく、空になってしまったグラスにワインを注ぎいれて行く新名に、凡河内はとんっ、と背中を優しく叩かれたような気がした。多分に酔っていたからたまたまそう傍にいた新名に弱い部分を晒してしまっただけのことだと思っていたのだが────…その割には何故か心はすっかり軽くなってしまっている。
凡河内は自嘲ではない、いつものやんわりとした笑みを浮かべると、まっすぐに新名を見詰めた。
「──────ありがとうございます、新名さん」
「ん?あぁ、別に俺は何もしてないよ」
「…いえ、おかげですっきりしました。明日からまた────…色々と頑張ることができそうです」
きっと一人の部屋にいたならば、未だに心は悲しみに彩られたままでいただろう。偶然だとは云え今夜、新名に会えて本当に良かったと思う。
再び注がれたワインを口にする凡河内の様子を目に止めて、新名もまた同じように笑顔を見せていた。
「そっか、明日も普通に仕事なんだっけ。────で、おまえさんは何時出社なの?」
「あ、俺ですか?いつも6時出社です」
「『6時』─────っ?!」
「えぇ、だからいつも5時くらいには起きてますね」
(……そ、そんな時間まだ俺全然爆睡してるんですけど……)
朝も早くから仕事だろうとは思っていたけども、まさかそこまでだったとは。気にして室内に置いてあるデジタル時計に目をやると、時刻はすでに夜中の1時を回ろうとしていた。
─────これはまた随分と飲み耽っていたものだ。凡河内の家がどこにあるかは知らないが、今からすぐに帰っても何だかんだで寝るのは2時過ぎになってしまうことだろう。
「なら今夜は俺んちに泊まりなよ。その方がまだゆっくり寝れるだろ?」
思わぬ新名からの申し出に、当然凡河内はぶるぶると大きく首を横に振る。料理やワインをこうしてご馳走になっただけでもあれなのに、さらなる迷惑をかけてしまう訳にはいかない。
だけども新名の見せる微笑にはやはり抗えず、気付いた時には『お世話になります』と頭を下げてしまっていた。確かに彼の云う通り、自宅に一度戻るよりもここから出社した方がゆっくりと眠れる。正直その申し出は非常にありがたいものだった。
「そうと決まれば寝るとこ用意しなくちゃな。風呂はどうする?」
「あ、いやっ、それは良いです。今日は汗も掻いてないですし」
「そっか。じゃあ、布団の用意してくるから待ってて」
云って新名はその場から立ち上がり、寝室へと足を向かわせる。さすがに普段アヤコとするのに使っているベッドで互いに寝るのはあまり良いものではないだろう。新名はクローゼットの中から敷布と毛布、そしてジーンズでは寝苦しいだろうとラフな着替えを用意すると、それらを抱えて再びリビングのドアを開いた。
その間、大体10分かそこらなものだろう。なのに、ソファーに座っていた筈の凡河内の姿が見えない。
『トイレにでも行ったのか?』と思いながらとりあえず抱えていたものを床に置き、室内に足を進めると────…ソファーの上に横たわり、軽い寝息をたてている彼の姿を見付けた。日頃の疲れと酒と、そして気の緩みによるものなのだろう、すっかり深い眠りに墜ちているようで、新名は『仕方ないな…』と云う風にひとつ、溜息を吐き出した。
「…器用なもんだな。眼鏡したまま横んなってるよ」
外す余裕もないくらいの睡魔が襲ってきた、と云う訳か。下手に弄ると起こしてしまいそうだと判断すると、そのまま体の上にと毛布をかけてやり、心地良い眠りに就いている凡河内の様子を見下ろした。
彼女とろくに逢う時間もないと云うだけのことはあり、顔には疲労の色がはっきりと浮かび上がってしまっている。目の下にはうっすらと隈が、すぐ傍に置かれた指先には段ボールなどを扱っている為か、カサ付きや細かな切り傷と云ったものがいくつも窺えた。
本当に日々過酷な思いをしているのだろう。なのにまるで曇ることのない彼の笑顔に、新名は至極胸が痛くなる。でもそれは以前抱えていたような同情や憐みと云ったものとは、あきらかに相違しているような気がした。
新名は行儀悪くテーブルの縁へと座り込み、自分でも気付かない内にゆっくりと凡河内との距離を詰めて行く─────…。
「……ん…っ……」
その行為に何かを感じてか、凡河内の口から小さな唸り声が洩らされる。────と、途端今自分が何をしていたのか、はっと我に返った新名は、あまりの事実に声もなくただ勢い良く上体を飛び起こす。
(………ま、まさか今俺こいつにキスしてたのか…?!)
改めてそう己自身に問うてみたことで眩暈を憶えてしまった新名は、よたよたしながらも何とかその場から立ち上がりリビングから出て行くと、寝室に置かれているベッドにと無造作に寝転んだ。
───────これは、何かの間違いだ。女好きの自分が男にキスをするだなど、間違い以外の何ものでもない筈だ。そうでなければ、相当酒に酔っていたに違いない。何にせよこれはすべて『間違い』だ。
半ばそう言い聞かせるようにして何度も同じ言葉を繰り返し、とりあえず新名は無理矢理にでも寝てしまおうと試みる。明日になればきっと、頭もすっかり忘れてくれていることだろう。
だけどもやはりと云うべきかいつまで経っても寝付けずに、結局意識を手放せたのは夜中の3時半を回ってからのことだった───────。
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