さくら
はるこ
居酒屋にて
「なんでまた、そう簡単に股を開くんだよおめーは」
深夜一時、都内の居酒屋。終電を気にする必要のなくなった人々が、大きく口を開けてたまったものを吐き出している。すだれで隣の卓とはなんとなく仕切られているし、みんな思い思いにしゃべくっているので、普通に自分たちの会話を楽しんでいれば、それ程周りのことは気にならない。しかし、目の前の男と続ける価値のある話題を模索していた私の耳に、その少しハスキーな声はツーンと響いた。
「隣の子たち、女子大生かな。結構若いみたいだけど、なかなかすごい話してるね、いや、今の若い子はそんなもんなのかな」
目の前の男がぼそぼそとしゃべる。よく見てますね、と言おうとして、のどぼとけあたりでギリギリ言葉を止めた。適当に相槌をうって、そこから話を広げようと無駄な努力を試みたけれど、なんとなく隣の卓に意識がいってしまってうまくいかない。
―そういえば僕も大学生のときの友だちにね
「簡単に開いてるわけじゃないもん」
隣から聞こえてきたもう一つの声に、私は少し驚いた。おとなしそうな、落ち着いたやわらかい声だった。
「だってお前、今年入ってから何人目? 流されやすすぎ!」
ハスキーな方が大声でわめく。彼女の方がよっぽどまともなことを言っているのに、おそらく世間の人は彼女を「軽そうな女」として認識するのだろうと思う。
「でも、好きって言ってくれるから」
どうやら本当に軽い方の女の子が静かに言う。
―普段はすごくいい子でかわいらしくてさ
「いや、そのセリフはまずいって、メンヘラかよ」
「ちーちゃんはさ、可愛いし、歌上手だし、何よりちゃんとお付き合いしてる彼氏さんがいるじゃない」
「あんただって作ろうとすればできるってー」
「ちーちゃんはいつもそうやって言ってくれるね」
私はおもむろに手元のグラスに手を伸ばして、そのグラスが空なことに気付いた。そのタイミングで、店員が「梅酒ソーダ割りでーす」と言いながら私の目の前にグラスを置く。いつの間に目の前の男が注文していたらしい。そろそろこっちに意識を戻そうと思ったそのとき、また隣の女子の、今度は静かな方の声に私の体はピクリと反応した。
「桜、きれいだったね」
「そうだねえ」
「今日上野公園で見てきた桜、すごいきれいだったけどさ、ちーちゃんは夏の葉桜を見て、あ、桜だ、きれいだなーって思う? 道路沿いに一本だけ木が生えてて、何だろう、邪魔だなって思ってたら、春になって桜の樹だってわかって、そのときは邪魔だなんて思わすに、きれいだなーずっとみていたいなーって思うこと、ない?」
「ある、かも」
―僕はそんなことやめなってずっと言ってたんだよ
「みんなにはわかんない感覚なのかもしれないけどさ、どうせこの先、本気で好きって言ってくれる人が現れるかもわからないのなら、それが嘘だとしても、言ってくれた人に騙されたっていいかなって思うんだよ。騙されていれば邪魔だとも何の樹かわからないともいわれないのなら、騙されていた方が幸せだって思う」
―ちゃんと君を愛してくれる男がいるはずだよって
「桜はさー、一年間いい花を咲かせるために力をためて厳しい冬を乗り越えて、ああやって立派な花を咲かせるんだって、ばっちゃが言ってたよ」
「そうかな、私は、桜はかわいそうだって思うよ。春しかみんなに愛してもらえないんだもん。一年中桜なのに、まるで春しか桜じゃないみたいな扱いうけてさ、桜もやっぱり騙されてるんだよ」
「桜子さん、聞いてる?」
急に名前を呼ばれて、私はあわてて目線をあげた。
「あ、はい、そうですよね」
かなり適当な相槌だったけれど、目の前の男は満足したらしい。
「僕なら君を大事にしてあげるよ、なんて言えればよかったんですけどねー。あ、もっと飲みます? ちょっときつめのいきましょうよ、僕はそんな気分です」
相手が自分を酔わそうとしていることはわかりきっていたはずなのに、気付けばまんまとその策略にはまって、一時間後には男の部屋に向かって深夜の住宅街をふらふらと歩いていた。途中横切った公園で、満開の立派な桜が月光に照らされて、すごくきれいだ、と思ったら、月ではなくて街灯の光だった。騙された。自分が相当酔っていることを再確認しつつ、私は、「でもきれい」とつぶやいた。隣で、これから私を騙してくれる予定の男が怪訝な顔をしつつ、よく聞こえなかったふりで、「桜、すごくきれいですね」と言った。
さくら はるこ @smallspring
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