第5話 サラダ油地獄

「ただ今もどりましたですよ」

 シリイーナ教授の帰還であった。それを真由美嬢が出迎える。


「おかえり塩尻君。暑かったでしょう?」

「はは、へっちゃらですよ」

 その玄関先のやりとりの様子を二階からドエムプロと伯爵が眺めていた。ドエムプロが小声で呟く。

「おい。今なら、やれるのではないか?」

 確かに今なら階段下に真由美の体を捉える事が出来ている。期せずしてシリイーナ教授が足止めをしている形だ。

「急げ」


 二人は慌てて作戦の準備に取りかかった。ドエムプロは動画の撮影に入り、伯爵はサラダ油のボトルを部屋から持ち出して、その封を切っていざ垂らす準備をしたところで、不意に真由美が顔を上げて階段の二人に声を掛けた。

「あっそうだ清次郎。ごめんだけれど油買ってきてくれないかな?」

 伯爵とドエムプロの動きが止まる。お互いに焦りの表情を浮かべている。しかし幸いにして何をしようとしているのか下からでは見えないはずだという事に気がつき、平生を装って伯爵が答える。

「油て何?」

「そう。カツカレーにしようと思ったんだけれど、揚げ物用の油が足りないみたいなんだよね。買ってきて欲しいんだけれど」

「お使いは塩尻に頼めば……」

 ドエムプロが教授に目配せをする。状況を察したシリイーナ教授が声を上げた。

「真由美殿、僕が行きますですよ!」

 しかし真由美嬢は、階段の上を睨みつけるようにして言葉を荒げた。

「駄目よ。塩尻君ばっかり。貴方たちが行きなさい」

 それでは駄目だ。実行者と撮影者が伴わなければ計画は実現出来ないのである。咄嗟に伯爵は手に持っていたサラダ油のボトルを高く掲げた。

「あのう。サラダ油じゃ駄目かな?」

「えっ?サラダ油で良いんだけれど。どうしてあんたが、そんなところにそんなものを持っているの?」

 真由美嬢は伯爵が持っているサラダ油の大きなボトルを見て驚いた様子だった。

「いや、まぁ。自分で買っておいたのがあったんだよ」

「あんたが?」

 真由美嬢は伯爵がサラダ油を持っているのが理解できなかった様子だ。これ以上、色々聞かれるとまずい様な気がした伯爵は、早くサラダ油を手放したかった。

「じゃ、投げるよ」

「あっ、こら、そんな重そうなの投げないでよ!」

 下から真由美が叫んだ時にはボトルは既に宙に浮いていた。真由美は一応は手を伸ばしてみたものの、受けきれないと悟って途中で動きを止めた。ボトルはそのままの勢いで階段下の廊下に落ちて、その拍子に伯爵が途中まで開けていたボトルの蓋が取れた。衝撃で飛び散ったサラダ油が真由美の足に掛かる。

「きゃっ」

 思わず退く真由美嬢を見たドエムプロは叫んだ。

「伯爵、次を!」

 伯爵は慌てて次のボトルの封を切った。

「な、何?」

 何が起こっているのか理解できない真由美に教授が懇願する。

「真由美殿。お願いですから、そこを動かないで下さい」

 二階から転がる様に駆け下りてきたドエムプロが教授の背後から真由美の動画を撮影しようとしている。階段上の伯爵は、上から真由美にサラダ油を掛けようとするのだが、ボトルの空け口からでは、垂れる様にしか落ちない。当然真由美にひらりと身をかわされる。


 もう少しで目的が達せそうな所だと思った教授が、逃げる真由美嬢に頼み込もうと一歩足を踏み出し所、サラダ油に足を取られて滑る。転げる。教授を踏み越え、真由美嬢の姿を撮影しようとしたドエムプロもまた滑る。撮影している姿勢のまま転げる。頭上からはサラダ油が降り注ぎ、二人はサラダ油まみれとなりながらも立ち上がり、真由美に油にまみれるように懇願しようと近づき再び転ぶ。ドエムプロは転んだ拍子に鼻を打ったらしく、鼻血を流し、それがぬらめく油に浮いて、血走った鼻差しの異様な形相で近づいて真由美嬢に来る。

「いゃぁぁ来ないで!変態!」

 真由美嬢のその言葉を聞いたドエムプロはサラダ油まみれの満面の笑みを浮かべて呟く様に「あっ有り難う御座いますぅぅ」と言って、その場にへたり込む。教授はそのドエムプロを押さえて進む。丸眼鏡のレンズが油にまみれて一見視線がどこに有るのか解らぬ。鼻水が垂れて醜い形相の教授様がドエムプロになり代わって真由美嬢に迫ってくる。

「さぁ。真由美殿!」

 そう言って教授はサラダ油まみれの手を真由美嬢に伸ばす。真由美嬢にサラダ油が貯まった所に来て欲しいのだ。


「いゃぁぁぁ」

 目の前で繰り広げらけている惨状を前に、真由美嬢は、その場にへたり込んだ。

 その様子を上から見ていた伯爵は「これは違う」と思った。こんなのは思っていたものではない。ねっとりとてかったサラダ油で真由美のTシャツが身体に張り付き、ラバーの様な皮膚感で身体が強調されるのを夢見ていたのだが、目の前に広がっているのは、サラダ油まみれの男子中学生の地獄絵図ではないか。

「いい加減にしろ」

 伯爵は空になったサラダ油のボトルを教授に投げつけ、急いで階段を降りて、二人を押さえ込もうとする。


「真由美ねーちゃんが怖がっているだろうが!」

「いまさら伯爵は裏切るおつもりですか!」

 教授が叫んで伯爵の腕を掴む。油で滑って伯爵も転ぶ。倒れた躰が床に広がったサラダ油でまみれる。立とうとしてまた滑った。三人は絡まり合いなが罵る。

「お前等は最悪だ!」

「自分だけ善人ぶるな!」

「そうですぞ。サラダ油を上からかけたのは伯爵殿ではないですか!」

「うっ。それはそうだが……」

 確かに、この惨劇の直接的な引き金を引いたのは伯爵である。言い訳が出来る立場では無い。暫くもみ合っている内に、どうしようかと思った伯爵が顔を上げると、そこにはモップを片手に鬼のような形相の真由美が立っていた。

「これは一体どういうことなのか、きちんと説明しなさい!」

「い、いや……」

「あのう……」

「これはその……」

 三人が言い淀んでいるのを見た真由美嬢は、モップの柄で床を強打した。

「はっきりと言いなさい!」

 観念するしかないと悟った三人の中学生は、途端に誰か等とも無く泣き出した。

「見たかったんです。見たかったんです。サラダ油で躰にへばりついたTシャツが作る姿を」

「きっと凄いと思ったんです。凄いと……」

「ごめんなさい。ごめんなさい」


 泣きじゃくりながら三人は、サラダ油でまみれた床の掃除をさせられた。気がついたときには、既に塩尻が買ってきたアイスは全て溶けていた。

 お昼に出で来るはずだったカツカレーは、普通のカレーになっていた。油まみれの三人はカレーを食べながら、真由美嬢から女性に対してあるいは食品に対して如何に酷い事をしよとしていたのかというのを、とくと聞かされた。幸いにしてその後も真由美嬢はこの悪行について口外する事は決して無かったのが三人にとって唯一の救いであった。

 三人は、その後もう二度とソウルネームで呼び合う事は無かった。


■■■



 今回、筆者が北関東地方で実際に起こったと噂されるこの陰惨な事件を取り上げようと思ったのは、現代社会に生きる我々が直面している問題を浮き彫りにしている様な気がしてならないからである。少年とは渇望による妄想と未遂の行為によって成り立っているのだが、もし仮にサラダ油が妄想を実現する様に作用していたらとすると、そこで少年の存在は破綻してしまうのではないか。その危うさは処女性童貞性の喪失よりも、よほど重大なものであろう。そうした少年性の破綻を小さな規模で繰り返すことで我々は少しずつ大人になっていくわけであるが、サラダ油で大きく決定的な破綻を体験してしまうのは、さすがにと頑迷愚暗な筆者はつい考えてしまうのである。

 なお最後に付け加えておくと、食品として日本農林規格で言うところの「サラダ油」は大変優れたものであります。


 了

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