第3話 水濡れTシャツを超えろ!

「何としてでも、真由美殿を外には出してはいけませぬぞ」

 一旦、部屋に引き返した三人は真剣な顔をつきあわせた。


「うむ。今日を逃すと、もう二度とこんなチャンスは訪れんだろうからな」

「やはり作戦を考え直さないか?」

 キョニュースキー伯爵は二人に言う。

「この期に及んで伯爵は何を弱気になっているのですか?」

「もしやキョニュースキー伯爵は真由美さんの胸の膨らみが不十分だと言いたいのか!」

「それは贅沢というものですぞ」

「いやいや。そういうわけではなくて、ほら。家の中でとなると、後々床とかが大変になるだろうし」

「しかし家の外でサラダ油というのは、さすがに作戦を遂行するのは不自然すぎて無理だろう」

「家の中でもギリギリなぐらいだしな」

「いや……そもそもサラダ油というのが無理だろう」

「っていうとオリーブオイルを使えってこと?」

「確かにアーユルヴェーダ(注一)の流れを汲むと自称している美容マッサージとかにはオリーブオイルを使うモノもありますからな」

 それを聞いたドエムプロは手を振って否定した。

「無理無理無理。マッサージとかサンオイルを塗り込むよりもハードルが高いよ。伯爵は高望みしすぎ」

「違う。もっとハードルを下げてだね。例えば庭の植木の水まきをしているときに、散水ホースの先がブレて水を掛けてしまうとか」

「おおっ!他にも、水鉄砲で合戦をしている所に真由美さんを巻き込んでしまうのも良いかも。そういう文献を見たことがあるような気がする」

 そう言ってやや興奮気味にドエムプロは、キョニュースキー伯爵に賛同する意を示したのだが、シリイーナ教授は反対した。

「いかんいかん。そんなのただの濡れTシャツではないか」

「濡れTで結構ではないか。ビーチとかのアメリカンな開放感の下で、弾ける水滴と、濡れて肌に密着するTシャツ。我々はこれ以上何を求めようというのか!」

「求めるものはある!」

 シリイーナ教授は言い切った。さらに言葉を続ける。

「岸田劉生(注二)は「でろりとした美」という言葉を作ってまでも、初期肉質浮世絵の「でろり」「ぬるり」とした美を評価したわけであるけれども、きらめく太陽の下で水かけ濡れTシャツの開放感に単純に酔いしれているだけでは、我々日本人が古来より培ってきたそういう美的感覚にアクセスする事はできないではないか」

「確かに、木版摺りの時代の(注三)でも単なる海女図、湯上がり女なんかよりも「海女と蛸」となると格段にその魅力が増すからな」

「北尾重政(注四)や北斎(注五)の「海女と蛸」というと、実際には女体の肌よりも絡みつく蛸の足の方に気を取られるよな。実際女体の方を覚えていないぐらいだ」

「近松の(注六)の『平家女護島』の一説には「若布 荒布 あられもない裸身に 鱧がぬら付き 鯔がこそぐる」と有ったのを忘れてはいけませぬぞ」

「ワカメのぬめりか……」

 そう呟いたキョニュースキー伯爵は生唾が貯まるのを感じていた。

「それに比べると単なる水濡れTシャツを目標とするのは、なんと稚拙なことか」

「本来であれば我々もぺぺローション(注七)でも使いたいところを妥協して今回は……」

 と、そこに再び声が飛んできた。


「おーぅい。足りないものをメモしたから、お使いをお願いできるかな?」

「はいです。いま行きます」

 下の階から呼びかける声に対してドエムプロが返事をする。

「よしっ。早速、皆でいこうか」

 そう言ってキョニュースキー伯爵が立ち上がる。 

「まてまて。伯爵は馬鹿か。真由美殿を残して我々が皆出て行ったら、真由美殿をこの家に留めておく事に何の意味も無いではないか」

「うっ。まぁそうだけれど」

「犠牲は一人で十分ですぞ。ここはじゃんけんで決めましょう」

「いやいや。俺は行動を起こす役割だから」

「そういう話になると、我が輩には撮影する役目がある」

「くっ。私が行かねばならぬのか」

「すまんが頼むぜ」

「わかり申した。お二人とも、チャンスがあればためらわず実行なされよ。ドエムプロ。撮影の方は頼みましたぞ」

「おっおう」

「まかせとけ」

 その声を受けてシリイーナ教授は下に降りていった。

「あら。塩尻君がお使いに行ってくれるの?」

「はい。そうなりました」

「じゃ、お財布とメモは買い物袋に入っているから。あとアイスか何か冷たいものを買ってきてよ」

「はい了解です。教授とプロは『赤城しぐれ』(注八)一択ですが、真由美殿は何がよろしいか?」

「んー?私は抹茶系かな。別に何でも良いよ」

「かしこまりましたですよ」

「ところで、あなた達って変なあだ名で呼び合っているわよねぇ?」

「そっ、ソウルネームです!」

 シリイーナ教授は丸眼鏡をあげながら応えた。

「何か意味でもあるの?」

「いっ、いや特には……」

 まさかソウルネームの由来を真由美嬢に説明出来るはずも無い。

「ふーん」

「じゃお使いに行ってきます」

 真由美嬢は、それ以上は何も聞こうとはしなかったが、気まずくなりそうな気配を感じた教授は慌てて買い物袋を掴んで外へと飛び出した。



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注一 インドとスリランカが発祥とされる伝統医学であり人生哲学を含んだ知識体系の事。二十世紀後半に入り、主に外国人向けにアレンジされたマッサージ、エステ、サプリと言ったものが氾濫した。

注二 大正十年前後の麗子像を見よ。その鼻筋、あるいは頬の質感に注目されたし。

注 菱川師宣にはじまり奥村政信の紅摺絵で色彩を得た木版春画は、鈴木春信の錦絵によって技巧的な完成に達したと見ることが出来るだろう。

注 鳥居清長の美人画などにも影響を与えた他、教養人としても知られ、山東京伝や窪俊満の他、「北斎嫌いの蕙斎好き」という言葉でも知られている鍬形蕙斉など優れた門弟を数多く育てた。

注 葛飾北斎のこと。蛸と海女のモチーフとして北斎の師匠にあたる勝川春章の『鮑取りの海女に絡む大蛸』もよく知られているところである。

注六 近松門左衛門のこと。人形浄瑠璃、歌舞伎の作者。竹本義太夫と提携関係を結び近世浄瑠璃の祖となる。

注七 中島化学産業が開発したマッサージ用の潤滑剤、粘膜保護剤。世界初のポリマー水性ローションとして知られる。

注八 赤城乳業株式会社から発売されている氷菓。昭和三十九年の発売当時には年間4千万個を売り上げる。この『赤城しぐれ』で培われた技術は後に『ガリガリ君シリーズ』に受け継がれることとなる。

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