これまでと、これから

三角海域

これまでと、これから

 駅を出ると、強い海風が頬を撫でた。

 港のある街に来ると、いつも潮の香りが鼻につく。どうにも磯のにおいは好きになれない。

 少し離れたところにいても、海風に乗って香りはやってくる。

 懐に入れている手帳を取り出し、「作業」の内容を確認する。内容といっても、非常にシンプルだ。

 接触。

 説得。

 回収。

 それだけだ。

 言葉にしてしまえばなんと簡単なことか。作業そのものの意味はヘビーだというのに。

 手帳を閉じ、目的の場所に向かう。

 言葉通り、シンプルにことがすめばいい。

 深く息を吸い込み、吐きだした。

 潮のにおいが、喉に入り込んできた。



 駅からタクシーに乗り、十分ほどいった場所に、目的地のバーはあった。

 小さなバーだ。バーといっても、洒落た外装というわけではなく、親しみのある酒場といった雰囲気だった。

 ドアを開け、店内に入ると、主張しない程度の音量でジャズが流れており、照明に照らされたカウンターのボトルがきらりと光っていた。

 そこまで広くない店内にはボックス席のようなものはなく、カウンターに座る数人の客が静かに酒を飲んでいた。

 バーということもあり、店内はそこまで明るくない。

 目立たないよう周囲に目をやり、カウンター席の最も奥に座る目当ての人物を見つけた。

 わたしはその人物の隣に腰掛けた。

「カティサーク」

 一度だけ飲んだことのあるウイスキーのボトルが目に入ったので、注文した。

「洒落てるね」

 すると、隣に座っていた目当ての男が、しゃべりかけてきた。思いがけず声をかけられたので、少し驚いてしまった。男は続ける。

「カティサークって名前の由来は船の名前からなんだ。この街で飲むにはいい酒だよ。まあ、俺はシングルモルトが好きだがね」

 男は呂律が怪しかった。目も少し虚ろだ。

 わたしは注文したカティサークが来るまで待ち、グラスを一杯あけてから男に話しかけた。

「佐藤旭だな?」

 まわりくどく言ってもしょうがないので、ストレートにせめた。佐藤は眉をピクリと動かすと、わたしのほうを見た。

「あんた、どこの人だ」

 あいかわらず呂律は怪しく、目も虚ろだが、視線はするどくわたしを刺した。だが、わたしはその質問には答えず、ただ男の目を見つめ返した。

「……公安か」

「さあな。どこの人間かというのは関係ない」

「あんたらもしつこいな」

「質問に答えろ」

 佐藤はグラスに残っていた酒を飲み干し、バーテンに「ボウモア」を注文した。

「言っとくがな、あのシステムを構築したのは俺だが、注文してきたのはあんたらだぜ」

「だからこそ、責任がある」

「責任? 自分たちのミスをもみ消したいだけだろう? それなら、俺をさっさと消すんだな」

 虚ろの目の奥にギラギラとした光が見える気がした。強がりではなく、本当に死を恐れていない。

「わたしたちは、あんたが持ってるデータを回収できればそれでいい」

 佐藤が注文したボウモアがカウンターに置かれた。グラスの中を少しの間じっと見つめ、佐藤は言った。

「渡すのを渋ってるわけじゃない。ただ、今まで俺のところにきた連中が気に食わなかったから渡さなかっただけだ」

 佐藤はグラスを一息に空ける。

「俺だって共犯だ。だろう?」

 佐藤が皮肉な笑みを浮かべ、言った。

 かつて、佐藤は優秀な技術者だった。公安はその技術に目をつけ、あるシステムの開発を秘密裏に依頼した。佐藤は当初それを断ったが、ある理由のために協力することにしたのだという。わたしはその案件にはかかわっていないので、よくは知らないが、奥さんのためだったということは聞いていた。

「あれが実用化されたら、あんたらはこの国の「金の情報」を全て手中にできる。人も会社も、すべて丸裸だ。しかも、痕跡をなにも残さない。そんなものを作れるのは俺くらいだ」

 佐藤は自分を嘲笑するかのように、おどけて言った。

「作れるのも俺だけなら、消去できるのも俺だけだ。たとえデータを回収したところで、あんたらはどうにもできない」

 だからこそ、公安は回収を急いでいた。秘密裏に進めていたこの計画をかぎつけられたのだ。官僚も関わるこの計画が公になれば、とてつもないスキャンダルになる。警察組織の信用は地に落ち、大きな暴動が起きる可能性もあった。

「国がどうのとあんたらは言う。だがな、俺にはそんなことどうでもいいんだ」

「奥さんが亡くなったからか」

 佐藤の眉がまた動く。

「奥さんが亡くなったから、お前がわたしたちに協力する理由はなくなった。だから、協力する必要はない。なんとも陳腐な理由だな」

 佐藤がわたしの胸倉を掴んだ。酒臭い息が顔にかかる。

「何がわかる」

「何も分からない。わたしはお前のことをほとんどしらない。今日ここに来たのも、仕事だからだ。だが、お前が奥さんのためにモラルを捨て去ったように、わたしにも誇りがある」

「お国のためにってか?」

「違う。国民のためだ」

 佐藤の手が緩む。

「わたしが公安の道を選んだのは、国を守りたいからじゃない。この国でまっとうに生きている人たちを救いたかったからだ。お前が我々に協力した理由が感情に流された陳腐なものなら、わたしが生きる道を選んだ理由も青臭くて陳腐だ」

 佐藤が手を放し、わたしのほうを見る。

「わたしに回収を命じたのは、お前が接触してきた連中とは別の派閥に属している人だ。こんなバカげたシステムなんてものは無いほうがいいと考えている。わたしも同じだ。データを消去したのち、わたしたちはこの件を公表する」

「そんなことしたら……」

「わかっている。だが、過ちは正さなくてはならない。善だけでは国を守ることはできないが、それは悪を肯定する理由にはならない。わたしたちは、善と悪の中間にたつ番人であるべきだ」

「あんた、面白い人だな。まるで小説のタフガイだ」

「ああ、憧れだよ。わたしは今でもマーロウのようになりたいと思っている。まあ、国の犬になった段階で、失格かもしれないがな」

 わたしの皮肉に佐藤が笑う。そうして、体の中の憑き物を吐き出すかのように長く息を吐き、言った。

「妻の遺品の中に、指輪がある。結婚するときに俺が贈ったものだ。俺の指輪と対になってる特注品だ」

 佐藤が薬指にはめている指輪を見せた。

「俺の指輪と妻の指輪を組みわせると、USBメモリとして使えるようになってる。その中に、消去プログラムが入ってる。もともとは二人の思い出をそれぞれで持ち歩こうって理由で作ったものだった。こうして話してると恥ずかしいがな、あの頃は、とにかくあいつに夢中だったんだ」

 佐藤の虚ろな目が光る。最初に話した時のような、ギラついた光ではない。涙だった。

「あんたらに協力したのは、あいつの病気をなんとかしたかったからだ。俺は自分の愛する人を理由に、悪に手を染めたんだ。あいつが死んでから、はじめてそれに気づいた。情けないよな。それに気づいたのに、俺は逃げたんだ」

「人間はそんなに強くない」

「強いとか弱いじゃないない。俺は、あいつを裏切った」

「確かにお前がやったことは悪だったかもしれない。それでも、お前が奥さんに感じていた愛情は本物だ。裏切ったと思うのなら、償えばいい。お前だけに罪を背負わせるようなことは絶対にしない」

 佐藤は泣き崩れた。わたしはなにも言わず、ただ嗚咽をもらす佐藤を見つめていた。

 



 それから数週間後。わたしは様々な後処理に駆り出され、毎日忙しく動き回っていた。

 予想通り、スキャンダル発覚後、公安の信用は地に落ち、警察機構そのものにもっと目を向けるべきだという世論が広がりはじめている。

 ようやく一息つき、わたしは自分のデスクに戻った。

 電子錠付きの引き出しを開け、ふたつの指輪を取り出す。指輪を組み合わせ、PCに差し込む。

 すでに消去データは抹消してあるが、元々入っていた写真データなどはそのまま残してあった。

 フォルダには、「二人のこれまでと、これから」というファイル名が付けられていた。

 庁舎を出て、佐藤と会ったバーに行った。

 佐藤が頼んでいたボウモアを注文し、飲む。

 潮の香りが強い酒だったが、不思議と悪い気はしなかった。

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