飛燕 その2
『佐々木小次郎』と男が名乗ると、山田清之介をはじめとする攻め手の者達に明らかな動揺が広がった。
昨今、佐々木小次郎の名は日に日に高まっていた。
その評価を一言で表すならば『天才』であろう。
居合の開祖、林崎甚助の弟子である片山伯耆守に抜刀術を学び、まだ二十をひとつふたつ超えた年であるにもかかわらず、すでに『巌流』という独自の流派を開いていた。
しかも、何しろ異様な風体である。
髪型は元服前のような前髪姿、あざやかな
なるほど、あれが名高い佐々木小次郎の愛刀、備前長船長光、通称『物干し竿』にちがいない。
「私は神後伊豆守様に大事な所用がある。お前たちは帰れ」
「何っ!?」「貴様、愚弄するかっ!」
あっけにとられていた攻め手の面々だが、このあまりに馬鹿にした物言いに一斉に刀の柄に手をかけた。
「お庭を汚しまする」
小次郎は神後伊豆に向かい軽く頭を下げると、ゆっくりと庭におりた。
稽古に使う広い庭である。山水などはなく、ただ砂が敷き詰められている。
敵との距離は、間(約18m)ほどであろうか。
小次郎は右手で左肩に出ている『物干し竿』の柄をつかんだ。顔の前に右手が交差した形である。
小次郎はその姿勢のまま、刀を抜かずに敵の一団に向かって突進した。
それを見た前衛の三人が抜刀するかに見えたとき、一瞬、小次郎の前方水平に『銀の線』が走ったように見えた。次の瞬間、三人は上下真っ二つとなって血しぶきをあげて斃れた。
小次郎は何事もなかったかのように、全く同じ姿勢で立っていた。
やはり、右手を顔のまえに交差させ、左肩の刀の柄をつかんでいる。
山田清之介は何が起きたかわからなかった。
指揮をとるために後方にいたせいもあるが、小次郎の動きが速すぎてとらえきれなかったのである。
清之介は何を思ったのか
「お前、行け」
と前にいた男の背中を突き飛ばした。
「おおう!?」
男が言葉にならない叫び声をあげて、泳ぐように小次郎の方によろけ出て行った刹那、またも小次郎の前に『銀の線』が走り、次の瞬間またも腰のあたりで真っ二つとなって絶命した。
『なんと、……これは居合か!』
清之介は理解した。
小次郎が異常なスピードで背中の長刀を抜刀し、横一文字に薙ぎ払う。
それが『銀の線』に見えるのである。
それだけではない。
薙ぎ払った後に剣を、今度は見事な速さで背中の鞘に納めている。
居合では、実は素早く抜く技術より刀を鞘に納める『納刀』の技術の方が難しいとされる。だが、
小次郎はそれを、抜刀、切断、納刀の一連の流れを実にスムーズに行う為、抜刀後に全く何事もなかったかのように姿勢が変化しないのだ。
『これはたまらぬ……』
数の優位もなくなった。思わぬ邪魔が入り、しかも相手の力の底が知れぬ。
ここは一旦、引くべきか。
「どうした? 逃げるのか。最前、『柳生四天王』などと言っていたが大した事はないのだな」
「その手には乗らぬ。勝負はあずけたぞ」
清之介が踵を返して去ろうとしたその時、その後ろから巨漢の武士が進み出た。
「小次郎とやら、ワシが相手になろう!」
「はやまるな、東郷殿。ここは出直すべきじゃ」
清之介が武士を制しかけたが、逆に東郷と呼ばれた武士は清之介をにらみつけた。
「このまま、おめおめと帰れるか。しかも貴様、仲間の命を何だと思っている!?……後で覚えておれ!」
東郷は金で雇われ、朱印状を手に入れる為動いている柳生の遊撃隊の頭であった。
自身は新陰流ではないが、柳生の手練れも一目置く凄腕の剣客である。
それが、清之介の求めに応じ、加勢に来てみればこのザマだ。
手下達にしても柳生が金で集めた者達には違いがないが、それを預かる立場上このまま帰っては清之介だけではなく東郷自身の面目もないではないか。
小次郎は背中の背中の刀の柄に手をかけたまま、薄く笑った。
「ほう、貴様がやるのか。くるがいい」
その声が終わらぬうちに東郷が抜刀して小次郎に向かって突進し、同時に小次郎が神速の一撃を放つ。
が、東郷はその一撃を背を縮め間一髪、紙一重の差でよけた!!
さて、世の常識では……居合の一撃を避けた時点で東郷の勝ちである。
居合は鞘から抜くその動作が斬撃とセットになっているから故に高速の一撃となるのであって二撃目を打つにはもう一度、刀を鞘に納めなくてはならない。
そのため、いかに小次郎の『納刀』が素早かろうと斬撃をかわされ二撃目を打つまでにはタイムラグが生じるはずなのだ。
すでに小次郎に肉薄していた東郷が剣をそのまま伸ばせば、小次郎はなにもできぬまま串刺しである。
東郷が勝利を確信し笑みを浮かべかけた瞬間、一撃目と全く同じ速さの二撃目が一撃目と逆方向から東郷を襲った。
次の瞬間、東郷は腰から両断されて絶命した。
小次郎はゆっくりと刀を背中の鞘に納めると今度は愉快そうに笑って言った。
「これが『巌流奥義 燕返し』じゃ」
剣聖伝 印度林檎之介 @india_apple
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