飛燕


夕暮れ、もう日がくれかかっている。

八王子の夕暮れは早い。甲斐に連なる山々が西にそびえているためだ。

夕暮れともなれば、八王子のはずれのこのあたりには人の往来が途絶える。


新陰流の達人、神後伊豆守宗治は病床で耳をすましていた。

多数……七、八人? いや、十人はいるだろうか。この足音は皮草履、相手は武士で切り合いの用意をしているということだ。

ここは、神後伊豆守の屋敷だ。

将軍足利義輝、関白豊臣秀次の剣術指南をつとめた達人も病を得て一線を引いて久しい。老齢による衰えと長きにわたる闘病の結果、刀を振る力はすでに失っていたが、するどい感覚は往時のままであった。


「出会え、曲者だ!!」

声に応じて奥の部屋から門人が四人が現れ、庭に面した戸板をはずした。

庭、そしてその先に屋敷の門が一望できる。

折りしも屋敷の塀を軽業師のように乗り越えた者、数名によって門扉の閂がはずされ、今まさに曲者の集団が邸内に足を踏み入れたところであった。

神後伊豆守は細いがよく通る声で呼びかけた。

「山田清之助はおるか?」

すると、

「ここにおります」

と、返事があり一団の後ろから進み出た者がいる。


伊豆守には、山田清之介という弟子がいた。

剣の腕も立ち、いずれは伊豆守の養女と娶わせて後継者にと考えていた矢先、一週間ほど前に突然、出奔して行方知れずとなっていたのである。

「用件はなんじゃ」

「もちろん、『朱印状』をいただきに参りました。手荒なまねはしたくなかったのですが、」

ここで、清之介は言葉を切り頭を左右に振った。

「あなたの信用を勝ち得て、やっと朱印状の隠し場所を聞き出したのに、まさかニセモノだったとは。柳生の庄に持っていく前に気づいてよかった。このままでは私の面目は丸つぶれです。しかたなく加勢を集めた次第……」

「もし、ワシが朱印状を渡さなんだらなんとする?」

清之介は薄く笑って言った。

「知れたこと。あなた方、そして人質の命はありません」

「なに、人質?」

一団の後ろから猿轡をされて、手をしばられた若い女性が突き飛ばされるように現れた。伊豆守の遠縁の娘で今は養女としている女性、名は『由紀』という。

「由紀殿を隠したつもりかもしれませんが、私には通じませんぞ。ちょうど柳生四天王の一人が小野次郎右衛門に敗れて欠員ができたようじゃ。朱印状を持っていけば私が昇格するかもしれぬ。由紀殿も私の役にたてて本望でござろう」

くやしそうに清之介を見る由紀に、愉快そうに笑う清之介。

「おのれ……」

神後伊豆の道統を継ぐより、柳生四天王を欲すとは。

見下げ果てたやつ、と伊豆守は思ったがここはもう相手の要求を呑むしかない、と感じ始めていた。

自分の命はともかく、娘や門弟の命まで犠牲にする事はできない。

元はといえば、清之介を信じて重用した己の不覚が発端である。

伊豆守としてもできる限りの対策は打ったつもりであったが間に合わなかったようだ……。

「手荒なまねはよせ」

「では朱印状をいただけるのですな?」


そのとき、門の外で激しい音がした。

見張っていた、二、三人の男が何かに吹っ飛ばされたように塀にたたきつけられたのである。

真っ赤な風、のようなものが門外から走り抜けてきた。

いや、風ではない。赤い着物を着た男のようだ。

そして由紀をだき抱えると、そのまま開け放たれた戸を抜け伊豆守の病床まで一気に駆け抜けてきたのである。


男は由紀を下ろすと、ぼそりとつぶやいた。

「やれやれ、女の体にさわるなんて気持ち悪い」

そして伊豆守に向き直ると、頭を下げた。

「遅くなりました。神後伊豆守宗治様とお見受けいたします」

伊豆守がうなづくと、男はニヤリと笑いむしろ屋敷の庭の曲者たちに向かって宣言するように大声でこう言い放った。

「巖流佐々木小次郎、お呼びにより参上つかまつりました」















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