一乗寺村下り松
裏が崖となった森が広がって、手前の方はだんだん木がまばらになって林のようになっている。
林の前は空き地となり、六尺豊かの男が立っている。
なんと、左右の手に一本ずつ刀を持っている。
周りを見れば、二十人ほどの死体が点在している。
二十人のうち、ほとんどの者は抜刀しているが中には数名、刀さえ抜かずに切られている。
これは、奇襲を受けた事を示している。
男を遠巻きに取り囲むように数名……、
「武蔵、覚悟っ!!」
声をかけた男が切りかかると、後ろから別の男二人が無言で切りかかる。
武蔵と呼ばれた男は左手の刀で正面の男の刀を受け、振り向きもせずに右手の刀を後ろにぐるり、と薙いだ。
後ろから切りかかった男二人が声もなく倒れる。
近づく足音から間合いを判断したのだ。
恐るべきセンスと勘、である。
「無駄だというに……」
武蔵は不機嫌そうに言うと左手の刀で敵の刀を受けたまま、後ろに回していた右手の刀を水平に保ったまま、ぐるり、と体を半回転させる。
「ぐ、はっ!」
今度は武蔵の正面の男が真っ二つになった。
ついにこの場に立っているのは三人になった。
武蔵と敵の大将、後一人は……。
『ふむ、あれが大将か』
武蔵が近づこうとする前を、さえぎる者がいる。
老人、といってもよい白髪の剣客である。
「ワシは吉岡一門の壬生源左衛門、甥の清十郎、伝七郎の仇、覚悟せいっ!」
老人にしては気迫の太刀筋、気丈にも切り込んできたが武蔵は軽くいなすと一刀のもとに切り捨てる。
あとは大将一人だけだ。
武蔵が近づくと相手は微動だにせず立ったままだ。
仲間が全滅したというのに慌てた様子もない。
武蔵が夕やみに目をこらすと、なんとそれはまだあどけなさの残る少年であった。
「お主が大将か?」
武蔵の声が思わず意外そうな声を発すると、少年は深々と頭をさげた。
「吉岡一族の吉岡源次郎と申します。あなたに吉岡本家の兄弟が敗れたため、元服したばかりの若輩ものですが、私が吉岡宗家を継ぎました」
「ふむ、お主は逃げないのか? お主の仲間、吉岡勢は百人集めたと聞いている。残り八十人は逃げてしまったぞ」
少年は武蔵と相対しても全く動じる気配を見せない。
武蔵は半ば感心して少年の利発そうな目を見つめた。
死を恐れていない、しかしだまって受け入れるわけでもない、正に剣客の目である。
「私は大将です。逃げるわけには行きますまい。それに……」
少年は武蔵の後方に視線をやって言った。
「さきほどあなたに切られた壬生源左衛門は私の祖父にあたります」
背はむけられない、一族の恨みがあるという事か。
「なるほど、ではやろうか」
相手は少年とは言え、吉岡の大将である。武蔵は源次郎を切ることに躊躇はなかった。
「いえ、私はあなた様の相手にはなりえません。しかし私をお切りになる前に、ひとつ、私の話をきいていただきたい」
「話、だと?」
刀を油断なく構え、今にも源次郎に飛び掛かりそうだった武蔵だがその言葉にやや鼻白らんだ。
「そう、私と取引をいたしませんか」
「取引だと?」
「私は『朱印状』を一枚持っています。その隠し場所をお教えしましょう」
「なに!?」
思わず声が出た。
そもそも今回の吉岡一門と武蔵の争いは吉岡一門宗家である吉岡清十郎と武蔵の『朱印状』をかけた試合が発端であったのだ。
十手術では無双と呼ばれた武蔵の父、新免無二齋に徳川幕府から届いた『朱印状』、また、吉岡宗家に送られたもう一枚の『朱印状』、お互いの朱印状を賭けた一騎打ちだったのだが……。
吉岡方は清十郎が敗れても負けをみとめず伝七郎をたて、伝七郎が敗れると今度は一門総がかりで武蔵を抹殺にかかり今に至っているのだ。
もう、武蔵は吉岡の朱印状はあきらめていた。
単に火の粉を払うために、たった一人で吉岡一門との試合、いやもはや戦であるが、に挑んだのである。
「その代わり……」
「何だ? 命ごいか」
「あなたの弟子にしてください」
「なんだと!?」
こやつ、俺を虚仮にしているのか。武蔵は激高しかけたが、源次郎の目は真剣だった。
「あなたの弟子となり強くなりたい! あなたを倒せるほどに!!」
すさまじい緊張があった。
長い沈黙の後、しかし笑い出したのは武蔵であった。
「俺の弟子になって俺を倒すだと!? ハハ、これは愉快だ」
そして、源次郎に向き直ると言った。
「わかった、弟子となることを許す。吉岡創始者、吉岡拳法を超えるほどの剣客になって、俺を倒してみろ!!」
「あ、ありがとうございます」
いうなり、源次郎はへたりこんだ。
武蔵と相対し極限にあった精神の糸が切れたのだ。
「だが、俺の弟子になったからには、吉岡を名乗るのはまずかろう」
そう、仇の弟子であることもまずいが、なによりも、今日、吉岡一門は消滅したのでる。その名と決別すべきであろう。
「そうだ。これから『三沢伊織』と名乗れ。いい名だろう」
源次郎、いや伊織はつぶやいた。
「今日から私は宮本武蔵の弟子、『三沢伊織』」
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