~軍配が上がる~
稽古場へ行くと、三上先輩はすでに準備を終えていた。
土俵をはさんで、先輩と対峙する形になる。いつになく真剣な表情に、僕も油断していたわけではないが、気持ちを引き締めた。
「今日は一本勝負でいいですか。先輩」
「ああ」
「僕が勝ったときの条件はこの前と同じです。僕が勝ったら、先輩は相撲部に近寄らないでください」
廃部直前になって、先輩を追い出したとしても、あまり意味がないかもしれない。けれど、もしかしたら、聞いた元部員の誰かが戻ってくる可能性もある。
僕は最後まで、相撲部存続を諦める気はなかった。
「俺が勝ったら?」
「先輩のいうことを、何でも一つききましょう」
「東雲くん!?」
行司役として来ていた部長が、僕の言葉に悲鳴を上げた。部長に案内されて、隅の方に座ろうとしていた崎田も目を丸くしていた。
「正気か、東雲! 相手は変態だぞ。いったい何を言い出すか!」
「そうだよ、東雲君! 三上のことだ、どんな無理難題をふっかけてくるか」
「失敬な。君らは俺のことをなんだと思ってるのだ」
不満そうに、先輩が口を尖らせる。でも、僕は先輩をなだめたりしなかった。二人が言っているのは、事実だし。
「俺が東雲に、そんなひどいことするわけじないじゃないか。なあ、東雲」
「さあ、そこは僕もちょっと怪しいと」
「東雲のバカー!」
先輩が本気でいじけた。
「見てろ! そこまで言うなら、なんかすごいお願い考えてやるからな! 泣いて頼んだって、変えてやらないんだからな!」
「いったい何をさせる気なんですか」
どうしよう、この条件、やめた方が良かったかな。少し、人生を早まった気がする。
そんなやりとりも終えて、僕らは簡単にストレッチをする。
万が一、怪我でもしたら大変だ。前回は、そんなことすら考えもしなかったのかと思うと、あのときの自分をぶん殴りたくなる。
僕は両の手のひらを見つめた。
テーピングは取れたが、マメや傷は一朝一夕で癒えるものじゃない。それでも、練習を重ねていくうちに、少しずつ皮が厚くなっていっているようなので、多少の痛みには耐えられるだろう。
そもそも先輩相手に持久戦に持ち込まれたら、僕にほぼ勝ち目はない。なるべく、短期決戦で決める。
「二人とも、そろそろ大丈夫かい」
行司役の部長に声をかけられて、僕らは土俵に上がる。
ほどよく温まった身体は、互いに熱気を発しているようだった。
単に僕の勘違いかもしれないけれど、土俵に上がっただけで、気温が一、二度、上昇したような気さえする。
先輩と視線がかち合った。
互いにそらすなんて、無粋な真似はしない。もうすでに、勝負は始まっているんだ。
無言で、礼を交わす。
「さあ、見合って見合って」
部長が、中央の仕切り線の前で、軍配を下げる。うちわ状のそれをはさんで、僕と先輩は勝負の体勢を取る。
腰を落とし、手を地面すれすれに下げ、相手の呼吸を伺う。
「はっけよい――」
余計なことは考えない。ただ、静かに時を待つ。
「のこった!」
部長の声と同時に、僕らは一歩踏み出した。
それと同時に、僕は先輩の顔正面で、両手を鳴らす。パアンと、はじけるような音が響いて、先輩が一瞬躊躇した。
「猫だましか!」
部長が叫ぶ。
そう、相手の意表をつくための小技、猫だまし。
とはいえ、これで先輩が倒れてくれないと、本来は技として成立しないのだけれど、ひとまず先輩と正面からぶつかり合うことは避けられた。
勝負はこれからだ。――そう思った瞬間。
「甘いぞ、東雲」
予想以上に早く先輩が、衝撃から回復する。
横に避けて、先輩の右にまわろうとしたところを、いっきにまわしをつかまれた。否応なく、正面対決へと持ち込まれる。
「猫だましくらい、俺が知らないと思ったか」
「え!?」
「東雲なら、きっといつか俺ともう一度、戦おうとすると思ったからな。そのためにお前と会うのを我慢して、必死に特訓したんだ」
特訓って、それでしばらく会えなかったのか。
ということは、あの時から先輩は覚悟を決めていたのだ。僕がいつまでも、うだうだと悩んでいる間に。
負けられない。そこまでしてくれた先輩のために、僕は余計に負けられない。
「やるじゃないですか、先輩」
「覚悟しろ、東雲。何でもいうこときくって約束、忘れるんじゃないぞ」
「そういうのは、僕に勝ってから言ってください」
ふ、と笑って、先輩がいっきに踏み込みを深める。
僕もその場に踏ん張るが、先輩の力に敵わず、土俵際まで僕は追い詰められていく。
押し出しか、寄り切り狙いか。
力で土俵の外に押し出すシンプルな技。だが、それだけに力の差がものをいう。体格の大きい先輩なら、当然の戦術だ。
土の上を足が滑っていく。
なるべく重心を下げて、先輩の勢いを殺し、僕はぎりぎり土俵際の俵で踏ん張った。
「く……っ!」
だが、それでもきつい。
より腰を落とした先輩が、僕を突き上げるように大きな力で押してくる。
少しずつ身体が、宙に浮き始めていた。このままバランスを崩せば、負ける。
けれど、負けたくない。
なんとしても、この勝負だけは、絶対に負けたくない!
粘る。力の限りを振り絞って、最後の最後まであがく。
決めたんだ、もう逃げないと。
全力を出し切って、勝つのだと。
逃げるな、東雲昭弘。諦めるな、必ず勝機はある。
考えろ、今僕にできることを!
「うおおおおおっ!」
僕は雄たけびを上げる。
押してもだめなら、いちかばちか、試してみるしかない。
足の指全てを使って、俵をつかむ。先輩のまわしを引きながら、僕はその場で身体を回転させた。
「なっ!」
先輩が驚く。そうだろうとも。
あえて、僕は先輩に背中を見せているのだから。
背後から、先輩の動揺が伝わる。
迷っている今が、唯一のチャンスだ。僕は後ろを向いたまま、先輩ごと、土俵の外へ向かって倒れこんだ。
全体重と重力をかけて、先輩を押し倒す。
視界が、宙を舞った。天井の灯りが、スローモーションのように移る。風の流れを感じながら、僕は先輩と倒れていく。
そして――一瞬の飛翔は終わり、僕らは地に落ちた。衝撃が、身体全体に走る。それでも下敷きになった先輩よりはマシだろう。
沈黙が、場を支配した。
だが、それも長く続かなかった。
「うっちゃり……いや、後ろもたれか」
部長が、なかば放心したかのようにつぶやく。
後ろもたれは、本来狙ってできるような技じゃない。土俵際で粘りに粘って、ほとんどハプニングに近い形で決まることの多い技だ。僕も実物は見たことがない。
部長は土俵の中心に立つと、東に向けて、軍配を持つ右手を上げた。
「東、東雲!」
軍配が、僕の勝利を告げた。
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