~自覚と無自覚~
緩やかに目を上げると、見知らぬ天井がそこにあった。
額には、すっかりぬるくなってしまった濡れタオルがのせられている。
「ここは……」
タオルをどけようとして、手が動かないことに気づく。
先輩が僕の手をぎゅっと握って、眠っていた。
もしかして、看病してくれていたのだろうか。
うつむいて眠っているから、表情はよく見えないが、どこか疲れているように見えた。まぶたにかかった前髪を、そっと払ってやる。
「起きましたか」
いきなり聞き覚えのない声がして、心臓が跳ね上がる。
周囲を見回して、部屋の入り口に少女が立っていることに気づいた。しかも、結構美少女だ。
「え、あ、あの、君は!? その、ここは……!?」
「ここは三上家です。私はそこに寝ているボンクラの妹で、
「あ、妹さん……」
これが、さっき先輩の言っていた妹さんか。確かに、細い。
慌てて身なりを整えようとするが、先輩が腕を離してくれない。仕方ないので、身体の向きだけ変えて、妹さんに頭を下げた。
「し、失礼しました。東雲と言います」
「知っています。兄が、ここ最近うるさいくらい、東雲東雲、連呼していたので」
「す、すみません……」
他意はないのだろうが、なんだか申し訳ないような気分になる。
「う……ん」
あせる僕の気など知らず、先輩は眠りこけている。そちらに視線を向けると、妹さんが補足してくれた。
「徹夜で東雲さんの看病をしてましたから、今は寝かせてあげてください。でも、気にしなくて良いですよ。半分はデートに浮かれて、ろくすっぽ寝てなかった兄のせいですから」
「徹夜って……」
僕は、そんなに寝ていたのか。
せっかくのデートだったのに。僕が勝手に怒って、喧嘩してしまったのに。それでも必死に看病してくれた先輩に、申し訳なさでいっぱいになる。
「あの、葉月……さん?」
「葉月でいいですよ。あと、かしこまった言い方もしなくて良いです」
年下の女の子を、しかも先輩の妹を呼び捨てにするって、抵抗があるのだけれど、本人がそう望んでいるのなら、努力しよう。
「じゃあ、葉月。申し訳ないんだけど、先輩が起きるまで、ここにいてもいいかな。先輩に……謝らなければいけないことがあるから」
「そうですか」
淡々と葉月は感情をほとんど見せずにうなずく。リアクションがうすい。
ただ、なんとなくだけど、これは彼女のもともとの性格のような気がした。
少なくとも、僕に帰って欲しくて、冷たくあしらっているのではないと思う。
その証拠に、彼女は続けてこう言った。
「医者が言うには、熱中症と過労のダブルパンチみたいです。しっかり水分取って、寝てて下さい」
「いきなり来て、ご迷惑おかけしました……」
「別に。兄が連れてきた人ですからね。信用はしてます」
「信用?」
葉月から出た意外な言葉に、僕は思わずオウム返しで応えた。
ふ、と葉月がうすく微笑む。
「兄が人を連れてくることなんて、滅多にないんですよ。事実、今まで付き合った相手は、誰一人家に上げたことがありません」
「そ、それはどういう……」
彼女の言葉に、深い意味があるように感じられて、僕はつい問うてしまう。
視線で兄の様子を窺いながら、葉月は静かに、けれど優しく続ける。
「……兄は、表面上は物怖じしないように見えますが、いざ本音の部分に踏み込むとなると、臆病になるんです。人と本気で付き合うのが、怖いんでしょうね。だから、いつも冗談めかして、うわべだけの付き合いになる。不器用なんです。――本当は、誰よりも優しいくせに」
あまりにも淡々と言うので、逆に僕は納得してしまった。
意外だ。葉月は、先輩が好きなんだ。
「兄がデブ専なのは知ってますよね」
「あ、うん。それはまあ」
僕に告白するくらいだし。
「あれ、私が原因なんです」
原因とはどういう意味だろう? 首を傾げることで、続きをうながす。
「昔の私は、相当な肥満児でした」
「え!?」
肥満児って、つまり、相当太っていたってことか?
今の彼女は簡単に骨も折れそうなほど、細いのに。
「実はそれで、友人に兄がからかわれたことがあったんです。自分のことならともかく、私のせいで兄が悪く言われるのは我慢がならなかった。悔しくて、情けなくて、必死にやせようとしました。……兄は、ダイエットなんてしなくていい。ありのままの姿で良いと、止めてくれたんですけど、私も余計に意固地になってしまって」
それは、なんか、どちらの気持ちもわかる気がする……。
「苦労の末、私は変わりました。今まで、ブスだデブだとバカにしていた連中さえ見る眼が変わって、私は満足していました。――でも、私は本当にバカだった。急激な体重の変化に、身体がついて行かなくて、栄養失調で倒れたんです」
葉月が目を閉じる。
ほんの少し、まぶたが震えているように見えた。
「あの時の、兄の顔が忘れられない。心配かけて、青ざめて――あんな顔、二度とさせたくない」
「君にそんな事が……」
「あなたは、昔の私と同じです。東雲さん」
目を見開くと、葉月はまっすぐに僕を射抜く。
この兄妹の視線は、いつだって痛いくらいにまっすぐだ。それが心地よくもあり、同時に怖くもある。
古傷をえぐられるような鈍い痛みが、僕の胸に広がった。
「兄は人一倍、他人の健康に気を遣います。好きになった相手なら、なおさらです。おちゃらけて、ふざけた言い方をするから、一瞬気付かないかもしれませんが、兄なりに心配しているんです。多分そういう言い方をすることで、あなたに心理的負担を与えないようにしたんでしょう。本来は、とてもデリケートな問題ですから」
「先輩が、そこまで気にするような人には、見えなかったけど……」
とはいえ、僕はこれまでの先輩の言動を思い返す。
脂肪だのデブ専だの、そういう言葉を抜けば、先輩はいつも僕のことを気にかけてくれていたのではないか。あれだけ、部活動に反対していたのも、オーバーワーク気味な僕の身体を心配していたから?
ということは、僕は、先輩に心配かけていたのか。
デートだなんだで誤魔化されていたけど、ずっと練習しすぎな僕を止めようとしていたのか。
その結論が、腑に落ちたわけではない。どうにも、納得がいかないことだらけだ。
けれど、葉月の言葉が嘘とも思えなかった。
「そうか……そういう考え方もあるのか」
だから僕は彼女の言葉を鵜呑みにするのでもなく、否定するのでもなく、ひとまず保留にすることにした。
僕自身、先輩をデブ専の変態という色眼鏡をかけて、見ていたことは否定できない。
だから自分の目で、今度は三上徹という人の本質を確かめてみようと思う。
「ん……」
先輩が身じろぐ。そろそろ、目を覚ましそうな気配がする。
「東雲さん」
「ん?」
「兄をよろしくお願いします。こう見えて、東雲さんのことは、結構本気みたいですから」
葉月が僕に頭を下げる。
「へ?」
「ごゆっくり」
そう言って、葉月は初めて、僕に笑顔を見せた。
僕は、思わず固まってしまった。その笑顔は、擬音をつけるとしたら、『にこり』より『にやり』に近いものだったから。
意味深な笑いを振りまいて、葉月は部屋を出て行く。
「……え」
ていうか、ちょっと、なに、その黒い笑い。
ん、あれ? 今、スルーしてたけど。もしかして、僕と先輩が付き合ってるの、ばれてる……!?
「ええっ!?」
冷静に思い返すと、なんか節々にそういうニュアンスのことを言っていたような……!
や、今、ちょっと冷静さを保てる状況ではないんだけど。
う、うわ、ちょ、誤解だ!
いや、誤解じゃないけど……でも誤解だ!
だって先輩と僕の関係は、恋愛関係でもなんでもない。単なる契約、というか、罰ゲームみたいなもので、僕と先輩の間には何も――。
何も、ない、のか?
本当に? 何一つ?
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