~一本気な君だから~

「東雲……?」

 心臓が止まるかと思った。先輩が目を覚ます。

 決して、僕の心の声が聞こえているわけはないとわかっていても、僕の中には、理由のよくわからない罪悪感でいっぱいだった。

 なるべく平静を装って、まだ寝ぼけ半分の先輩に声をかける。緊張で声が震えないように、必死にのどを張り詰めた。

「お、おはようございます!」

 ちょっと張りすぎた。大声になってしまい、先輩が少し驚いたように目を見開く。何度か瞬きして、僕を直視したかと思うと、一気に相好を崩した。

「良かった……」

 へにゃ、と顔全体の筋肉を緩ませて、先輩が泣き笑う。

「東雲が無事で、良かった……」

 僕の腕を抱きしめながら、先輩がうずくまる。

 ズキン、と胸が痛んだ。心臓に直接、針を差し込まれたみたいに。

 一瞬、僕は自分が泣いてしまうのではないかと錯覚した。でもそうすれば、余計に先輩に心配をかけると思ったので、僕は泣かなかった。

「……ご心配かけて、すみませんでした」

「いい。東雲が元気なら、それでいい」

 首を横に振りながら、先輩がバカみたいに笑う。

 何がいいだよ、アホ先輩。全然よくなんかないよ。

 僕は、こんなに自分のことしか考えてないし、口は悪いし、態度も悪いし、デブだし、生意気だし、ガキだし……先輩のことを、先輩の好意を今まで、散々利用してきたずるい男なんだ。

 だから、そのまっすぐな目で見つめられるとつらい。先輩の視線は、僕を裸にする。臆病で考えなしの、卑怯者に変える。

 でも、それは先輩が悪いんじゃない。僕が僕自身から、目を背けてきた結果だ。

「その、東雲」

「はい」

「すまなかった。お前が倒れるまで無理していたこと、俺は何も気づけなかった。もっと早く、気づいていればよかった」

「……いえ、それは先輩のせいじゃないです」

「俺のせいだろう。俺が、お前に相撲をやめさせたがったから」

 いつもならこの言葉に、僕は臆面もなく、うなずいていただろう。

 今の僕は、それが先輩のせいだけではないことを、もう知っている。

 倒れたのは僕の自己管理が甘いせいだ。

 相撲部に行かなかったのは、一人きりであることを嫌でも自覚させられるからだ。

 稽古を隠れながらやっていたのは、先輩を説得する努力を放棄していたからだ。ちゃんと先輩と話し合わなかったからだ。

 先輩に、いくら話しても無駄だと決め付けて、諦めていたのは僕の方だ。すべて先輩のせいにして、逃げていたのは僕の方だ。

 そうじゃない。そうじゃないだろう、東雲昭弘。

 僕は、僕が言うべき言葉から逃げるべきじゃない。

 逃げたくないんだ。

「先輩、話があります」

 ベッドの上で姿勢を伸ばし、正座する。

 先輩もたたずまいを正して、僕を注視する。

「僕はこの通り、背は低く、デブで、運動もろくにできなくて、昔から、からかわれることが多かったんです。それが悔しくて、見返してやりたくて、でも同時に、仕方がないんだって諦めていました。太っていることはともかく、運動神経も、身長も自分じゃどうしようもないことだって。けれど、そんな僕を変えたのが相撲であり、一ノ関の存在です」

「一ノ関……?」

「僕の憧れの力士です。小柄だけれど、大柄な相手にも臆せず立ち向かって、色んな技を駆使して勝っていく姿は、小さな事にこだわっていた僕の価値観を変えてくれました。たとえ、小さな身体でも、諦めなければ、大きな相手に勝つことはできるんだって……」

 僕は、ふ、と笑う。

 変わったつもりでいた。それが、つもりでしかなかったことを、今、ことさらに思う。

「けど、それは、別に相撲じゃなくても、あることだろう」

「そうですね。確かに、他のスポーツでもそうかもしれません。けど、僕は知れば知るほど、相撲に惹かれていった。……相撲が、どうしてまわし一丁でやるのか、知ってますか」

「いや」

「武器を持ち込めないようにするためです。身体で、身の潔白を証明するんですよ。自分には、あなたを害する気はないのだとね。――自分の身一つで、正々堂々と挑む戦い。神の前で見せる、殺し合いを前提にしない戦い。それが相撲。だから、僕は相撲が好きなんです。僕の身一つでも、何かできるということを証明したいんです。だから、僕は先輩とずっと一緒にいるわけにはいきません」

 先輩が沈黙する。

 僕の言葉は、どう捉えられているのだろうか。それはわからない。

 けれど、伝えたのは今の僕の本音だ。それをどう受け止めるのかは、先輩の仕事。

 しばし先輩は考え込むと、首の後ろをかいて、苦笑する。

「……そうか、東雲らしいな」

「そうですか?」

「一本気で、真っ直ぐで、いつでも輝いていて――お前はいつだって、俺の憧れだ」

「憧れ? 僕が、先輩の?」

 先輩の手が、僕の両肩に置かれる。先輩の目が、愛おしそうに細められる。

「好きだよ、東雲」

 先輩の顔が、徐々に近づいていく。思わず、後ろに逃げようとしたら、先輩に強くつかまれて、引き戻された。

 これは、その、何というか。

 キス……できそうな、雰囲気?

「あ、あの、せんぱ……」

 僕の視線がさ迷う。先輩と目が合ってしまい、あわてて壁にそらせて、でもだんだん吐息が近づいてきて。うっかり先輩の唇を見てしまった。近い。

「え、と……」

 もう、僕の吐息も、先輩の唇にかかっているのではないだろうか。脳内がパニック状態で、心臓はフルスピードで、全身に血液を送り出す。

 うわ、ちょっと。

 近い近い近い!

 そんな、え。どうしたらいいんだ、これ。先輩を突き飛ばせばいいのか? 顔を背ければいいのか?

 それができるか、できないかで言われたら、多分できるだろう。でも、ここで先輩を拒絶するのが正しいのか。

 いやいや、待て待て。つい忘れてしまうけど、僕も男で先輩も男で、冗談でもなきゃ普通キスはしない。

 いや、でも、恋人同士がキスするのはおかしくないことで。

 待て、完全にパニックになってるぞ!

 ど、どど、どうしよう!?

「目、閉じて」

「そんなこと言われましても!」

 先輩の目が伏せられる。肩に置かれた手に、力がこめられる。

 触れるまで、あと数センチもない。覚悟を決めるべきなのか、否か。

 今なの、今ですか!?

 無理ですよ、覚悟なんてできないよ! ヘルプ、ヘルプミー!

「――あ」

 全身の力が抜ける。

 極度の緊張に、頭がぐるんと揺れた。めまいが、僕の意識を遠ざけていく。

「やば……」

「東雲!?」

 背後に身体が倒れていく。

 かすみゆく意識の中で、僕は先輩に謝った。

 ごめん先輩。ちょっとほっとして、ごめん。

 遠くで、先輩の声が聞こえる。

「東雲のバカ……!」

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