~油断と傲慢~

 興奮する先輩をなだめて、二試合目。

「――のこった!」

 前回の反省を踏まえて、先輩は初速を抑えて、僕の腰を狙う。

 さすがに同じ手は通用しないだろう。僕も先輩のまわしをつかんで、こう着状態に持ち込んだ。

 互いに構えたこの状態になると、相手の肩口に顔を乗せる形になるので、先輩の表情は見えない。

 けれど、一試合を経験してほぐれた先輩の身体は熱を持ち、わずかながら闘志を燃やしているように感じた。

 重心を下げ、相手の呼吸を読み、機をうかがう。

 対格差のある先輩といつまでも組み合っていたら、先に負けるのは、体力のない僕の方だ。早めに決着をつけなければいけない。

 なら、いつ動くべきか――。

「うわ!」

 すると、いきなり先輩が悲鳴を上げた。バランスを崩したかと思いきや、いっきに僕の身体へのしかかってくる。

「え」

 一瞬のできごとだった。崩れかけた先輩に、外側から脚をつかまれたと思いきや、いつの間にか、僕の身体は仰向けに横たわっていた。

 視界が天井を向き、背中に衝撃が伝わる。僕は先輩に押し倒されていた。

「……は?」

 胸元に頭をうずめていた先輩が起き上がる。

 顔をしかめて、首を犬のように左右に振ると、汗で張り付く髪を払っていた。

「えっと、東雲。大丈夫か? 俺、すべっちゃったんだけど」

 そうか、足をすべらせたのか。

 土俵はいうなれば、土のリングだ。汗や砂ですべってしまうことも充分考えられる。

 ……いや、大事なのは、そこじゃなくて。

「負けた?」

 あっという間すぎて、よく覚えていないのだが、先に倒れたのは僕の気がする。

 とすれば、先に土に着いた方――僕が負けるのが相撲のルールだ。

「え、俺勝ったのか? マジで?」

「うぐ」

 期せず勝利を手に入れた先輩は、一気に破顔した。

「これで一勝一敗だな、東雲!」

「むむむ……」

 言い返せないのが悔しい。

 けれど、今のはラッキーだ。まともに勝負すれば、僕が先輩に負けるはずがない。

 気持ちを切り替えていこう。身体に着いた土を軽く払い、頬を叩いた。

「次! ラストです!」

 次こそ絶対勝つ!


***


 中央の仕切り線の前に立ち、二人で相手の出方をうかがう。

 今のでわかったが、やはり先輩に体力勝負を挑んではダメだ。真正面からぶつかれば、戦術もへったくれもない先輩相手でも、勢いに飲まれてしまう。

 ある程度、距離を置きながら、逆に先輩の力を利用するような技を仕掛けないと。

 ふと、顔を上げると、先輩がニコニコしながら、こちらを見ていた。

「東雲、わかったぞ」

「何がですか?」

「東雲に勝つ方法」

 ずいぶんハッキリ言い切る。

 根拠あっての発言なのか、それともハッタリなのか。先輩の思考は読めない。

 読めないものは、考えるだけ無駄だ。

 今は、勝つことに集中しよう。

 腰を屈めて、仕切りの体勢に入る。先輩も僕にならった。

「はっけよい――」

 空気が張り詰める。

「のこった!」

 先輩がこちらに突進してくる。先ほどと同じように、僕のまわしをつかんだ。

 ――と、思いきや。

「あ!」

 まわしごと、僕の身体を持ち上げられてしまった。足が宙に浮く。

 しまった、これじゃ身動きが取れない!

 僕は必死にもがいた。これでは、手の打ちようがない。

 先輩は僕の身体を持ち上げながら、徐々に土俵際に寄っていく。

 このまま、土俵の外に運ばれたら、僕の負けだ。

「く、くそ!」

 つり出しなんて、大きな力士が小さな力士を安全に倒せる定番中の定番なのに。素人の先輩がそんな技を知るはずがないと思って、完全に油断していた。

 何とか足を引っ掛けて、先輩を転ばそうとする。だがそれに気づいた先輩は、僕の腰をより引き上げて、僕の身体をななめに吊り上げた。

 先輩の足が遠ざかり、起死回生の手も狙えない。

 そのまま僕は、土俵の外へゆっくりと下ろされた。足の裏が地面に着く。

「ほい、俺の勝ち!」

 額に流れ出る汗をぬぐいながら、先輩が微笑みかける。

 完全にやりきったという、すがすがしい表情だ。

 勝者の余裕がそこにはあった。

 そう、負けたのだ。僕は。相撲のルールすら知らなかった先輩に。

「ふふん、約束だぞ、東雲。俺とつきあ――」

 だが、いきなり先輩が、そこでぎょっと目をむいた。

「し、東雲? どうした? どこか痛いのか?」

「何がですか」

 僕の肩をつかんで、先輩が揺さぶる。

 別に、どこも痛くなんてない。先輩がどうして、そんなことを言うのか、僕にはわからなかった。

 けれど、さらに慌てる先輩を見ていると、ふいに視界がにじんだ。ぼんやりとゆがむ。

「……え?」

 目に違和感を覚えて、手を当てた。何か水のようなものが、滴り落ちていく。

 まさか、これは、涙?

 違う、これは汗だ。涙のはずがない。 

 水滴を何度も手でぬぐって、にじんだ視界を晴らそうとする。

「しの、のめ……」

 明らかにうろたえた先輩の声が聞こえる。

 聞きたくなかった。

 先輩に心配されたり、同情なんてされるのは、まっぴらごめんだった。たとえ、汗が止まらないだけだとしても。

「約束……でしたから」

「え」

「先輩と、お付き合いします」

 僕の発言に、なぜか先輩が傷ついたような顔をした。

 勝ったくせに、なんだよ、その顔。

 腹の奥底で、暗くよどんだ感情が渦巻いていくのに、僕は気づいていた。だが、そんなものの正体は知りたくもない。

 僕は、自分の感情に、見てみぬふりをした。

「よろしく、お願いします……」

 差し出された僕の手に、先輩が惑う。じれた僕は、彼の手を強引に掴んで、さっさと契約を果たした。

 その時の先輩の表情を、僕は見ていない。

 真正面から見つめるだけの、勇気がなかった。

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