第三章「東雲、勝負する」

~はじめて~

 土俵の上で、先輩と向き合って立つ。ちゃんとまわしをつけてだ。

 素人の先輩は嫌がるかと思ったが、あっさりと服を脱いで、簡易用のまわしを身に着けた。

 一瞬感心しかけたが、僕が服を脱いだ途端大興奮し始めたので、わずかながらの尊敬の念はあっという間に相殺された。

「なあ、ところで東雲」

「何ですか?」

「相撲って、どうすれば勝ちなんだ?」

 僕は唖然とした。

 まさか、国技のルールすら知らないとは、完全に予想外だ。

 しかし、さすがにルールを伝えずに勝負するのはアンフェア過ぎる。

 僕はずきずきと痛み始めた頭を抱えながら、先輩に説明する。

「基本的には二つです。相手に足の裏以外の部分――例えば手や、背中などですね。これを土に着けさせれば勝ち。もう一つは、土俵の外に押し出す。この二つですね。反則負けとかもありますけど、今回そこは考慮しませんので」

 身振り手振りを交えて、先輩に伝えると、向こうは大仰にうなずいた。

「よしわかった。つまり東雲を押し倒せば良いんだな」

「よくわかりました。つまり死にたいんですね」

 冗談を言っているのかもしれないが、どうしてこの人は毎度毎度アホなことしか言えないのだ。

「じゃあ、やりますよ。はっけよい、のこった、でスタートになりますから」

「OKOK」

 先輩から、軽い返事が返ってくる。気合の気の字も感じられない。

 とっとと二連勝して、追い払ってやる。

 僕らは土俵の中心に向かって、相対する。

 本来なら、四股を踏んだり塩をまいたりして、悪いものを祓うのだけれど、さすがに何も知らない先輩相手にそこまで強要するのは酷だ。

 もっと言えば、はっけよい、のこったで試合を始めるというのも、正確じゃない。

 関取同士が、互いに空気を読んで、機が熟したと感じた瞬間に始まるのだ。なので、プロの試合では、始まるまで何分間もかかるものも珍しくない。

 こういう相撲の奥深さを、少しでも先輩に感じてもらえたらいいのにな、とは思う。

「はっけよい――」

 気持ちを切り替えて、僕は腰を落とす。先輩も見よう見真似で同じポーズをとった。

 真正面から、相手を見据える。

 先輩の目は、まっすぐ僕を捕らえていた。

「のこった!」

 僕の声を皮切りに、先輩が前傾姿勢で、突進してくる。猪突猛進という言葉が、僕の頭をよぎった。

 てらいもない、まっすぐな攻撃に、僕は自分の身を右にずらす。わざと左足だけ、その場に残して。

「うおっ!?」

 直進する先輩の足が、僕の左足に引っかかった。バランスが崩れたところを見計らって、相手の勢いを利用するように、肩を押してやる。

「わ、わわ!」

 先輩が、地面に手をついた。これで僕の勝利は決まったのだけれど、そこで止まることのできなかった先輩は、土俵の外へと転がり落ちていく。

 木製の壁に、人の身体がぶつかる音が響いた。

「う、痛てて」

 顔をしかめながら、先輩が立ち上がる。

 どうやら、特にどこかを痛めた様子はなさそうだ。いくら先輩とはいえ、自分が原因で怪我をさせたなんていうのは、さすがに寝覚めが悪い。

「よ、避けるなんて、東雲のいけず」

「これも立派な戦術ですよ。けたぐりっていう技です」

「むー」

 先輩は、子供のようにむくれていた。

「頼む、東雲! もう一回! なんか、今度はいけそうな気がする」

 その自信はいったいどこから来るのだろうか。

 本来なら、これで決着はついたのだから、僕は先輩の意見なんか無視して、約束どおり追い出せばいい。

 それでも、僕は迷った。

 もし、先輩が単に勝負を引き伸ばそうとしているのなら、先輩の首根っこを捕まえて、部屋の外へ放り出していただろう。

 でも僕には、先輩が純粋に相撲を楽しんでいるように見えた。

 甘い、と言われれば、そうかもしれない。いや、事実甘いのだろう。でも、僕は全国の相撲を愛する人の味方でいたい。

「……仕方ないですね。じゃあ、三回勝負にしましょう」

「東雲!」

 先輩の顔が、ぱあっと明るくなる。

「先に二本先取した方の勝ちです。良いですね」

「東雲、ありがとうっ!」

 涙ながらに先輩が抱きついてくる。

「うざい! 暑苦しい! 離れてください!」

「やっぱり結婚しよ」

「しません!」

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