第一章「東雲、相撲部に入る」

~最悪な出会い~

 県立保孟ほもう高校相撲部。

 その部室の前に、僕は立っていた。

 受験直前の志望校変更に、両親は戸惑っていたけど、僕にはみじんの後悔もない。

 そう。たとえ偏差値が中の下レベルでも、制服が本気でダサいと有名でも、元男子校で生徒のほとんどが男で、もう女の子とのイチャイチャ学園生活がほとんど絶望的でも、それでも良いんだ。

 だって、ここの相撲部は、全国でもトップクラスの実力校なのだから!

 ……まあ、そもそも全国の相撲人口がそこまで多くないから、比較的楽に勝てるという裏話はおいといて。

 だいたい相撲部って、どうしてこんなに少ないんだろう。

 相撲は日本の国技だぞ、国技。海外発祥の野球が、こんなにも幅を利かせているのに、日本生まれの相撲がこんなに廃れているんなんて、理不尽じゃないか。

 そんならちも明かないことを考えて、時間を捨てているのは、今、僕が非常に緊張しているからだ。

 一度、大きく深呼吸する。

 これからの高校生活の良し悪しが、第一印象で決まるといっても、過言ではないんだ。元気よく挨拶しようじゃないか。

 僕は戸をノックすると、ドアノブに手をかける。

「こんにちは! 失礼しま――」

「もう嫌だああああああああああああ!」

「すみません、オレも無理ですーーーーーっ!」

 ドアを開けた途端、黒い巨体が二体、僕をはじき飛ばして去っていく。

「うわ!」

 一瞬、熊に襲われたのかと思った。

 しりもちをつきながら、背後を見やると、それは熊じゃなく人間だった。

 学生が二人、必死の様子で走り去っていく。思わず、あっけにとられてしまった。

「な、何だ? 今のは」

 向こうからぶつかってきたというのに、突然の出来事すぎて、怒る気にもなれない。

 次いで、もう一人長身の学生が出てきた。

 ネクタイの色からして、三年生みたいだ。確か、一年は緑、二年は赤、三年は青だった気がする。

 学生は見るからに肩を落として、大きく息を吐いた。

「ああ、最後の部員たちが……」

 身長は、百七十五はあるだろうか。

 縦に長いイメージはあるけれど、決して細いわけではない。腕を見れば、かなりの筋肉が彼の身体を覆っているように見えた。

 それでも、威圧的な印象を与えないのは、ひとえに、その顔のおかげだと思う。

 一度も染めたことがないであろう短い黒髪は精悍さを与え、柔和な瞳は、威圧よりもまず、どこかほっとさせるものがある。

 そんな彼が、ふいにこちらを向いた。僕を見て、目を瞬かせる。

「……君、入部希望者かい?」

「あ……はい。そうですけど」

 いきなり、がしっと手を握られる。

 思わず、固まってしまった。

「よく来てくれたね、ありがとう! さ、入って入って! 遠慮なく!」

「え、あ、あの?」

 三年生の先輩は目を輝かせると、強引に僕を室内へと引っ張っていく。

 い、いいのかな。確かに入部しに来たんだけど。展開がいきなりすぎて、若干ついていけない。

「あ、悪いけど、靴は脱いでもらえるかな。靴下もね。土足厳禁なんだ。――さ、ここが稽古場だよ!」

 打って変わって、うきうきした様子で先輩は狭い廊下を進んでいく。

 更衣室らしき場所を通り過ぎると、突き当りのドアを開いた。

 土と砂の香りが、鼻腔に広がる。

「おお……!」

 僕は息を飲んだ。

 すごい、ちゃんと床に砂が敷き詰められてる。

 裸足で土を踏む感覚に、なんだかどきどきする。高校に入るまでは、ちゃんとした練習場がなくて、体育館に土俵マットを敷いてやっているような状態だったから、ちょっと感動してしまった。

 他にも打ち込みの練習に使う鉄砲柱だとか、フォームを確認するための壁鏡、歴代優勝の賞状やら何やら揃っている。

 さすが、古豪って感じがする!

「部員なら、いつでも利用してもらって構わないよ。戸締まりさえ、しっかりしてもらえれば良いから。更衣室は、今通り過ぎたけど、あの扉の手前ね。あと、他の運動部と強要だけど、ジムとシャワー室もあるから、後で案内しよう」

「はい、ありがとうございます。えっと……?」

 そういえば、先輩の名前を聞いていなかった。

 先輩も気づいて、自分から自己紹介してくれる。

「ああ、そうか。僕は赤山あかやま。三年で、相撲部の部長をしている」

 部長さんだったのか。

「こちらこそ、ご挨拶が遅れました。一年の東雲です。よろしくお願いします!」

 勢いよくおじぎすると、部長がなぜか天井を向いて感動していた。

「うんうん、こちらこそよろしくね。君みたいな礼儀正しい子が入ってくれて嬉しいよ。ところで、入部届けはもう出した?」

「あ、いえ。まずは見学してから出そうと思って」

「見学……」

 突然、部長がばつの悪い顔をする。

「どうしました?」

「えーと、東雲君。大変言いにくいんだけど……」

 けれど、いきなり何かを察知したかのように、真剣な表情に変わった。

「部長?」

 僕の問いに、全身に緊張をみなぎらせている部長が、口の前で指を立てた。忌々しそうにつぶやく。

「クソ、追い払ったと思ったのに、やつめ。東雲君の匂いを嗅ぎつけたな……!」

 僕の匂い?

「い、犬か何かですか」

「犬なんて可愛いもんじゃないよ。あれは」

 部長は辺りを窺いながら、小声で耳打ちしてくる。

「いいかい、東雲君。早速で悪いんだけど、静かに部屋から出てもらいたいんだ。やつに見つからないうちに」

 や、やつ……!?

 僕は、ごくりとつばを飲む。

「気をつけて。あれは野生の獣と同じだから。今は、君の嗅ぎ慣れない匂いに警戒して、様子を見ているけど、隙あらばいつでも襲いかかってくる。慎重に」

 いったいどんな獣だ!? やっぱり熊か!?

 部長に言われるままに、僕は少しずつ後ずさりして、出口へ向かう。

「ゆっくり、そうっと……」

「はい……」

 やがて、扉の手前まできた。ここまできたら、もう外へ出るだけだ。ほっとして、思わず息をもらす。

 ――が、その油断がいけなかった。

「危ない!」

 部長が僕の背後を見ながら、強く叫ぶ。

 後ろから、生き物の気配がした。荒い息遣いが聞こえる。そこに、いる。

 ――やられる!

 目をぎゅっとつむって、僕は被害を覚悟した。こうなったら、なるべくじっとして、早く去るのを待つしかない。

 けれど、いつまで待っても、痛みはこない。代わりに来たのは。

「お肉ちゃああああん!」

 奇声だった。

 その生き物に、なぜかいきなり抱きつかれれている。あまりの衝撃に、僕は身動きすらできなかった。

「ああ、良い弾力だ! プニプニしてる! 素晴らしい、これぞ至高の脂肪! パーフェクト、マーヴェラス!」

 いきなり腹回りを、ムギュムギュともまれている。

 そう、手だ。これは人間の手がもんでいる。

「え、な、な、何!? 何これ!?」

 完全にパニックになった僕は、逃げ出すこともできずに、その場でうろたえるだけだった。

 なんとか必死になって、首を後ろに向ける。

 顔が見えた。人間だ。学生服の男が、よだれを垂らしながら、僕の贅肉をもんでいた。

「ああ、これぞ運命の出会いだ。君、名前は」

「し、東雲ですけど」

「東雲!」

 男は、僕の前面に回りこむと、肩をつかんだ。

「じゃあ、東雲、結婚しよう!」

 そうか、結婚か。

 びっくりした。何だ、ただの結婚か。脅かすなよな。――って、うん?

「……は?」

 今、なんて言った。

 結婚? 今初めて会ったばかりで? というか、男だよな、この人。そして、僕もどこからどう見ても男。うん。

 え、え?

「ええええええええっ!?」

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