読書記録『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』 感想 2(超ネタバレ)
この作品を読んだ方ならば分かるかもしれませんが、この作品には『低評価ゲームのレビュー』という形とは別にもう一つの形が見えてきます。
それは幾つかのエピソードで語られることだったり、雑記の部分で語られることです。この作品を読み進めるに連れてバラバラだった要素が少しずつ繋がっていき、それが一つのテーマとなって姿を現します。
それを言葉にするならば単純に『生きる』と表現できるでしょう。
多くの読者が理解できる普遍的なテーマの一つです。
但し主人公にとって『生きる』というのは『ゲームを楽しむことができる』という状態です。現実でもゲーマーに向かって『ゲームをしていて何が楽しいの』と諭す人がいますが、それは『生きていて何が楽しいの』と問い掛ける言葉と同じです。
だからこそ、この作品を通して一つの問いが投げ掛けられます。
『我々はなぜゲームを楽しいと感じるのだろうか?』
人工知能はゲームを楽しいと思うでしょうか?
人工生命体はゲームを楽しむことができるでしょうか?
人間がゲームを楽しめるのは脳内物質が出るためでしょうか?
人間がゲームを面白いと思うのは演出を理解できるからでしょうか?
一体人間とは何なのでしょうか?
突き付けられる疑問は実にSF的です。
ゲーマーにとって生きるということはゲームを楽しむということ。
ですが、『なぜゲームを楽しむことができるのか』という疑問を、ほとんどのゲーマーは答えることができないと思います。個々の要素をあげて説明したとしても、根本的に『なぜそれを面白いと感じるのか』という疑問の答えにはなりません。
『なぜゲームでプレイするのだ』と聞かれれば『そこにゲームがあるからだ』と答えることはできますが、これもまた『なぜゲームを楽しむことができるのか』という疑問に対する答えにはなりません。
あるいはゲームの面白さが全て『脳内物質』だけで説明できるならば話はもっと単純でしょう。
それこそが『ゲームの面白さ』だと断言できるからです。ゲームをプレイするということはあくまでも手段に過ぎず、それに伴って発生する『脳内物質』こそが本質である。ってね。
でも、それが違うということは作中でも幾つかのエピソードで書かれています。
過程があり、結果がある。ゲームを楽しむからこそ、ゲームが面白い。
あるいはゲームが楽しいからこそ、ゲームは面白いのです。
もしかすると小生が言っていることを多くの方々は理解できないかもしれません。
こればかりは『それ』を経験した人間にしか理解できないことですから。
例えば『馬鹿馬鹿しいほど理不尽なゲームをクリアーした後の一瞬』
例えば『十数年付き合ってきたゲームの終わりに立ち会った時の損失感』
小生は知っています。
多くの人々が『ゲーム』というものに価値を見出さなくなることを。
お前の信じているモノには何の価値もないと断言する人々がいることを。
ですが、小生は別のことも知っています。
『価値』という言葉自体が人間の生み出した幻想に過ぎないことを。
お前たちの生き方に価値はないと言われてきたからこそ理解できるのです。
おそらく『脳内物質』によってゲームと同じ『結果』を得ることはできるでしょう。しかし、それはあくまでも表面上に過ぎません。少なくとも今はまだ。
我々が『なぜゲームを楽しむことができるのか』と問われればこう答えるしかありません。
『そこにしかないものに我々は価値を見出したのだ』と。
ゲームをプレイしたからこそゲームを楽しめるということを知っている。
答えにならない答えしか見出すことができません。
ただゲームが面白いと知っている。
ただそこに生きる価値を見出した。
ゲーマーとはそれだけの存在なのです。
まあ、『ゲームが面白い』という価値観ですら多種多少で、そこに争いが起きるのですが、それは置いときましょう。楽しみ方はひとそれぞれですが、それを容易く認められるほど人間というのは賢くないわけです。例え自分たちが否定される悲しみを知っていたとしても。
この作品の主人公にとって『生きる』ということは『ゲームを楽しむ』ことです。
だからこそ主人公はそれができなくなるかもしれないことに恐怖を覚えます。
その恐怖がかつての『仲間』を冒涜する行為だったとしても、人間でしかない主人公には確信が持てないのです。だから、誰でもいいから確信を持たせて欲しいと願います。叫びます。
でも、それができる人間なんてどこにもいません。
ゲームと同じで自分でやってみるしかないのです。
『価値』という言葉は幻想に過ぎません。
幻想とは壊れ易いもの。ちょっとした変化でも夢は終わってしまうのです。
もし主人公が『ゲームを楽しめない人間』になってしまえば、それは彼が生きてきた人生そのものを踏み躙る行為です。少しずつ積み上げてきた『価値』を人として生きていくために捨てなくてはならないかもしれない。
そして、一度捨ててしまえば、おそらくもう二度と取り戻すことはできない。
その行為はゲームに対する裏切りでもあります。
主人公の友人はその幻想を壊さないために生きました。
幻想を信じ続ければそこに価値はあるからです。
主人公もそうすることができました。
それでも主人公はその道を選ばず賭けに出ます。
その理由は『自分はけっしてゲームの価値を失うことはない』という妄信的な確信ではなく、『新しい未知のゲームをプレイできるから』というのがまさに傑作です。馬鹿馬鹿しいと笑うでしょう。ふざけてると怒るでしょう。
でも、例え過去のゲームを失ったとしても新しいゲームに挑戦する。
それもまたゲーマーの生き方なのです。
結局のところ主人公が選んだ道も『ゲーマーとして死ぬまで生き続ける』という道でした。彼の友人と同じように。
『ゲーマーなら分かってくれるでしょう』
例え『クソゲーだと分かっていても新しいゲームに突き進む』
例え『面白くないと確信していても続編をプレイする』
ああ、分かってしまう。
面白いかもしれないという可能性に我々は逆らうことができないのです。
『なぜゲームをプレイするのか』
『そこにゲームがあるからだ』
ゲーマーだからといって全てのゲームを楽しめるわけではありません。
楽しいゲームもあれば、楽しくないゲームもあります。
実際にプレイして見なければ分からない。
世間的に低評価ゲームだったとしても、自分は楽しめるかもしれない。
その先が阿鼻叫喚の地獄というのも毎度の話。
掲示板には怨嗟の声が溢れ、ほら見たことかと高みの見物。
思い出しただけでも笑える我々の日常です。
まあ、中には本当に楽しめる方もいるという不思議なお話。
『我々はなぜゲームを楽しいと感じるのだろうか?』
その答えはやはり分かりません。
なぜ楽しいと感じる人と楽しくないと感じる人がいるのでしょうか?
『多くの無価値からなぜゲームという存在を選んだのだろう?』
たぶん死んでも分かりませんし、この作品でもその答えは提示されません。
ただ、ふとした切欠で自分がゲームを楽しめる人間だと知ってしまった。
多くの人々がそこから離れていく中でどうしても手放すことができなかった。
そして、常に自分が楽しめるゲームを探しているのがゲーマーという生き物です。
その結果、過去の大切なゲームを失ったとしても進むしかない。
すでに大切なものを得ているのはまだ先を望むのですから。
ほうら『救いようが無いアホウ』でしょう。
ですが、まあ、とても人間らしいとも思います。
いつの時代でも止まることができずに進み続けるのが人の性ですから。
お決まりにアダムとイブの話でもしましょうか?
するまでもないですね、はい。
ま、『ゲーマーとは救いようが無いアホウ』である。
そして、そんなアホウを貴方はどう思いますか?
って話ですよ、マジで。
結局『ゲーマーはゲーマーでしかない』ということですから。
<理解できない方が幸福とも言える>
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