『蜜蜂と遠雷』 雑談 2(ネタバレ)

 妄想の続きです。

 どぞ。

 


<審査員>


『コンクール』で師匠が弟子の審査をするというのは普通のことなのでしょうか?

 実力が同じぐらいの二人が競った場合、片方が弟子ならば弟子の方に有利な判定を下すと思います。それも含めて実力というのが『音楽コンクールの認識』なのかもしれません。推薦状の件も含めて。


 まあ、賞に選ばれるのは『中身(質)だけではない』というのが様々な分野での公然の秘密なので、様々な利害関係が混ざり合っているというのはとても現実的です。あんまり書くと怒られそうなので、逃亡しましょう(笑)



<音楽コンクール>


 コンクールとかコンテストというのは本来『技術的なもの』を審査する場所であり、『芸術性』などは審査ができない(難しい)というのが小生の認識である。


 例えば小説の新人賞で、『大賞作品』よりも『特別賞』の作品の方が面白いということはそれなりの頻度発生する。これは『特別賞』の方が技術的に劣っていても、『作品的に面白い』ということがあるからだ。


 だが、『面白さ』というのは人によって変化するため、あくまでも『作品を書く技術』を重点的に審査するというのが普通のやり方だろう。本来『作品の審査』に個人の好みを(なるべく)入れてはならないと考える。


 このため、『大賞作品』は結果的に『無難な作品』が多くなってしまう。

 そもそも『面白さの定義』というものが明確ではないからだ。


『売れる作品が面白い』というのは簡単だが、中には数年後にはつまらないと言われてしまうような作品もあり、『そのときだけ面白い作品が面白い作品なのか?』『数年後、数十年後に読んでも面白い作品が面白いのか?』という商業主義と文化主義の対立みたいな構図も考えることができる。


 ただ『(今回の)音楽コンクール』の場合は楽譜通りの引けて当たり前、その先を目指して当然というように感じられる。たぶん技術を得た先に『何を表現するのか』というところまで審査しているのだと思う。


 そんなものを審査できるのかなーと考えるが、審査しているのだからたぶんできるのだろうと思った。コンピューターで『楽譜を再現』させてもそれは『音楽にはならない』という文章を読んで、どうやら『音楽』というのは『楽譜の奥』にあるものを演奏しなければならないらしい。


 だが、そこに『自由があるか』と問われれば、どうやら無いらしいと答えるしかない。『作曲家の意図』を読み取ることが『演奏家の役割』であるらしく、それならば最終的な答えは一つだけのような気がするのだが、どうやらそうでもないらしい。


 この辺りは『クラシック音楽』に詳しくない小生ではさっぱりですね。ただ『ポピュラー音楽』も『歌い手』や『演奏者』によって変わるので、そういうものなのかもしれません。


 まあ、よく分かってないんですけどネー(汗)



<音楽の神様>


『栄伝亜夜』は『風間塵の音楽』に音楽の神様を見出しますが、『マサル』はそこに音楽の神様がいるとは感じません。むしろ『マサル』の場合は『栄伝亜夜の音楽』に神々しさを感じています。


 同じ音楽を聴いているはずなのに、感じていることは違うというのはこの作品の中で何度も表現されています。その感性(認識)の違いがこの作品の大きな魅力かなーと思います。


 

<音楽シーン>


 視点の違いが面白く、考え付くだけでも『演奏家の視点(弾いている者)』『音楽家の視点(分析する者)』『審査する視点(コンクール用)』『観客の視点(楽しむ者)』『家族・知り合いの視点(身内)』というような様々な視点から『音楽(もしくは音楽コンクール)』というものを表現しようとしています。


 そこに『感性の違い』や『心情の違い』なども加わり、更にややこしくなっているのですが、読んでいてそのややこしさを感じないという不思議さがあります。


 理由は不明。

『漫画』や『ライトノベル』に近い表現方法だからでしょうかね


 

<ホフマン先生の正体>


 作中でもあまり語られない謎の人物である。

 作中で明確に語られていることをまとめると、


『伝説的な音楽家』(現代の音楽家たちに認められている)

『弟子は少ない。その中でも風間塵は特殊』(推薦文は書かない)

『風間塵はホフマンと同じ音を聴いたことがない』(栄伝亜夜と出会う前)

『風間塵の音楽はホフマンの音楽とは違う』(音楽家から否定されている)

『ホフマンは自信も試されている』(推薦文より)


 これらのことを統合すると、


『ユウジ・フォン=ホフマン』は『風間塵』に近い才能を持ちながらも、その才能を『王道(正統派)クラシック音楽』に費やした人物であると考えることができる。言うならば『風間塵』と出会わず、順調に成長した『栄伝亜夜』と表現できるかもしれない。


『ホフマン』が推薦状で『風間塵』が災厄になる可能性があると指摘しているということは、少なくともその危険性を理解していたということであり、もしかすると彼自身が一度『風間塵の音楽』を否定したという可能性もあるが、あくまでも推測である。


 少なくとも『ホフマン』自身も『風間塵の音楽』に近い音楽を演奏できたが、それを他の音楽家に聴かせたことは無いようだ。これが元から演奏できたのか、それとも『風間塵』と出会ったことによる『変化』なのかは不明である。


 作中では二人の出会いは『奇縁』と書かれているので何かはあったようだが、この『伏線』もスルーされてしまったため、詳細はこれまた不明である。


 

<テーマ>


 作品のテーマではなく、最初の文章のこと。

 この場面の『視点主』は三人考えることができる。

 

 一人目は『栄伝亜夜』

 だが、彼女ならば『蜜蜂』ではなく『雨音』の方なので除外。


 二人目は『風間塵』

 もっとも可能性が高いが、文章を読む限りでは今よりも成長した『風間塵』であると考えられる。晩年の『風間塵』かもしれない。


 三年目は『ホフマン』

 小生の考えではこれ。ここが唯一の『ホフマン視点』であると考えると、『成長した風間塵』説よりも、物語の構造的にしっくりと来る。『風間塵』と『ホフマン』が同じ『感性の持ち主』だったという証明にもなる。



<ホフマンの弟子>


 ホフマンの弟子という言葉は重く、『ナサニエル』は『風間塵』の音楽を聴かないうちから彼の存在を否定している。


 このことから『ホフマンの弟子』という称号が、音楽界にとっての『呪縛』となることをホフマン自身が嫌っていたのではないかと考えた。


 それでも『風間塵』を『弟子(推薦状)』という扱いにしたのは、『風間塵の音楽』が『ホフマン』にとって『演奏したかった音楽』だっただからだろう。


 彼自身がプロとしては『正統派の音楽家』であったという事実から、けっしてその道を否定しようとしたということではない。だからこそ、『風間塵』の存在を隠し、自身も『風間塵の音楽(ホフマンの音楽)』を人前で演奏することはしなかった。


 そんな彼がなぜ『風間塵』をコンクールに送り込んだのかというと、たぶん『天からのギフト』である『風間塵』を『御裾分け』したのだろう。彼自身が仲間だと思っている音楽家たちに対する純粋で意地悪な『贈り物』だったのである。


 計算外だったのは『栄伝亜夜』という存在がいたことだろう。

『仲間を見つけなさい』と言ったが、さすがに言った本人ですらコンクールの中に仲間がいたということを把握できていたとは考え難い。


 もし事前に知っていたのならば、『ホフマン』も彼女に会いに行っていたのではないかと思う。『マサル』の存在は知っていた可能性もあり、『風間塵の音楽』を抑制する意味でわざと同じコンクールを選んだということも考えられるが、これも推測に過ぎない。



<綿貫先生>


 存在的には『ホフマン』と対になる存在。

『ホフマン』が弾く側の象徴で、『綿貫先生』が聴く側の象徴。

 たぶん。



<終わりに>


 面白かったです。


<完(後書きに続く)>

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