226/日向有栖に花束を
皇紀二六七九年 如月下旬(雨水より三日) 日本国 東京都 千代田区付近
この喫茶店に喫煙スペースは存在しない。健康志向と自然主義の台頭は、煙草、酒といった法的毒物・薬物の増税と実質的規制強化とを達成し、ゆえに天然の
アノニマは奥の席に、入口が見えるよう座る。ほどなく給仕が注文を取りに来る。黒い短髪をした学生のように見えた。
「ご注文はお決まりですか?」
アノニマは流暢な日本語の発音で答えた。
「この
店員は些か苦笑いを浮かべ、差し出がましいと感じながらも答えた。
「メインとデザートの、二つで充分だと思いますよ」
「いいや二つずつ、合わせて四つだ」
「うちは、学生のよく来る所ですから。量も多いですよ。食べきれますか」
「もちろんだ。冷感症だからメシ以外の快楽が無いんだ」
給仕はそこで絶句した。そそくさと去るその背中に、アノニマは「飲み物はホットレモネードで頼む」と付け加えた。
「予防にはビタミンだからな」
夕方どきに市街は穏やかに沸いていた。春休みの始まる頃だろう。暖房はよく効いていて窓ガラスは少し曇っていた。程なくして帽子屋からの通信が入る。
「奴らの持つ【赤い水銀】――すなわち、僕の電磁波研究をスピンオフした励起状態の固体ヘリウムの電磁的制御……つまりこれが次世代爆薬こと電子励起爆薬、という事だが。これをプライマリとした純粋水爆の核融合条件を満たす、磁場閉じ込め方式の設計を僕なりに推測してみた」
「献身的な事だな」
「大量虐殺者の汚名は被りたくないからね」
別の給仕が冷水とホットレモネードのグラス、温かいタオルを置いて去る。アノニマはタオルを使って両手を拭いたが、左手の人造皮革の手袋は取らなかった。
「電磁波による制御装置の役割は、単純に固体ヘリウム化合物の電子励起状態での安定化だ。もちろん化学合成によって輸送時の衝撃などを考慮したある程度の安全マージンは取られているだろうが、基本的に電磁制御が無ければ準安定状態にあると考えて行動しよう。安全第一、通常の爆発物の取り扱いと同じだ」
「危ない橋を渡る連中だ」
「輸送中の事故で爆発しても
「大掛かりな装置だな。
「僕に言うなよ。たぶん太陽と同じ核融合反応を用いる事が奴らにとっては重要なんじゃないかな。
「ああ。解除するにはどうすれば?」
「現物を見ない事には、何とも。
するとセーラー服姿の眼鏡をかけた女学生が闖入してきて、アノニマの向いの席に鞄を置きながら、店員を呼びとめて言う。
「わたし、焼き立てクロワッサンにウェット・カプチーノ。彼女のデザートと一緒に持ってきてくれる? ――あ、それじゃあきっと間が持たないから……食前にベトナムコーヒーも。練乳多めでね」
店員はそれを聞くと安心したように「かしこまりました」と返答する。女は席に着く。アノニマは「誰だ、お前?」と訊く。女は、
「
と、明るい声のトーンを変えないまま言う。
冷水と温かいタオルとが置かれた。それからベトナムコーヒー。店員は笑顔でもって去る。
「両手を机の上に置け。ゆっくりとだ」
「
「その喉が次に音を発するより速くお前を絶命させられるからだ」
アノニマはテーブルに設置されているナイフやフォークなどに目をやった。拳銃やナイフは携行していない。
「変な気を起こすな」
女が隙を見せないので、アノニマはゆっくりと両手を机の上に置いた。身分の無い状態で騒ぎを起こすのは、得策ではない。
「入国の目的は?」
「私が爆弾魔に見えるか? ステレオタイプな物の見方だ」
「可能性を排除するのが私の仕事だ。身分証を?」
「持っていない。警察には見えないが?」
女はスマートフォンを操作すると、発言を促した。
「名前、所属、認識番号を言え」
「――アノニマ・プネウマ。所属は
音声認識はアノニマの声紋を認証したようだ。女は小さく溜め息を吐いて、弁解もせず気だるげに言った。
「私が
「御挨拶だな。フランス人にとってはアラブ人もクルド人も同じに見えるか?」
「質問に答えていない。目的は何だ? この国はお前の活動範囲からは外れているはずだが?」
「私の独断だ。
「気に入らないな。どうやって密入国した?」
「個人的なツテだ」
「――いいか、この際だから言っておく。お前に与えられた越境の権限や委譲された暴力の行使は、お前自身の気晴らしや楽しみの為にあるのではない。当局に発覚すれば、各国の法的手続きに則って罰せられる事だろう。その意味でお前に、個人としての自由は無い」
「既に超法規的措置だと思うがな。VIXENという対テロリズム非国家機関の存在意義において、私自身に与えられた権限・暴力を適切に行使する事が、主権国家体制や経済社会、および個人の生命や権利、公共の利益等を守る事に繋がると私は解釈しているが」
「分かった、言い方を変えよう。立場を弁えろ。出過ぎた真似は止せ。人に迷惑をかけるな。しかし敵に容赦するな。
「話の分かる奴だ」
エーコは答えずコーヒーを一口飲んだ。やがて代用ウナギ丼と唐揚げ定食、次いでホットレモネードが供される。
「……別に、私にお前をどうこうする権限があるわけでもない。必要があれば、ただ警察に突き出せば済む話だ。しかし奴らの動向の監視だけでは、限界もある」
装備部門の任務は他部門への武器装備の提供、および敵性勢力の装備状況の把握とその運搬・兵站の監視だ。
「前衛部は日本に展開していないのか?
「日本支部へは、政府の一派から非公式に依頼が出ているようだ。もっとも、公式な依頼なんて出しようもないが……」
「どんな依頼だ?」
「『国内に見受けられる無政府主義者およびテロリストと見られる集団の、国民・国家に対する暴力革命的運動の未然阻止』。そんなところかな」
「その具体的状況は?」
「表立った動きは少ない。ただ深層ウェブなどを含む通信活動を傍受した結果、この近辺で近日中に何かしら大きな行動を起こす兆候はあるようだ」
「掴みどころが無いわけだ」
アノニマは代用ウナギ丼を平らげ、唐揚げ定食に箸を移す。
「だが香港から送られた例の貨物の移動は掴んでいる。陸揚げされたのち、いくつかの個人名や
「内容物は?」
「玩具、プラスチック部品、服飾、金属類、電子機器、実験用機材、精密機械……書類上はそんなところだ」
「都内のどこだ?」
「それを掴ませるほど奴らも間抜けじゃないさ」
「私は電子励起爆薬だと睨んでいるが」
「電子励起爆薬だと?」
エーコが引き攣ったように顔を歪ませた。もしかすると
「そんな絵空事を考えて、わざわざ密入国してきたのか? 大した正義の味方だな。決定的な証拠でもあるのか?」
「いや……」
喫茶店の背景には『二人でお茶を』が流れている。アノニマはホットレモネードに蜂蜜を垂らしカタカタと鳴らしながら掻き混ぜた。
僕の膝に座っている君
二人だけのお茶会、お互いの為だけに
二人ぼっちの僕らが居るだけ
誰も聞き耳を立ててやしない
覗き見する奴もいない
友達も親戚も訪れない
そんな閑雅な週末
誰にも教えないよ、愛する人
僕たちだけの秘匿回線を
一日が始まり君は目覚める
君は僕と子供たちの為に
甘いケーキを焼き始めるのさ
僕らは家族を作るだろう
君のための男の子、僕のための女の子
ああ、それは何て幸福な時である事だろう?
「そしたらまあ、僕が生ける証拠となるかな」
そう発言した初老の男は白いカラスのような髪の毛を光に遊ばせていた。それから店員に言った。
「鴛鴦茶をひとつ。え、無い? それじゃあコーヒーと紅茶でいいや。基本的に喉が渇いてるから、――ん? ああ、そう、そう、混ぜるんだよ。混ぜて出してくれるの? ありがとう、5:5で大丈夫、ガムシロップで。冷たいやつでよろしく。糖尿気味なもんでね。あ、
「これがお前のツテか?」
エーコはあからさまに怪しんだ。アノニマが答えるかわりに帽子屋が言った。
「ああ。匿名希望なのでジョン・
アドレスも交換しとく? と付け加え、エーコの隣に腰を下ろした。エーコは帽子屋の端末から近距離無線通信でデータ・ファイルを受け取ると、しばらくそれに目を通した。北朝鮮、メキシコ、アフリカ、そして香港にブラジル――での記録。やがてコーヒーのカップを空にすると、彼に訊ねた。
「お前の目的は何だ、ジョンQ?」
「世界平和。というのは冗談にしても、僕の技術がスピンオフされて大量虐殺や民族浄化――この際、奴らの火遊びをして、
アノニマは最後の唐揚げを頬張ると、野菜スープで流し込んだ。エーコはしばらく唸りながら考え込んでいるようだったが、
「私にはお前たちに対して、何の権限も無い。しかし
と言った。「なるほど対策を講じる必要がありそうだな」と、帽子屋は答えた。
やがて店員は抹茶あんみつパフェとリエージュワッフル、クロワッサンにウェット・カプチーノ。それとシュトゥルーデルとストロベリーアイスとを運んできた。
「さて、残った問題を
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