* * * * * *
「いいや、こいつも違うね」
帽子屋は独りごちた。日向有栖――いいや、『日向さくら』とでも呼ぶべきか? ――と、アノニマ・プネウマは対峙したままお互いの言葉を衝突し合う。反磁性フィールドは対象を絶命せしめる銃弾の
「やはり記憶に混濁があるね?
「ブラジルで、アポロの振りをしていた女だな?」
「僕らの
「えらく訳知り顔じゃないか、ええ?
日向アポロとは何者であったか。僕の肉親とも言える、曲りなりにね――および君こと
「いいだろう。僕自身が日向有栖だ。君が自分をアノニマ・プネウマだと思っているのと、同じくらいにね」
「くだらん」
アノニマは周囲を一瞥する。そして虚空に向かって三発を発砲。光学迷彩を着用した有栖の警護だ。その不可視光の周波数帯はアノニマのサイバネ義眼によってイメージ化され、可視化されている。続いてアノニマは臆せず日向有栖および日向さくらに歩み寄り、義肢でその襟首を掴む。
「?」
掴めない。掴んだのは一握の虚無だ。道化の有栖は変わらず背後に立ち、ピエロの化粧が笑っている。アノニマは
「振り返ってみよう。僕たちはこれまで
「何を言ってる?」
おや、と道化が笑う。その化粧はやがて
「情報共有をしていないのか? いや、それでは雌狐の意図は? 分からない。――なるほどね。知らされていないのは、君だけか」
四発目を発砲。当たらない。銃弾は逸れているのではなくすり抜けている。なるほど盲点だった。記憶の読み出しを制御されていたのではなく、初めから別の存在として独立され利用していた。その意図は恐らく、
「二発は残しておきな。僕と君自身とを撃ち抜く為に必要だから」
笑っているのは骸骨の歯並びだ(骨は肉で覆い隠されないからいつも笑っている)。アノニマは続けて二発を撃ち尽くす。銃弾は回転して
砂が爆ぜる。銃弾は標的に到達することなく落下する。懐中銃教会の信徒が何よりも恐れる事だ。自身の意味や価値を失う事。自分の生きてきた人生は何だったのか。教会は聖典を読み解きその意味を与えてくれる。しかし信仰を失った近代人は、
「
「なるほど君は、
「私は誰にも属さない。自分の意志で行動している」
「意志とは何だ? 君は数字で出来たレンズを通して世界を眺め、外的環境からの影響によって生成される、社会的制約によって抑制された脳内物質の導く結論を、意志と呼ぶのか?」
「鏡に向かって話しているようだな」
「君に僕たちは殺せない。言葉は質量を持たないから(脳内および通信)ネットワークに広く
ガラスの割れる音。反射は万華鏡となり無限のアノニマを映し出す。有栖は目前に、左手をアノニマの喉元に伸ばす。その感触は冷やりとして無機的だった。
(我々の本質は神である。言葉によってその類的本質を自己疎外し、神と呼ばれる仮象を祀り上げた。その全知と全能とは類的存在たる我らの集合知と月にまで到達する事を可能にした我々複数形の能力そのものである。
「僕たちに実体は無い。僕らは君たちが世界を認識するために
それは
(奴隷制の復活? そもそも我々は貨幣に隷属し、支配されている。その金銭を得る為の労働は人間性を疎外し、自らを奴隷の身分に貶めるものである。価値は
【耳のある者は、聞くがよい。
とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。
わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、
そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である】
獣の数字666はパピルス写本115とエフラエム写本においては616と異読され、皇帝ネロの本来のラテン語名を
1000011 1101111 1101110 1110011 1101001 1100100 1100101 1110010 100000 1101000 1100101 1110010 100000 1101110 1100001 1101101 1100101 100000 1000001 1001110 1001111 1001110 1011001 1001101 1000001 100000 1010000 1001110 1000101 1010101 1001101 1000001 100000 1100001 1110011 100000 1000111 1110010 1100101 1100101 1101011 100000 1101110 1110101 1101101 1100101 1110010 1100001 1101100 1110011 101100 100000 1100001 1101110 1100100 100000 1110100 1101000 1100101 100000 1110011 1110101 1101101 100000 1101111 1100110 100000 1110100 1101000 1101111 1110011 1100101 100000 1101001 1110011 100000 110001 111001 110001 111000 101110
【ויקרא ,αϡιη'】
54 68 6f 75 20 73 68 61 6c 74 20 6e 6f 74 20 74 61 6b 65 20 76 65 6e 67 65 61 6e 63 65 2c 20 6e 6f 72 20 62 65 61 72 20 61 6e 79 20 67 72 75 64 67 65 20 61 67 61 69 6e 73 74 20 74 68 65 20 63 68 69 6c 64 72 65 6e 20 6f 66 20 74 68 79 20 70 65 6f 70 6c 65 2c 20 62 75 74 20 74 68 6f 75 20 73 68 61 6c 74 20 6c 6f 76 65 20 74 68 79 20 6e 65 69 67 68 62 6f 75 72 20 61 73 20 74 68 79 73 65 6c 66 3a 20 49 20 61 6d 20 74 68 65 20 4c 4f 52 44 2e
指向性電磁パルス。アノニマの
「目が覚めたかい?」
馬上から帽子屋が言う。アノニマは咳き込みながら呼吸を整えて、首を絞めていたのは自らの義手だったと知る。
「あいつに遠隔で幻像を見せられながら、義手のコントロールもハックされていたのさ。荒っぽい方法ですまないが」
「……
「酸欠ってやつかい? 少し、風に当たろうか」
帽子屋は手を差し伸べると、アノニマはそれを掴んで馬の背に飛び乗る。足元にはヤズディの母親の死体が三つ、横たわっていた。
『君たちには全く付き合いきれないな』
「種を明かされた手品師の気分か? 恥をかいたな、オズの魔法使い。そろそろ終わらせることにしよう」
『何を終わらせる? 僕たちには始まりも無ければ、終わりも無い。僕らの意志は、思考は、ネットワークに散逸しており、何度でも同じ構造を繰り返せる。それによって
ネットワークに散逸した自己? ならば辿れるはずだ。アノニマは義手の
「それを以て『不老不死』って訳か? 僕はそんなことは御免だね。僕は何かを
『そう思うか? 現代人は神を殺し、資本主義経済ベースの変化と成長とを追い求める速度が自らの拠り所を失った。その場に留まりたければ、全力で走り続けなくてはならない。その結果が何かへの強烈な盲信と執着だ。それは内なる神でも、聖典でも、異教徒でも、外国人でも、金持ちでも、貧乏人でも、仇でも、血でも、過去でも、未来でも良い。みな無意味の国のアリスに飽き飽きしてるんだ。近代の歴史は自由を追い求める事でもあったが、しかし人は同時に制御・管理される事を望んでいる。肉体性の限界――人は老い、全ての人と知り合うことは出来ず、記憶とは
「『鏡に向かって話しているようだな』? だから自己を失ってでも、碇としてのアバターと構造の同一性に拘るわけか? 僕が有栖を追ってるのは、あいつには貸しがあるから、どちらかが死ぬ前に会って一発ぶん殴ってやりたいだけの話さ。そしてあいつがどんな人生を生きたかを知って、嗤ってやるのさ。ひとは幾度となく
1000011 1101111 1101110 1101110 1100101 1100011 1110100 1100101 1100100
(おや、と帽子屋が呟き、手綱を引いて馬を止めさせる)
「接続が切られたみたいだ。尻尾巻いて逃げたかな?」
「奴は既に日本入りしているようだ。移動手段を?」
「馬では無理かな。しかし
砂漠は閑散としていて空は天上へと数値化不可能に伸びている。
「そもそも、君が行く必要があるのかい? 報酬が発生するわけでもない。命令が与えられたわけでもない。上司に報告して終わりで良いんじゃないか?」
「応答がない。私の無線周波数は分かっているはずだから、何かあれば向こうから指令が下るはずだが……しかし奴らをこのままにもしておけまい」
(それも奇妙だな、と帽子屋が独り言ちる。空では鷹が忙しく旋回を続けている)
君と僕とは脳内において同一の
「何か……ノイズがちらつく」
「首を絞めだしたら僕が止めるさ。とりあえずセーフハウスに向かおう。空からの目に従って、なるたけ交戦は避けるようにするよ」
僕らの
「奴らの目的は何だ? 天皇の暗殺を謳ってはいるが、現実的に可能だとは思えない」
「具体的な手段も期日も不明。ひょっとしたら
「高出力の音響機器あたりか? 或いはそれが何にせよ材料かなにかなら、個人輸入を隠れ蓑にいくらでも輸送できそうだ」
「原材料を輸入、現地で
しかしながら、この
「しかし、お前の功績はどうなる? その技術があるとは言え、奴らの超音波兵器の開発には直接関係あるまい?」
「そこなんだよ。量子コンピュータは恐らく奴らの資金を得るための手段でしかないだろうし――奴らが僕に要求したヘリウムを基底状態および励起状態で安定させる電磁場制御の技術が、そこまで早急に必要だったのか僕には疑問なんだ」
それは安定した構造と呼ばれるものです。持続可能な開発、白人は労働奴隷を
「……電磁パルス等による
「ああ。それが?」
光あれ、と人類に光を齎したのは太陽であると言うほかない。光とはすなわち言葉です。しかしながら彼の国では聖典と言葉とは重要視されず、
しかし自然人サマがお産みなさるのはどこまでも糞ばかりだ。
「電子励起爆薬だ」
ご名答。励起状態の固体ヘリウムが基底状態に向かうとき、ガンマ線を含む放射線を放出しながら崩壊していく。励起状態で準安定化した固体ヘリウムは同じ重量のTNT換算辺り五〇〇倍以上のエネルギー……分かりやすくいえば、戦略核兵器並の威力を持っている。
【
アマテラスの子孫たる
僕らは天皇を、アマテラスの子孫を、
【惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ】 יהוה
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