* * * * * *

 村は静かに日常の営みを繰り返している。親は子を愛し(あるいは新たに生まれた遺伝子の表現形・自身と異性との間に生まれたより優れた情報交換の結果を保存し)、子もまた親に保護される(自分自身の生命や安全を保証される)事に満足を覚える。そこに言葉は無い。なぜなら親が子を保護するのは自分と同種の遺伝子を残すためだからだ。

 ヘリの飛来。アノニマは短機関銃を構える。村人たちが不安そうに空を見つめる――それから無音の波形。人間には可聴域がある。およそ二〇ヘルツから二〇キロヘルツ。可聴域から外れた音の振動を、超音波と呼ぶ。

 すぐさま、村の中で悲鳴があがる。家の内側で執り行われる殺戮行為。人は外部に敵を持たない場合、その内部に敵を求める。子という幼生は、しばしば親という成体に対し力が劣る。ゆえに通常は親によって保護されるが、同時にそれは、親によってその生命が支配されていることを意味する。

 子供たちの殺戮が終わると、今度は大人同士の殺し合いだ。普段から少なからず互いに抱いている怨み、嫉みの感情。アノニマはあくまで介入しなかった――それは彼女の任務はあくまで『赤い水銀』のサンプルの採集であったし、村人の保護や保全ではないからだ。それに、現在彼女の視覚・聴覚情報を受信は出来ても、こちらからの通信は未だ回復していない。命令を伝達する手段ニューロトランスミッタ妨害装置ジャマーによって抑制されている。

 最後の一人がただ立ち尽くして、彼は敵を見失い戸惑っているようだった。ヘリが着陸し、そこにガスマスクの人間が降り立つ――

「――アポロ。アポロ・ヒムカイ――」

アノニマは彼の姿を認識すると、そう呟いた――脳内機械インプラントは彼女の記憶野が活性化している事を示す。こちらから干渉できれば、子供兵士時代の記憶トラウマの読み出しと書き込みを阻害する措置を取れるのだが。アノニマは今不安定な情況だ。ガスマスクの男が生き残りの男に何か話しかけている――ところに、アノニマは短機関銃の銃口を向ける。止められない。アノニマは銃口を引き絞った。

 銃弾は、アポロに到達しない。奴の手前で、銃弾はすべて弾き返される。サキーネ・ペトロヴィッチ・アル=サァラブ。亡国ユーゴスラヴィア生まれのボシュニャク人。アポロの右腕リュトナン――光学迷彩を使って潜んでいたのか。彼女はキツネのお面を被り、左手には逆手に構えたマチェット。それで銃弾を弾いたのか。と、アノニマに向けて一気に駆け出してくる。飛来する銃弾を避け、時には弾きながら。

 遠くに爆発音。シェフから妨害装置の破壊を確認、と報告が入る。了解ダコー、すぐに村に向かえ。

【チャフを散布した後の君たちの電波干渉アクセスは、僕らの防諜網に引っ掛かってくれたよ】

アノニマの聴覚情報から奴の声が聞こえる。アポロ――いや、日向有栖か。奴はガスマスクを外すと、その顔を顕わにする。

「馬鹿な……お前は私が殺したはずだ、アポロ・ヒムカイ……」

【ノン、ノン。すなわち、これが『赤い水銀』さ。シロウサギから聞いたろ? 賢者の石エリクサーだって……】

――電磁波か。Cは思った。アノニマの脳内機械に電磁波によって干渉し、アポロの幻影ファントムを見せた。捕獲されたアノニマは麻酔を打たれたようだ。バイタルが低下している。

【聞こえてるだろう? ジェーン・クローディア・サンダース元中尉殿。これが、君たちの欲しがっている『赤のインクキャップ』。『赤い水銀』の原料さ】

日向有栖――アポロ・ヒムカイの後継者計画の産物か。奴は気絶しかけているアノニマをヘリに運ぶ――その時、帽子屋の陸上歩行型小型無人機が搭乗するのを確認する。そして光学迷彩を起動。――なるほど、お前もまだこのゲームから降りないという事だな?

「シェフ。アノニマは捕獲された。だが村人が残っているはずだ。その確保が最優先事項だ」

了解ダコー。シェフから短い答えが返ってきて、Cは、ふうううと一つ大きな溜め息をつく。ヘリは飛び立ったようだ。

「やるじゃないか、アリス・ヒムカイ。しかし、お陰で『赤い水銀』の仕掛けは見えてきた。――超音波だろう?」

Cは、アノニマの通信機越しに有栖に語りかける。有栖は無線機を取り、それに応える。

「ご明察。『赤のインクキャップ』は絶対寄生菌であり、宿主が生きていなければ存在できない。そして『赤のインクキャップ』は振動や波長に反応して生物発光する…………」

「生物発光? ……なるほど、お前らの狙っているのは、アノニマの脳に入っている機械インプラントと同じ仕組みプロトコルか。だがゲノム編集や遺伝子治療ジーンセラピーを行わない限り、脳でキノコが光ったところで何の意味もないぞ。人間の脳には本来、光受容機能は無いからな」

アノニマは少女兵時代のトラウマPTSD治療のために、脳に機械インプラントを埋め込んでいる。遺伝子治療によって光感受性タンパク質を脳や神経系に組み込み、その特定の記憶トラウマ想起シナプス結合された際、インプラントがそのシナプス結合を光信号――脳言語の明滅によって阻害する。よってその記憶は想起されない。記憶は思い出すたび改変され、構築し直デコンストラクションされる。その改変された記憶を書き込まれないようにする事によって、トラウマを克服するものだ。

「まぁ、それはそうだね。だけど君はこの村の文化を知らない。中尉殿には義理があるから教えてあげよう――どうせ今さら、止めようもないしね――『赤い水銀』は、『赤のインクキャップ』と特定のレトロウィルスによって成立するものなのさ。言わば、人間の白紙の脳タブラ・ラサに書き込むペンとインクのように……」

人間の脳の光受容機能をオンにするレトロウィルスを用いたか。やはりな。中間層に蔓延している麻薬は『赤のインクキャップ』。そして鉄道の交通網などで散布されたウィルスはそのレトロウィルスか。かつてのオウム真理教のように…………。

「ここの村人――彼らは複雑な言語体系を持たない。ブラジルはそもそも自然放射線が多いことで知られているが――ラジウムの娘核種や近隣のコバルト鉱山から放出されるガンマ線が、彼らの遺伝子に変異をもたらしたと思われる。生殖細胞は放射線に敏感だからね」

その変異した遺伝子の形質を、他の人類にも適用するわけだな。ゲノム編集でなくウィルスを用いた遺伝子治療に拘るのは、規模や拡散のしやすさの為か。媒介は空気感染エアロゾル――或いはモスキート、か?

「彼らの声帯は我々のものより発達し高周波を出す。それはいわゆる人類ホモ・サピエンスの可聴域を超えるものだ。二五から五〇キロヘルツくらいかな――ともかく、彼らはそのくらいの音域で会話している。彼らの作る楽器も超音波の音域で奏でるものだ――だが、子供の頃は聞こえていた音が、大人になると可聴域が狭くなる。他の人類と同じようにね。それを補填するために彼らは、『赤のインクキャップ』を脳に寄生させ、脳が直接超音波の振動を解するようにする。成人の儀式イニシエーションとしてね。彼らの遺伝子はそのように改変され、外部のツールを利用して意思疎通を保っている――それを経ない個体は言わば共通語を失くし、コミュニケーションを断たれ、やがて死に至る。孤独なウサギが死んでしまうようにね。――言語とは人間の本来である、言語を持たない人間は居ない。人はそれによって内面を表現するし、また繋がりを持って社会を構築する。音声言語は、人間の肉体性に由来するものである。僕らは僕らの肉体性に制限されながら、そのように発展したし、彼らはそのように進化ないし適応したというワケ。僕が着目したのは、彼らの『言語』が言葉を介さずに脳に直接作用するという点だよ」

なるほど。人類の共通語リングヮ・フランカである脳言語を介して、神経伝達物質を誘導、負の感情を増幅エンハンスメントさせる装置というわけだ。それなら、多種多様な言語の壁を乗り越えられる。ゆえに、繋がる為の思想も宗教も言語も最早必要ではない。そこにあるのは暴動と虐殺の言語というわけか。

「僕らは資金の運用に仮想通貨オルトコインを採用している。その【財布】として、サヴァン症候群の患者を利用している事は君も知っている通りさ。だが、彼らは選ばれて拉致されたのではない。僕らによってのさ。……精神病は、単一の病気の異なる表現形であるとする説がある。驚愕反応抑制現象プレパルス・インヒビションの機能障害は多くの神経精神疾患に見られ、例えばそれはFABP7というタンパク質と関与している。自閉症にはFABP7の発現を誘導するPAX6遺伝子の一塩基変異多型SNPが見られ、加えてNOTCH4――NOTCHシグナル伝達経路や、SULT6B1なども統合失調症スキゾフレニアの要因として特定されている。それらはFABP7の転写因子でもあるしね……」

中国のゲノム編集技術か。香港の『シロウサギ』が関わっていたのはこの辺りか。奴らは中国からその技術を盗用し、香港や北朝鮮でその研究を進めていたのだろう。

「人はどうして薬物を摂取する? 煙草ニコチン大麻カンナビノイド、それにカフェインを? それらは単なる逃避にとどまらず、薬理的に神経系に作用する。実際、プレパルス・インヒビジョンPPIも強化され改善するのさ。言いかえれば、クスリをやってる間だけは正気を保てるってワケ。注意欠陥・多動障害ADHDに煙草が効くって言うだろ?」

それがお前たちの正当化の名目か。【人類を治療する】。奪うのではなく、与える。人類に普遍カトリックで共通の『言語』を。

「僕らは十四万四〇〇〇の、純潔で純粋Unaffected異性と交わった事のない独身者・不能者・去勢者の【虹の戦士】。イエス・キリストだって不能だったのさ。僕らはもはや、恐怖によって人民を統治する恐怖主義者テロリストではない。僕らは既に、彼らに脳言語を与え、それによって彼らの感情を制御コントロールできるのだから。【というのは、母の胎内から独身者に生まれついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい】。マタイ伝一九章一二節」

去勢派スコプツィか?」

「去勢こそが人間の言語活動の始まりだよ。自分の全能感を否定された時、人は不在を埋めようと言葉尻に拘泥するのだから」

 さて、と日向有栖は呟いた。

「そろそろお別れ、かな? 既に君たちの防空網にも検知されただろうが、爆撃機が接近中だ。ナパーム弾を積んでね。君たちは『赤のインクキャップ』のサンプルを採取できずに、任務失敗に終わるワケ。そうしたらもう対策も出来ないだろう――無実の人間の頭を切り開かない限りね」

Cは有栖の言葉を無視した。

「――シェフ。到着したか?」

「はい。村人もトランキライザーで鎮静化、確保しました。成人男性と、隠れていた子供のペアです」

「いいぞ。回収用バルーンを膨らませろ、フルトンで回収する」

了解ダコー

爆撃機が接近する。有栖も膨らむ気球を見て、子供のようにはしゃいで言った。

「『ロックバルーンは99』? ――いいね、石器時代に戻してやれ!」

回収機が気球をキャッチし、ワイヤーが引っ張られ、シェフと彼に抱きかかえられた村人は空に消える。その背後で、熱帯雨林の一角が焼き尽くされる。かつてそこに存在した人間や、生物群の痕跡を全て消し去るように。

 密林では炎が燃えている。火は、言語と共に、人類の最初の発明だ。それは寄生虫を焼き尽くす為に利用された殺虫剤ペスティサイドだ。しかし薬剤に耐性を持った虹色の蝶はいま、この瘴気ミアスマに満ちた世界の空を悠々と飛び回っており――『赤のインクキャップ』と呼ばれる子実体は、濃い血液のように紅く、紅く溶け出リクヮデイションしている。

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