遺傳;或いは奏でない音楽と表記不可能な言語体系について

二〇一九年 ブラジル 熱帯雨林アマゾン上空 高度三万フィート


 キューバの租借地グアンタナモから飛び立ったステルス機から、アノニマは落下する。高高度降下低高度開傘HALO。スーツはムササビのような飛膜をしており、揚力を発生させ加速を促す。GPS座標を確認しながら、密林の中の特定の座標に向かい滑空する。Cから通信が入る。

「今回の任務は、『赤い水銀レッド・マーキュリー』のサンプルの採取。『司教』を尋問にかけ、今までの情報を総合すると、奴の『懐中銃教会』では信徒を薬物によって洗脳ブレインウォッシュしている。その際に使用されるのが『赤い水銀』と呼ばれる研究、そして新種の麻薬だ」

CIAカンパニーのMKウルトラ計画とは別口か? LSDアシッドによって変性意識状態に誘導、また超音波ウルトラソニックも利用して、記憶の改竄や精神操作マインドコントロールを促す……」

「半世紀以上も前の話だよ。物理的な資料が全てだった時代さ。それもほとんど灰になったし、関係は薄いだろう。『司教』によれば、『赤い水銀』は根本のメソッドが異なるそうだ」

「去年のテキサスでのハッキング事件、そして暴動……一般大衆を大規模に扇動できるとなれば、その影響力は計り知れない…………奴の自白に信憑性はあるのか?」

「私が直接尋問したんだ。その点は保証しよう」

「サディストめ……」

 パラシュートを展開。減速。ハンドルを操作し落下地点を微調整する。足下に広がるのは未開拓の原生林だ。

「シェフはギアナ経由で現地入りしている。まずは彼と合流しろ」

了解ダコー

アノニマは国籍を持たない。ゆえにその身分が保障される事は無い。わざわざ領空外から滑空、国境を越えて降下するのはそのためだ。木々の合間を縫って、着地。パラシュートを回収すると、降下用装備を収納する。目立った痕跡を残さない事がこの部隊の基本だ。

「香港から発った貨物船は日本に到着した。請負人は蛇頭スネークヘッドの下部組織。当局が捕えたが、船員は貨物の内容を知らされていなかった。いま、日本の潜伏員モールが追跡している。その中身は未だ不明だ」

「エコー分隊だな」

「日系フランス人だ。フランスの諜報学校チャームスクールを卒業、だから彼女はネイティブの日本人とほとんど変わらない。日本人にとって西洋人ハーフの顔つきは若く見えるから、普段は高校二年生十七歳を演じている。もう何年もな」

「恐ろしい話だ」

「お前より年上だよ、アノニマ。日本人は化粧が上手いからな」

「わざわざ、学生として潜伏させる理由が分からないな」

「転校によって拠点を移すことが容易だからさ。未成年の女子というのは地位が高いイニシアチブがあるんだ。――二年前に通った法案を覚えているか? 日本は過労死karoshiで有名だが、四年前のクリスマスに過労から自殺に至った若い女子社員によって、それまで青天井だった月当たりの残業時間が一〇〇時間を越えてはならない事となった。それまで多くの男性労働者が同じように過労死していたにも関わらず、だ。男よりも若い女のほうに価値があるという事だな。だから余計な身体検査ボディ・チェックもセクシャル・ハラスメントだの放言して、免れやすい武器の携帯が比較的容易だし、逆にハニートラップの際も箔が付く。クアラルンプールで金正男を暗殺したベトナムのネットアイドルのようにな。男は勝手に媚態コケットリーを読み込むから、不文律の宗教的貞操観により、そういった男性性の地位は著しく低い。それに周囲の、将来的な有権者の思考パターンや政治的傾向を掴む事も、重要な情報だからな」

「無駄骨に終わりそうだ。日本の法だとか民主主義は、元から機能していないんだろう?」

「それはうちだって同じさ……お前もそういう任務が良かったか?」

「遠慮する。男に媚びるより汚れ仕事ウェット・ワークの方がいくらかマシだ」

オオアリクイが蟻塚から無数のアリを食んでいる。日本の沖縄から米軍の一部が台湾に移転し、東アジアの防衛拠点は緩やかに日本から台湾に移りつつある。それは韓国も同じで、米軍の保護が薄れ、より自衛戦力を欲した為に、その正当化の口実たりうる自作自演の悲劇テロを起こそうとまでした。我々に必要なのは、民意の統制である。そしてそれは完成しつつある。

 第四五代合衆国大統領が『二つの中国』論を採用してから、米中関係は緊張状態にある。他方、特にシリア内戦を中心とする中東問題はロシアとトルコにアウトソーシングされ、米軍は表立った展開をしなくなった。しかし米国の各機関は中東に広く分布するクルド人勢力を代理戦争のポーンとして利用している。長年少数派として彼ら・彼女らとの問題を抱えるトルコ政府や、アサド政権を支援するロシアにとってクルドはテロリストと変わりないが、クルドとトルコ・ロシア両国は構造的には共同戦線を張り、イラク・シリア両国に跨って展開していたイスラム国ISILの勢力をシリア砂漠とレバノンの一部に追いやる事に成功した。だがISILとは地政学の文脈ではなく、むしろ思想やネットワークとして語られるべきであり、それはアル=カイダと同様、世界中のイスラム過激派や行き場のない若者の怒りと共鳴して、己が中に緑園の幸福を約束するものである。

 日向有栖の組織『匿名兵士による平和維持機構APO』は、アポロ・ヒムカイの率いた『新日本赤軍NJRA』がそうであったように、そのネットワーク拠点ハブを繋ぐ伝達者・運び屋ベクターとして機能するものである。つまり、彼らはむしろ単一の狭い宗教や思想を持たない。彼らが標榜するのは個人主義的無政府主義アナキズムもう一つの世界主義アルテルモンディアリスムといった、むしろ総合的なものであり、ゆえに宗教過激派やテロ組織、麻薬カルテルたちと逆立しない。己が機械として機能する事で、むしろその総合的な思想を伝播し、無意識に拡散する。それは黴に巣食われるように、伝達先の脳へと侵食・寄生していく。それは武器兵器、糧食、インターネット回線、サーバー、情報技術、多言語話者Interpreterの提供と輸送によって……彼らがイスラム過激派と多く接触を持つのは、それが既存の西洋社会へのカウンターとして都合がよいからだ。それはキリスト教国家の規定する【真実】や【正しさ】を、瓦解させることによって達成される。それは学問であったり、法体系や世界秩序ワールドオーダーそのものである。それらを解体することによって、もう一つの世界アルテルモンドは達成されると彼らは思想している。

 二〇一六年のリオデジャネイロ五輪の際、ISILはポルトガル語話者をリクルートしたが、結局は国内から発生したホーム・グロウンの容疑者一〇人が逮捕される事で事態は収束した。しかしそれはISILとAPO側による陽動作戦フェイント・オペレーションに過ぎず、本来の目的はこの熱帯雨林アマゾン奥地に自生する『赤い水銀』の採取と研究調査であった。

「『赤い水銀』と呼ばれる菌類は鼻腔から入ると嗅神経に寄生、前頭葉下部まで侵襲、深在性真菌症を引き起こす。だがその真菌は致命には至らず、日和見感染症に留まる。症状としては、頭痛、微熱、多少の混乱、記憶自意識の混濁……その程度だ」

「それだけで暴動を引き起こせるとは思わないな。奴らの論理が大衆の共感を呼ぶとも思えん」

「既に大都市の鉄道網などで散布され、蔓延しているとの報告もある。薬物として鼻腔から吸引しても、同様に寄生される。空気感染の危険性がある。接触の際は防護マスクの装着を忘れるな」

了解ダコー

アノニマは義手で装備を確認する。五・七ミリ口径ARファイブセブン簡易狙撃銃を組み立てると、薬莢受けを装着。初弾を装填して安全装置をかける。そして無線を繋ぐ。

「――シェフ。合流地点point de rendez-vousを示してくれ。…………」

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