黒く塗れ

二〇一八年 合衆国 テキサス州 エル・パソ


「よく戻ってくれた、アノニマ」

 Cが呟く。無線通信はオンラインだ。アノニマは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、答える。

「止せ。たまの休暇中に突然呼び出されて機嫌のいい人間なんていない」

「犬たちはどうしてる? 確か、ノーザン・イヌイットだったか?」

「ウトナーガンだ。六頭飼っている。普段はサマンサに預けているから、私の匂いを忘れられないか心配だが」

ノーザン・イヌイットとウトナーガンは共に、兄弟種である。ノーザン・イヌイット・ドッグは最初に作られた犬種で、人気を博したが、利益を目的とするブリーダーのために乱繁殖が為され、犬質が低下した。そこで犬質を守るために独自改良して生み出されたのが、ウトナーガンという犬種だ。

「休暇なんてあってないようなものさ。私だってうちのサモエドとレトリバーにしばらく会っていないんだ」

「前に葬式をしたんじゃなかったか?」

「子供が生まれたのさ」

「去勢してなかったのか?」

「うまく躾けて飼い慣らせばapprivoiser去勢は要らないよ。病気にもなりやすくなるそうだしな。管理と訓練の問題さ」

「それと病院にかかる金だろう。富裕層エスタブリッシュメントの発想だな」

「交換価値を多く持つものが生き残り、つがい、子孫を残す。それは人間も同じ事だと思うがね」

「…………私を呼び付けたのは、犬と経済の話をする為なのか?」

「もちろん、違う。我々はこれから……『キツネ』を狩りに行く」

アノニマはその符牒を知っていた。

「裏切り者の始末か」

 エル・パソの街並みはアメリカというよりもメキシコに近い。国境沿いのリオ・ブラーボ河以南はチワワ州のシウダー・フアレスであり、住民も多くがスペイン語を話している。ひと際目立つのが、近年足を伸ばしてきた多国籍企業MNCのビル群だ。彼らは人材派遣会社。政権交代以降、厳しくなったはずの国境を不法移民たちを、労働力として国中に斡旋している。新自由主義グローバリズムが失敗に終わり、米国を筆頭とする各先進国が保護経済へと移行する中、法人は徒党を組んで権益を守っている。そこで取引されるのは、自衛戦力である民間軍事警備会社PMSCsや不法移民といった『労働者プロレタリアート』たちだ。

「ああ。ネイション・オブ・イスラムNOIは知っているな?」

「白人への同化運動を拒否する黒人の分離主義団体だな。マルコムXが所属していた……」

「彼の暗殺後、組織は穏健化していったが、一方でブラックパンサー党を始め、過激派思想を引き継ぐものも出た。その一つである『マーティン・ディレーニーのイスラム連合Martin Delany's Muslim Association』に、現在シェフが二重スパイとして潜入している」

「彼が反乱を?」

「いいや。メキシコのシウダー・フアレスに『犯された女の子供たち』というカルテルがある。それは『イスラム連合MDMA』と通じる我々のモールだったのだが、少し前から報告を寄越さなくなった。そこでシェフが調査したところ、商品である薬物に手を出してから動向がおかしくなっている、との事だ」

「その麻薬はメキシコのカルテルから『イスラム連合』を経由して合衆国に流れているわけだな」

「その通りだ。主に中間層に蔓延している。…………一昨年の政権交代によってインテリ・PCポリティカル・コレクトネス層からの強い反発が起きた。それに乗じた――いやある意味では対抗した、ブラック・ナショナリズムが中西部で再興しつつある」

「イスラム圏とのコネクションは?」

「宗教思想的には似通っている。だが晩年にメッカに巡礼し思想を穏健化したマルコムXとは異なり、人種という層で対立している。アラブ人は人種的には白人コーカソイドに分類されるからな。あくまで利害関係の一致する面での連動という訳だ」

「利害……ふん、結局は金か。拝金主義だって立派な思想だ」

「MDMAはハッカー集団だ。主に、思想の繋がりによる幸福エンタクトゲンを提唱している。それはあくまで黒人内、仲間内に限定されるがな」

「だから、MDMAメチレンジオキシメタンフェタミン? それで今回のターゲットは」

Cは一瞬だけ息を呑んだ。それから答えた。

「『犯された女の子供たち』のリーダー。奴が『キツネ』だ」

了解ダコー。他にはあるか?」

「シェフが狙撃の準備を整えてくれているはずだ。まずは指定されたビルへ向かえ。――武器は持っているか?」

「ナイフがいくつか。それと私物の回転式リヴォルバーが一挺だけ」

S&Wスミス・アンド・ウェッソン社製MP412。ロシアのイジェメック社によって開発されたポリマーフレーム製中折れ式ブレイクアクションマグナム・リヴォルバー。米国のS&W社がOEM製造する事で、クリントン=エリツィン政権時に締結されたロシア製火器の輸出入を禁止する条約を回避する形で発売された。アノニマの使用するモデルはハンマー・シュラウドと二・五インチの短銃身に加え、MEDUSAメデューサ M47に似た弾倉シリンダーを備え、幅広い九ミリ弾薬を装填可能になっている。トリガーとハンマー・メカニズムはS&Wのアクションが採用されており、ダブルアクションでもスムースな引き心地を実現している。アノニマは、これを『スカベンジャー』と呼んだ。

「そうか。交戦の可能性は低いが、その際は自力で対処しろ」

「ああ。慣れっこだ」

アノニマは通信を終えると、スマートフォンから地図を開いて目標地点を確認する。昔は日の沈む方角を目指して馬を駆らせたものだ。だが今は違う。目的は与えられ、速度は増し続け、管理された銃で殺す。それはテロ組織も同様で、目的を与え、管理し、経営する。恐怖テロルは手段と化し、薬物によって条件付けは強化され、それぞれが唯一つの思想を遂行する。それは平和と呼ばれたり、あるいは革命運動ないし聖戦ジハードと呼ばれる。

「平和という幻想スーパーストラクチャもまた、一つのイデオロギーに過ぎないな」

アノニマは珍しく感傷的に、そのように思った。

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