* * * * * *

 腐ったリンゴが蛆虫の苗床になっている。それは仄かに温かい。隣には手斧ハチェットが黴臭い木製の机に柄を平行に突き立てられている。

 遠くに話し声がする。天使のような少年の声カストラートだ。それは海底の閉鎖空間に反響して、覚醒しつつある脳味噌にぼんやりと響く。

「――……シロウサギかい? ボクだけど。そう、香港ではうまくやっているかな? ――ああ、いいね、上々だね。うん、うん……ああ、『司教』からのの供給は途絶えない。性能は以前よりも確実性を増している。……そう、『赤い水銀』の初期実験を兼ねて…………ミサワベースの動きは無い。ここを表立って攻撃することは無いだろう……国際問題になる。大規模な行動において、法を超越できない事が奴らの弱点さ…………ああ、目が覚めたみたいだね」

後ろ手に縛られている。足は椅子に固定されている。電話は切られ、被せられていた麻袋が取られる。

「やあ、君に会いたかったよ、アノニマ・プネウマ。随分長い事、眠ってたんだぜ。君は、ボクのアポロを殺したんだろう? 七年前、二〇一一年九月一一日…………覚えているかな? だけど、ふむ……思っていたのと、少し違うみたいだ」

「……誰だ、お前は……」

アノニマが訊ねると、ああ、と呟いて目の前の少年が言った。

「ボクの名前は日向有栖ひむかいありす。『匿名兵士による平和維持機構Organizo de Anonimaj Pactrupoj』の第一の人員プリンケプス以後よろしくenchanté de vous rencontrer。とても短い期間だろうけど」

それはエスペラント語だ。アリスはニコニコ笑っていた。それは感情を晒さないための防具だ。黒檀のように艶やかで長い髪。救世主キリストのように造花の冠を付けていた。純白のワンピースを身に付け、赤のピンヒールを履いている。左腕にはハートマークとピースマーク、それから二つのAを組み合わせた蝶の図柄が刺青されていた。

「アリス……ヒムカイ……一九六一年一〇月三〇日生まれ……性別は男。生まれてすぐ母親によって去勢カストラートされている。フランス人、ベトナム人、朝鮮人日本兵の血が流れている……サイゴン陥落後、ボート・ピープルの一団に紛れ香港に脱出。九龍城に身を隠し……その後の消息は不明…………だがもう齢六〇近い爺のはずだ」

「ノン、ノン。歳は重ねるものじゃない。振り返ってみて初めて、自分が老いたと錯覚するのさ。僕らは振り返らないし、未来ばかりを夢見てる。僕たちは、走り続けなければ留まることすらできない」

「だから九才児のまま成長が止まっているのか?」

「その口の聞き方。アポロが気に入るわけだ。 だけどボクは――」

アリスは手斧をリンゴに振り下ろす。柔らかい果肉は飛散して蛆虫は行き場を失くす。

「餓鬼じゃない。それに爺でも、まして男でもない。分かるかな? そういう選択をしたってことだ」

アリスはヒールの踵を返して話を続ける。

「『財布』はここには居ない。遍在ユビキタスしていると言っていいだろう。ここにあるのは、彼らとの符牒化された接続を保証する孤立したネットワーク……それは深層ウェブのそれと同じように、アクセスされたときのみ動的に存在する。そして君たちは、ボクの蒔いた餌に引っかかった哀れなネズミ、ってとこさ」

「…………よくも、全容をペラペラと喋ってくれるものだ。立場が逆じゃないのか?」

アリスは長い髪をなびかせながら振り返る。笑顔はその表面つらに張り付いている。

「いいや、全容なんかじゃないさ。僕らは断片からのみ成り立っている。実際、どこから話したものか、どこまで話したものやら…………それに、そもそも、工作員の君から情報なんて、たかが知れているだろ?」

アノニマはツールを静かに取り出すと、後ろ手に手錠をピッキングする。アリスはそれに気付かず、小瓶を一つ取り出して続ける。

「これはヒトヨタケの一種。僕らは『赤のインクキャップ』と呼んでいる。赤い子実体はインク状に溶けると胞子を放出し、それは鼻腔から大脳辺縁系に寄生すると、しかし致命的な真菌症には至らず、神経伝達物質の作用によって――人間を少しだけにさせる。動物の部分が強く表出するようになる……あるいは人格・記憶障害や、変性意識トランス状態にすら陥らせる」

「クリプトコッカス性髄膜炎か?」

「焦るなよ。ここからがミソなんだから……」

アノニマは手錠を外す。まだ気付かれていないが、距離が遠い。アリスから見えない位置で、手錠をカランビットナイフのように握る。

「確かに、このキノコの感染は日和見感染に過ぎない。免疫の落ちた人間にしか作用しないような、微々たるものだ。しかし面白いのは、これが刺激に対して生物発光する菌でもあることだ」

「……ファイアフライのような生物発光……」

「求愛行動だね。あるいは伝達コミュニケーションか、それとも捕食のための誘引か…………ところで、君の脳を調べたよ。大量の脳内機械インプラント……そして遺伝子治療ジーンセラピー――いやむしろ、ゲノム編集かな? いずれにせよ、それらによって光受容タンパク質を遺伝子に埋め込み、記憶の消去・改変・編集を可能にする技術。脳言語を介した…………」

「――大規模な洗脳。それがお前たちの計画か」

アリスは鼻で笑うと、アノニマに顔を近付けて呟く。その笑みは三日月が光を失くしたようだ。

「分かってないな。これは計画じゃない。んだ」

目の前の少年を掌底で張り飛ばす。椅子にくくりつけられた縄を解くと、受け身を取った少年に馬乗りになって、首元に手錠の先端を突き付ける。

「おっと。動かない方が身のためだぜ」

周囲の足音。消されていた気配。そして向けられた銃口。それは見えない光の部隊だ。周囲の光を歪める光学迷彩は、それと認識できなければ人間だと気付く事は難しい。

「だがまだ不明な点がある。振動に対する発光パターンの制御と、光を介した脳言語の具体的な構造…………ボクはそれが知りたい。そこで、君の出番ってワケさ」

アノニマは光の部隊に再び拘束されると、血液が採取される。アリスは鼻血を拭き取ると、独り言のように呟いた。

「中国ではゲノム編集の技術が確立されつつあるが、それはボクの計画の規模には合わないんだ。カニクイザルの実験では『赤のインクキャップ』の寄生、レトロウィルスの空気感染と遺伝子改変まではうまく行ったが、結局人間側の言語と記憶の生成プロセスが不明確なところがあり……より研究の精度を高めるために、奴らの成果たるを使わせてもらう事にしよう」

「レトロウィルスを介した遺伝子治療は未だに課題が多い。大規模なものになるほど失敗は多くなるはずだ」

「んん……別に、それでも構わないよ。あいつらが内部から改変され、恐怖し、崩壊する様を、ボクは眺めていたいだけなんだから。…………人間は、科学技術と社会制度によって自らを高度に疎外しすぎた。少しばかり、自然な状態に戻る必要があるのさ」

「暴力のない平和はない。管理されない平和はない」

アリスは少し呆れたように長く細い溜息を吐いた。そして言った。

「――……『これらの事をあなた方に話したのは、私によって平和を得るためである。あなた方は、この世で悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている』……――君は、歩く影だ。君は自分がどこから来て、何を為すべきか、覚えているかな?」

救世主気取りメサイアコンプレックスか?」

「まさか。だよ。ボクはこれから君たちに統一された思想と言語とを与えるのだから」

それは暴力である。神に近づこうとバベルの塔を築いた人間たちは、ヤルダバオートの怒りに触れ言葉を分かたれた。なるほど彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。彼らは既に事を成し始めている。そして恐らく、やり遂げるであろう。ならば我々は下り、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに理解できなくなるように。

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