赤の女王
主体一〇七年 朝鮮民主主義人民共和国付近海域
海水から上がって梯子を昇る。女は
「
「感度良好だ。見張りの姿はない」
ミハイル・ヴラジーミロヴィチ・メドヴェージェフは答えた。彼はロシア支部のКорпорация Логосから派遣されている。髭をたくわえた、いかつい熊のような男だ。八端十字架やマリアを象徴する白百合などがあしらわれた右腕の刺青には«Я» — последняя буква в алфавите. と彫られている。
「――こちらC。アノニマ、聞こえるか?」
アノニマと呼ばれた女は本部からの無線に答えた。
「ああ、…………問題ない」
アノニマはチェコ製九ミリ口径自動拳銃を装填した。装弾数は十九発。それをホルスターに収めると、防水のバックパックからポリマー製スコーピオンEVO短機関銃を組み立てて、負い紐で吊った。そのどちらにも
「奴らは
「『財布』は複数あるはずだ」
「もちろん、そうだろう。可能な限り
「
アノニマは周囲を見渡す。ライトが点灯しており、
「朝鮮海域で石油が採れるのか?」
アノニマが尋ねると、ミーシャが割って入った。
「石油有機成因論は西側の方便だろ? こいつら、うちの超深度採掘技術を盗用しているようだ。石油なんて、掘るだけ掘ればどこでも出るもんさ。中東の砂漠でも、尖閣諸島であってもな。問題は、何処、を資源の宝庫と設定して争いの火種とするか。冷戦期のような安定した緊張状態が求められるのさ」
心拍センサーが反応を示している。アノニマはゆっくりと水密扉を開ける。耳に入るのは猿の喚き声だ。アノニマは銃を下ろした。その他の実験動物たちを除いて、生物の影は無い。
「アカゲザルにカニクイザル、コリー犬、
「敵の警備は好きにして構わない。その基地は北朝鮮とイスラム国が共同で建設したものだ。人員も傭兵だろう」
「だが研究員の姿すら見えない。休業日か? ミーシャ、そっちはどうだ?」
少し間があってミーシャが応答する。
「ああ。心拍に反応があったが、それはここの子供たちのもののようだ――多くは除脳されて機器に繋がれている」
「人体実験か?」
「そのようだ。アジア系が多いな。自国民か? 少年少女が七人ずつ。今、資料を探っている……なるほど。棄てられた奇形児、重度の薬物中毒の母親から生まれた死ぬ運命にある子供、
「実験の内容は?」
Cが訊いた。ミーシャは答えた。
「脳外科、洗脳、ゲシュタルト心理学……色々だ。そちらさんの、MKウルトラ計画なども基になっているようだ」
「追証実験か?」
「新規性は少ない。それに、奴らが人体実験をしているのも、今に始まったことじゃない。他にも何かあるはずだ……」
だが法を犯しているのはこちらも同じだ。違法な捜査で得た情報は対テロ戦争への口火とはならない――むしろ、表沙汰にならないうちに全面戦争やテロ事件を事前に回避すること。それこそが現代の
どこからか水滴が垂れる。空気は淀んで張り詰めている。換気装置が回転している。大気は音に満ちている――機械の咆哮。上部構造では石油が汲み上げられている。いずれ燃やされる為に。
連絡橋に差し掛かる。アノニマはミーシャと合流する。二人は銃を下ろす。低い声で会話を始める。
「――『財布』は?」「どこにも居ない」
「連れ出されたか?」「こちらの動きが漏れている?」
「敵の姿を見たか?」「いいや、誰も」
「だがセンサーは?」「……囲まれている」
――罠だ! 音もなく電撃が走る。テイザー銃だ。プロビデンスの目、監視カメラ。その外殻は光学迷彩によって不可視化されている。
姿の無い重みが麻痺する二人を取り押さえる。それはいわば影の部隊ならぬ光の部隊だ。アクティブ光学迷彩は歪めたアノニマをその表面に映し出す。首筋に針。薄れゆく意識のなかで、少年のような声が無邪気に話すのが確かに聞こえた。
(……やあ、やあ。
――……そこで蛇が女に言った。あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べる事で、あなたがたの目を覚まし、神と同じように、善と悪とを知る事を神は知っておられるのです……――
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