白いカラス/その飼育

二〇一九年 香港 九龍半島 環球貿易廣場ワールドトレードセンター付近 旧正月


 天上からとめどなく降り注ぐ雨粒に逆らうように、盛んに花火が昇っては消える。ガラス張りの高層ビル群に色とりどりの炎色反応が反射して、更にその反射光をヴィクトリア湾は映し出している。

 ヘリポートを備えた高層ビルから、ロープ伝いにラペリングしている影がある。それは周囲に光学的・熱的に同化する熱適応迷彩服を身に付け、カメレオンのように表層の色彩を自在に変化させ、また赤外線からの検知をも難しくしている。刈り上げられた深いブラウンのショート・ヘアが、しっとりと濡れて水滴しずくを垂らす。

 アノニマは白く息を吐いた。遥か眼下の地上では警察の無人偵察機が巡回している。航空法によってその高度が制限されているため、ビル内部の警戒は厳重だが反面、からの侵入は難しくない。見上げると屋上には航空障害灯の明滅があり、眼下では様々な店が『Welcome歡迎光臨』『好吃的食物』『益智藥Nootropics/提高你的功能』『隨著整容手術、獲得更多的美麗』『最廉價的免稅商店』といった看板をネオンで光らせている。雨粒の流れ落ちるビルのモニタでは平面的に映し出されたロシア系アメリカ人ピアニストがインタビューに英語で答え、その意味内容が字幕で示される。

『私は、クラシック音楽の演奏とは楽譜からの翻訳作業だと思っています。――いいえ、実際の演奏はリアルタイムなので、通訳Interpretと言った方が適当かもしれませんが……そうですね。変換と言ってしまうとデジタルすぎますし……音符や記号を拾って、それらを楽器によって音として出力する作業、これが音楽です。個人には様々な物の見方がありますから、その出力の形も異なります。言語によって、単語の示す価値はんいが異なるのと、似ていますね。それはフィルタと言ってもいいでしょう。それを通して出力されたもの。だから、古典の繰り返しにはそういう意味があると思うんです』

彼女はその白髪を指で手繰りながらそう答えた。アノニマは(サピア=ウォーフの仮説か)とだけ思った。言語の構造によって人間の思考は規定されてくる。画面中のピアニストは周囲の喧騒を意に介さず厳かに演奏を始める。その曲はリスト/パガニーニの『ラ・カンパネルラ』。高いピアノの音は雨音と混じってやがて溶け合う。

 哨戒ヘリコプターが雨粒を照らす。熱源を探知する赤外線カメラだ。その眼にアノニマの熱は映らない。踵を返すようにしてヘリが飛び去る。Cから通信が入った。

「『司教』の端末を解析した結果、彼らも一枚岩とは言い難い事が分かった。イスラム過激派――特にISILは、コーランの第九章第五節や第二九節を根拠として、異教徒・多神教徒を殺す事を良しとしている。彼らの母体組織たるクメール・ルージュの残党も、『司教』の率いるガンチャーチも、言ってしまえば異教徒だ。表面上は協力関係を築きながら、三つ巴の睨み合いを続けている」

「哨戒ヘリは過激派ネットワークの警備会社のものか?」

「その通りだ。現在、そのビルでは美術品のオークションが行われている。フランスから流れたピカソの『アルジェの女』が今回の目玉だそうだ。それ以外にも美術史的に重要な絵画や彫刻などが出品されているようだ」

「盗品を売り捌く事で資金洗浄を兼ねつつ資金源にしているわけか」

「ロシアの強盗団とも繋がりがあるらしい。イングランドがEUから駆け足で脱退して数年……世界は次々と孤立し、各々の権益を守ろうとしている」

「だがテロや犯罪組織は逆に結び付きを強めている……社会集団から疎外された者たちの集まりか……」

ホテル階層の洗濯室ランドリーから靄が立っている。回転運動を繰り返す機械音だ。アノニマは窓掃除用のゴンドラの上に降り立った。先んじてハッキングしたクレーンによって下ろされたものだ。そこに新たな命綱を括り付け、再び移動を開始する。

「今回の任務は、ホテルに軟禁されている『白いカラス』との接触、彼の回収、可能な限りの情報収集……」

「『白いカラス』? 何者だ」

「界隈では有名な銃器技師だ。元はベトナム人だったが、八〇年代に労働協定を結んだ東ドイツへと移り住み、大学で学んだ後、各地を転々としていたようだ。銃器に限らず、様々なガジェットの開発にも明るく、うちも何度か世話になっている。お前の使っている電子消音器eサイレンサーや超指向性電磁パルスEMP発生装置なども、彼の基礎技術によるものだ」

「大した男じゃないか。なぜ軟禁を?」

「優秀すぎたからだ。彼の活躍は周囲や当時の国家保安省シュタージの反感を買い――密告を受け西側へと亡命した。そこからロンドン経由で返還前の香港へ逃亡……。それからは国や組織に嫌気が差したのか、フリーランスで活動していたようだが……今回の場合、彼の技術を独占しようとした過激派組織によるものだろうな」

「『赤い水銀』とも何か関係が?」

「分からん。それを調べるのがお前の仕事だ。……存在を消された『白いカラスヴァイセ・ラーベ』……それが彼の二つ名だ」

 アノニマは洗濯室の換気システムからビル内部に侵入する。敵の姿はない。目立ったセンサーも無いようだ。監視カメラの死角を縫うように渡りながら、廊下の様子を伺う。司会による数字のカウントダウンがあり、0になると同時に短い破裂音が続く。撮影用とも監視用ともつかないドローンがあちこちを飛び回っており――私服の上に防弾着プレートキャリアを身に付けたたちが巡回している。ヨーロッパ製のG36CV2(トラニオン周辺の熱問題を改修した型)にVHS‐2突撃銃、中東製ヴルサン散弾銃、カラカル・ピストル……現代の先進国の銃規制では、主に輸出用の銃に関してのみスマート・ガンのシステムを付ける事がトレンドになっている。銃器の無秩序な拡散を防ぐ名目ためだが、古い構造は簡単には瓦解しない。一部の軍・警察組織にも導入が検討されつつも……国内の銃協会や米国民からの強い反対もあり、実現していない。彼らの装備しているのは、実際はほとんどがシステム組み込み以前の銃だ。それは実際の問題解決よりも外面そとづらを意識した政策であり……現実的な影響力は少ない。

「『白いカラス』の情報通り、無人偵察機が多いようだな。CREテック社製、モデル・ハルピュイアシリーズ……」

「ホテル階層は奴らののようだ。吹き抜けのロビーでは祭り騒ぎだが――」

アノニマは口を噤むと素早く身を隠した。近付いてきた警備員たちの会話に耳を傾ける。拳銃を抜くと人差指で安全装置を外した。

「货物装载完毕吗?」

「是的。现在船出发」

「然后?」

「按照计划。但是、说服白乌鸦bái wūyā需要更多的时间」

「顺便说一句、什么是他的目的? 他以自己的目的与我们联系」

「不知道。我想他工作对一些钱……或只是为了情报。我认为、自由职业者没有宗教信仰、没有信念」

「是的。你说的有道理」

やがて二人は通り過ぎた。アノニマは銃を無人機に向けて、拳銃のレール下に装着された超指向性電磁パルスを放つ。パルスは一時的に無人機を前後不覚に陥らせ、ソフトウェアは姿勢制御に終始する。その音は口うるさい怪鳥がキィキィ喚いているようだ。それはそのままデコイとなって、周囲の警備員を誘導する。アノニマはその隙を突いて移動を開始した。

「奴らの話しているのは……広東語じゃないな。装備も潤沢だ」

「表向きは一般的な警備会社に偽装している。彼らの出自はチベット出身者や回族……ということになっている」

「回族? 中国のイスラム教徒か」

「だが実際の回族は中国全土に分散している。香港でも広東語よりも普通話の覇権が強まっているし……言語から各々の出自を特定するのは難しい」

「少なくともイスラムを名乗る武装組織、という事しか分からないか……チベットは仏教徒じゃないのか?」

「確かに。だが世俗化の進んだ現在では、イスラムの信仰者も居る。正確に言えば彼らはそれがチベット解放運動をも兼ねていると考えている。性的ヨーガを修行として指向するシャクティ派や、イスラムの影響を受けたチョナン派の教えなどをして……平たく言えば彼らとしては『万物が虚幻の空であるならば、禁忌や悪行を犯すことで徹底的に虚幻性を見抜く力を養う事が出来る』と言ったところかな」

「それがISILのような運動と接続されたわけか? CIAは反共政策の一環としてチベット支援も行っていた……が、その一派が今や敵対するとは、アフガンのムジャヒディンと同じだな」

「歴史は繰り返す、だよ。それは誰も変化を望んでいないからさ」

 ホテル階層は円柱状の吹き抜けになっている。アノニマは『白いカラス』の軟禁されている部屋番号を確認すると、手すりを乗り越えキャットウォークを歩いた。階下の眩しい照明が逆光となって、その姿を闇に隠している。警備員たちも円形の通路を無為に歩き回るばかりで、誰もその存在に気付かない。

 だが機械仕掛けの怪鳥ハルピュイアがその影を捉えた。モーター音を唸らせながら無人偵察機が接近してくる。アノニマは拳銃を抜き斜めに構え、延びる銃の先端を肘関節に乗せるようにして、覆うように左手の母指球で遊底後端を押さえ付け――引き金を絞った。

 銃声は三つの要素から構成される。まず火薬の爆発音。これは電子消音器によってほぼ完全に打ち消す事ができる。それから銃弾が音速を超える際に発生する衝撃波ソニック・ブーム。これは重い銃弾を使用するなどして銃弾の初速を抑え、前もって音の発生を防ぐことが出来る。そして遊底の前後運動において発生する銃自体の作動音。アノニマは遊底の後部を意図的に押さえ付ける事によって自動装填のプロセスをキャンセルし、完全な無音の発砲を実現した。

 怪鳥は落下する。アノニマは遊底を操作し空薬莢を排出し――それをぴん、と弾いて部屋の前の警備員を振り向かせる。そして手すりを乗り越え、階下で無人偵察機の破壊音がするのとほとんど同時に、壁に叩きつけて脳震盪を起こさせる。暗がりに彼を隠すと、アノニマはピッキング・ガンで素早く部屋の鍵を解錠した。

 拳銃を抜いて、ゆっくりとドアを開ける。暗い部屋には外の花火の明かりだけが差し込んでいる。白髪の男がシルクハットを被り、――顔はペスト医師のマスクで覆い隠しており――ゆったりと椅子に座っている。机には鴛鴦茶の入ったティーポットだ。既に何回も何回も終わらないお茶会を繰り返してきたように、男はゆっくりと椅子ごと振り向いて、言った。

何故ワタリガラスは書き物机に似ているWhy is a raven like a writing desk?」

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