* * * * * *

 ライトアップされたエッフェル塔は夜のシャン・ド・マルス公園を見下ろしている。

 アノニマは第一展望台の位置についた。彼女は一方通行素材アシンメトリック・マテリアルで作られたアクティブ光学迷彩のフード付きポンチョを羽織っており――光は回折・透過され、人間の形を視認しづらくしている。営業時間外のエッフェル塔に怪しまれずに忍び込めたのも、その為だ。そしてスリングバックからアッパー・レシーバーとロア・レシーバーとに分解された五・七ミリ口径ARファイブセブン簡易狙撃銃を取り出し、素早く組み立てた。五〇発の弾倉は上部に水平に装着されていて、薬莢排出口にはSTANAG弾倉を改造した薬莢受けが付いており、銃弾の他に外部に漏れる痕跡は無い。電子消音器eサイレンサーも内蔵している。サイドレールには超指向性集音マイクが取り付けてあり、上面レールには二〇〇メートル以内の限定的な暗殺狙撃を主眼に置いた低~中倍率のデジタルスコープを搭載している。アノニマは不可視レーザー光を使って照準をゼロインした。

「位置に着いた」

「了解。じき標的が現れるはずだ。こちらの合図を待て」

息が白い。アノニマはフェイスマスク越しに、歯の隙間から浅く呼吸した。暗闇に白い息が立ち昇るのを防ぐためだ。心臓の鼓動を感じる。それは緊張というよりは、のスイッチが入ったと形容するのが正しい。狙撃はタイミングだ。照準フォーカスを合わせ、引き金を絞るシュート。写真と同じだ。

 冬季のため閉鎖されている公園に、二人の男が現れた。『司教』が帽子を取る。禿げた頭だ。どちらもスーツ姿に塹壕トレンチコート。二人の会話が小型アンプによって増幅され端末に記録、耳元にも聞こえている。『司教』が言う。

平和あれالسلام

そちらこそوعليكم السلام

ほとんど儀礼的に両者はアラビア語で挨拶をした。アノニマは照準を禿げ頭に合わせる。会話が続く。

「尾けられていないか?」

「ああ、小娘がひとり睨んでいたように思うが……スリの餓鬼か、娼婦あたりだろう。麻を吸っていたしな。大した問題はないパ・ブレムプロ

ブレムプロとは、プロブレムの逆さ言葉ヴェルランだ。二人はヴェルランと英単語を交えながら、基本的にはフランス語で会話している。

「そうか。じゃあ手短に済まそう。洗濯ランドリーはうまく行っているか?」

「まぁまぁだな。香港経由でうまくやっている。例の、赤い水銀レッド・マーキュリーのほうも進んでいる」

「なるほど。実用段階にあるか?」

もちろんだrus-neib。我々もそれを望んでいる」

「具体的な計画は?」

今のところNantemain,不明だché ap

会話を盗聴していたクローディアが口を挟んだ。

「やはり……大規模テロに関しては、お互い必知事項ニード・トゥ・ノウしか知らされていないようだな。情報漏洩を恐れるのは自然な事だが……」

赤い水銀レッド・マーキュリーとは何だ?」

アノニマが尋ねる。

「赤い水銀。ソ連から流れたとされる純粋水爆の――まぁ、簡単に言えば起爆剤プライマリのようなものさ。与太話ディスインフォメーションの常套だが……」

「純粋水爆? 核テロリズムか」

「だが純粋水爆はテロ組織にとってメリットが薄いはずだ。かかるコストや技術力の高さの割に、従来のTNT爆薬と同等の威力しか出ない。もちろん核兵器それ自体の小型化や、電磁パルスによる電子機器破壊、中性子線は脅威だが――放射性降下物フォールアウトも少ない。『きれいな核兵器』の名前の通り、な」

「電子機器破壊……やつらも電子機器やそのネットワークを多用しているのだから、サージ電流に対してシールドされていない限り、向こうにとっても両刃の剣となる、か…………その『赤い水銀』が真っ赤な嘘だったとして、奴らは何を話している?」

「『洗濯』は資金洗浄の事だろう。香港にペーパーカンパニーか何かあるのか……そこをタックスヘイブンとしているんだろうな。資金の流れを洗えば、何か見えてくるはずだ」

――了解だ。撃て。とクローディアが命じた。アノニマはすぐには引き金を絞らず、照準を外さないまま再び訊いた。

「この暗殺に意味はあるのか? 奴らを刺激するだけじゃ?」

「ネットワーク化する組織の幹部を殺したところで、大した影響はない。必要なのは事実だよ。テロ組織の人員が暗殺の対象になるという事実が、奴らの人材募集リクルートの芽を摘むんだ」

「ふん、こっちも恐怖主義テロリズムだな……」

蛇の道は朽縄が知るThe wolf knows what the ill beast thinks、だよ。殺れ」

アノニマは引き金を絞った。銃声は電子消音器によって打ち消され、無音の銃弾は禿げ頭に着弾した。即座に隣の男にも照準を合わせ、再び撃鉄を落とす。小さな反動だけが残って、標的の頭に小さな柘榴の花が咲いた。アノニマはふううううと大きく息を吐いた。

「頭部への被弾を確認。撤収する」

「了解。騒ぎになる前に奴らの端末を回収してくれ」

簡易狙撃銃を分解し、背中のスリングバックに収納する。エッフェル塔の手すりにロープを括り付けたとき、視界の隅の影がむくりと起き上がった。アノニマは振り返りながら、

「……まさか……」

そう呟いた。それは『司教』だった。群衆を掻き分けながらエッフェル塔から離れていく。しばらく呆然としていたが、ふと思い出したようにクローディアが呟いた。

「そういえば……『司教』は不死身だという噂がある。頭部に銃弾を喰らっても生き永らえるのかもしれないな」

「そんな馬鹿な」

「チタン製の人工頭蓋骨アートボーンかもしれん。とにかく、追いかけろ!」

「それでも、頭部への衝撃を受けて立ち上がるとは」

アノニマは左手の筋電義手にロープを掴んだまま、エッフェル塔から駆け降りた。人工筋肉によって増幅されたその握力は既に道具の一部として勘定されている。ロープを握り込み着地寸前に一気に速度を落とさせ、勢いを殺すように前転して受け身を取った。着地の衝撃でアクティブ光学迷彩が一旦、再起動リブートする。

曹長シェフ。ロープの回収を頼む」

了解ダコー

アノニマが居た位置にもう一人の男が姿を見せた。彼もまたアクティブ光学迷彩で姿を消していたのだ。双眼鏡を覗きながら、シェフと呼ばれた元フランス外人部隊レジオン・エトランゼの黒い肌の男が言う。

「もう一人に動きはない。『司教』は南東へ向かっているようだ」

「了解。始末する」

アノニマは走りながら答えた。群衆は空から降ってきた透明人間を見るにつけ「なんだ、あれ……」「幽霊ファントム? でも脚が生えてる」「ニンジャだ、ニンジャ」と口々に呟いた。スマートフォンを取り出した人間も居る。『司教』は頭から血を流しながら背中をこちらに向けている。銃弾を外した訳ではなさそうだ。

 騒ぎを聞きつけ、警察の無人偵察機UAVが展開してくる。赤外線カメラを搭載し、暗闇でも視界を確保している。熱源を探知するので、光学迷彩は意味を為さない。あくまで犯人の確保を目的とする装備のため殺傷力は無いが、それでも搭載されたゴム弾やスタンガンは厄介だ。

曹長シェフ。援護を頼む」

了解ダコー

塔のシェフはポータブルEMP装置のスイッチを押した。無音。それから周囲の電源一帯が落ちる。エッフェル塔は暗闇に溶け、携帯電話のカメラを起動しようとしていた群衆が、それぞれ「電池切れた」「私のも!」「停電?」などと口にする。無人偵察機も制御姿勢を保ったまま、コントロール不能に陥っている。監視システムはダウンした。現代の電子機器の多くは既にサージ電流に対してのシールドが為されており、余程強力な電磁パルスでない限り、一時的な機能障害で事態は治まる。だがアノニマにとってはそのわずかな暗闇と静寂とが、何よりも必要だった。

 アノニマはピストルを抜いた。そして撃つ。抑声器サプレッサーの機能で抑えられた低い銃声が響き、五・七ミリ貫徹AP弾は『司教』の脚を貫く。どこかで叫び声が上がる。彼は転倒し、ガラスで出来た『平和の壁』が目の前に立ちはだかり、街の光に明るむ空に、遠くでエッフェル塔の影が見下ろしている。アノニマは上方に飛び上がった薬莢を義手でキャッチすると、ゆっくりと『司教』に近付き、懐から携帯端末を取り上げて呟いた。

「EMPで破壊されたか。だがデータは残っているだろう」

アノニマは端末をしまうと銃口を向け、『司教』は咳き込んで言う。

「アノニマ……プネウマだな? アポロを殺し、イラクのガンチャーチを壊滅させた……一匹狼ローンウルフのヤズディ教徒…………」

「昔の話だ。今は単なる無宗教者で、ケチな汚れ仕事ウェット・ワークを任されるばかりさ」

「ふふ……人間である限り規範意識からは逃れられない……何を正しいと考え、世界をどのように理解するか……内面世界の構築行為それ自体が即ち宗教なのだ」

「哲学の講義か? ずいぶん余裕のある事だ」

「……計画は予定通り。寸分の狂いもなかった」

「なんだと?」

アノニマは『司教』を睨みつけ、――その耳には小型の通信機が隠されていた――一帯の電力が回復してくる。するとシェフから通信が入った。

「アノニマ。北西に動きがある。十六区の辺りからだ。恐らく――ドゥビリ橋に向かっている」

「何の動きだ」

「爆発物だ。復旧した監視システムから確認している――いま、肉眼で捉えた。爆弾はむき出しに持ち運んでいて――時限式のようだが、起爆スイッチも掲げている。放射線も検知した」

「爆発物反応と放射線検知……『汚い爆弾ダーティ・ボム』――目的はセーヌ川の汚染か!」

アノニマが叫ぶと、『司教』が高笑いした。アノニマはその腹を蹴り飛ばし、後ろ手に手錠をかけた。

「C。こいつは尋問にかけたほうがよさそうだ」

「了解。こちらで回収する。今は爆弾だ!」

「シェフ、そこから狙撃できるか?」

「了解。――標的排除。爆弾はどうする?」

「待ってろ」

アノニマはスマートフォンを取り出し、手近な無人偵察機をハッキングし操作をオンラインにした。液体窒素スプレーを搭載したモデルだ。空からパリの街を見下ろすと、路地裏では廃人たちがロンドンから流れたヘロインの禁断症状に打ちひしがれている。

 橋に到達すると、倒れた死体に接近する。爆弾の起爆装置に狙いを付け、スプレーを充分に噴霧する。起爆装置の起電力を奪い、時間を稼ぐのが狙いだ。

「爆弾を凍結させた。あとは爆弾処理班に任せよう。脱出する」

「了解。こちらも脱出する」

アノニマは操作をオフラインにすると『司教』に近付き、耳から小型通信機を抜き取ると、踏み付けて破壊した。これで彼は完全に孤立スタンドアロンした。

「止められないぞ。蜘蛛の網ネットワークを断とうとも、個々の銃弾は自律スタンドアロンして目的を遂行する。帰巣性ホーミングを持ったミツバチのように。生まれ落ちる以前の彼岸へと帰ろうとするのだ」

殺虫剤ペスティサイドを知っているか? 害虫ペスト駆除には便利なものだ。虹色の蝶を殺すなら、特にな」

「思想は疫病ペストだ。無政府主義アナキズムテロはやがて人類を黒死病へと誘う。無性生殖の単細胞生物は際限なく自己を分裂し続ける。やがてその生態圏は地表を埋め尽くすだろう」

「世界との心中がお望みか? つまらない男だな」

「ふん……今に分かるさ……今にな」

『司教』はやがてその失血から気絶した。アノニマは踵を返して歩き始めた。クローディアから通信が入る。

「あの逆さ言葉ヴェルランが符牒だったのか……同時多発的にテロが発生しなかったのが、不可解ではあるが……」

「罠だと思うか? 奴は私の名前を知っていた」

「ある意味、因縁だろうからな。とにかく、奴の端末と香港の件を洗ってみよう」

「分かった」

そう言って通信を切った。野次馬と警官が集まり出していた。アノニマは街灯の影を選んで歩いていたが、群衆が携帯電話のカメラを向けるので、それを左手ゴーシュの義手でパキリと握り潰した。

写真はやめてくれTu veux ma photo?

昔から写真嫌いのアノニマはそう呟いて、回折された光の中に姿を消した。

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