* * * * * *
ライトアップされたエッフェル塔は夜のシャン・ド・マルス公園を見下ろしている。
アノニマは第一展望台の位置についた。彼女は
「位置に着いた」
「了解。じき標的が現れるはずだ。こちらの合図を待て」
息が白い。アノニマはフェイスマスク越しに、歯の隙間から浅く呼吸した。暗闇に白い息が立ち昇るのを防ぐためだ。心臓の鼓動を感じる。それは緊張というよりは、仕事のスイッチが入ったと形容するのが正しい。狙撃はタイミングだ。
冬季のため閉鎖されている公園に、二人の男が現れた。『司教』が帽子を取る。禿げた頭だ。どちらもスーツ姿に
「
「
ほとんど儀礼的に両者はアラビア語で挨拶をした。アノニマは照準を禿げ頭に合わせる。会話が続く。
「尾けられていないか?」
「ああ、小娘がひとり睨んでいたように思うが……スリの餓鬼か、娼婦あたりだろう。麻を吸っていたしな。
ブレムプロとは、プロブレムの
「そうか。じゃあ手短に済まそう。
「まぁまぁだな。香港経由でうまくやっている。例の、
「なるほど。実用段階にあるか?」
「
「具体的な計画は?」
「
会話を盗聴していたクローディアが口を挟んだ。
「やはり……大規模テロに関しては、お互い
「
アノニマが尋ねる。
「赤い水銀。ソ連から流れたとされる純粋水爆の――まぁ、簡単に言えば
「純粋水爆? 核テロリズムか」
「だが純粋水爆はテロ組織にとってメリットが薄いはずだ。かかるコストや技術力の高さの割に、従来のTNT爆薬と同等の威力しか出ない。もちろん核兵器それ自体の小型化や、電磁パルスによる電子機器破壊、中性子線は脅威だが――
「電子機器破壊……やつらも電子機器やそのネットワークを多用しているのだから、サージ電流に対してシールドされていない限り、向こうにとっても両刃の剣となる、か…………その『赤い水銀』が真っ赤な嘘だったとして、奴らは何を話している?」
「『洗濯』は資金洗浄の事だろう。香港にペーパーカンパニーか何かあるのか……そこをタックスヘイブンとしているんだろうな。資金の流れを洗えば、何か見えてくるはずだ」
――了解だ。撃て。とクローディアが命じた。アノニマはすぐには引き金を絞らず、照準を外さないまま再び訊いた。
「この暗殺に意味はあるのか? 奴らを刺激するだけじゃ?」
「ネットワーク化する組織の幹部を殺したところで、大した影響はない。必要なのは事実だよ。テロ組織の人員が暗殺の対象になるという事実が、奴らの
「ふん、こっちも
「
アノニマは引き金を絞った。銃声は電子消音器によって打ち消され、無音の銃弾は禿げ頭に着弾した。即座に隣の男にも照準を合わせ、再び撃鉄を落とす。小さな反動だけが残って、標的の頭に小さな柘榴の花が咲いた。アノニマはふううううと大きく息を吐いた。
「頭部への被弾を確認。撤収する」
「了解。騒ぎになる前に奴らの端末を回収してくれ」
簡易狙撃銃を分解し、背中のスリングバックに収納する。エッフェル塔の手すりにロープを括り付けたとき、視界の隅の影がむくりと起き上がった。アノニマは振り返りながら、
「……まさか……」
そう呟いた。それは『司教』だった。群衆を掻き分けながらエッフェル塔から離れていく。しばらく呆然としていたが、ふと思い出したようにクローディアが呟いた。
「そういえば……『司教』は不死身だという噂がある。頭部に銃弾を喰らっても生き永らえるのかもしれないな」
「そんな馬鹿な」
「チタン製の
「それでも、頭部への衝撃を受けて立ち上がるとは」
アノニマは左手の筋電義手にロープを掴んだまま、エッフェル塔から駆け降りた。人工筋肉によって増幅されたその握力は既に道具の一部として勘定されている。ロープを握り込み着地寸前に一気に速度を落とさせ、勢いを殺すように前転して受け身を取った。着地の衝撃でアクティブ光学迷彩が一旦、
「
「
アノニマが居た位置にもう一人の男が姿を見せた。彼もまたアクティブ光学迷彩で姿を消していたのだ。双眼鏡を覗きながら、シェフと呼ばれた
「もう一人に動きはない。『司教』は南東へ向かっているようだ」
「了解。始末する」
アノニマは走りながら答えた。群衆は空から降ってきた透明人間を見るにつけ「なんだ、あれ……」「
騒ぎを聞きつけ、警察の
「
「
塔のシェフはポータブルEMP装置のスイッチを押した。無音。それから周囲の電源一帯が落ちる。エッフェル塔は暗闇に溶け、携帯電話のカメラを起動しようとしていた群衆が、それぞれ「電池切れた」「私のも!」「停電?」などと口にする。無人偵察機も制御姿勢を保ったまま、コントロール不能に陥っている。監視システムはダウンした。現代の電子機器の多くは既にサージ電流に対してのシールドが為されており、余程強力な電磁パルスでない限り、一時的な機能障害で事態は治まる。だがアノニマにとってはそのわずかな暗闇と静寂とが、何よりも必要だった。
アノニマはピストルを抜いた。そして撃つ。
「EMPで破壊されたか。だがデータは残っているだろう」
アノニマは端末をしまうと銃口を向け、『司教』は咳き込んで言う。
「アノニマ……プネウマだな? アポロを殺し、イラクのガンチャーチを壊滅させた……
「昔の話だ。今は単なる無宗教者で、ケチな
「ふふ……人間である限り規範意識からは逃れられない……何を正しいと考え、世界をどのように理解するか……内面世界の構築行為それ自体が即ち宗教なのだ」
「哲学の講義か? ずいぶん余裕のある事だ」
「……計画は予定通り。寸分の狂いもなかった」
「なんだと?」
アノニマは『司教』を睨みつけ、――その耳には小型の通信機が隠されていた――一帯の電力が回復してくる。するとシェフから通信が入った。
「アノニマ。北西に動きがある。十六区の辺りからだ。恐らく――ドゥビリ橋に向かっている」
「何の動きだ」
「爆発物だ。復旧した監視システムから確認している――いま、肉眼で捉えた。爆弾はむき出しに持ち運んでいて――時限式のようだが、起爆スイッチも掲げている。放射線も検知した」
「爆発物反応と放射線検知……『
アノニマが叫ぶと、『司教』が高笑いした。アノニマはその腹を蹴り飛ばし、後ろ手に手錠をかけた。
「C。こいつは尋問にかけたほうがよさそうだ」
「了解。こちらで回収する。今は爆弾だ!」
「シェフ、そこから狙撃できるか?」
「了解。――標的排除。爆弾はどうする?」
「待ってろ」
アノニマはスマートフォンを取り出し、手近な無人偵察機をハッキングし操作をオンラインにした。液体窒素スプレーを搭載したモデルだ。空からパリの街を見下ろすと、路地裏では廃人たちがロンドンから流れたヘロインの禁断症状に打ちひしがれている。
橋に到達すると、倒れた死体に接近する。爆弾の起爆装置に狙いを付け、スプレーを充分に噴霧する。起爆装置の起電力を奪い、時間を稼ぐのが狙いだ。
「爆弾を凍結させた。あとは爆弾処理班に任せよう。脱出する」
「了解。こちらも脱出する」
アノニマは操作をオフラインにすると『司教』に近付き、耳から小型通信機を抜き取ると、踏み付けて破壊した。これで彼は完全に
「止められないぞ。
「
「思想は
「世界との心中がお望みか? つまらない男だな」
「ふん……今に分かるさ……今にな」
『司教』はやがてその失血から気絶した。アノニマは踵を返して歩き始めた。クローディアから通信が入る。
「あの
「罠だと思うか? 奴は私の名前を知っていた」
「ある意味、因縁だろうからな。とにかく、奴の端末と香港の件を洗ってみよう」
「分かった」
そう言って通信を切った。野次馬と警官が集まり出していた。アノニマは街灯の影を選んで歩いていたが、群衆が携帯電話のカメラを向けるので、それを
「
昔から写真嫌いのアノニマはそう呟いて、回折された光の中に姿を消した。
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