番犬は眠らない

一年前

二〇一九年初頭 フランス 郊外バンリューこと『人間のクズラカイユ』の住処


 娼婦たちが夜のネオンに照らされている。色とりどりの(それは一部の鳥類の性的アピールに酷似していた)虚栄さを身に纏い、偽りの愛を売る。赤い靴を履いた娼婦がひとり、食パンを踏み付けて深い沼に沈んでいった。明るい夜空には三日月クロワッサンが浮かんでいる。

 彼女たちが吸っているのは大麻キフだ。フランスは長らく大麻規制の厳しい国であったが、周囲の欧米諸国の圧力に屈し(或いは市民革命の国らしく、欧州一の大麻摂取量を誇る民衆の実情を反映したものであったか)、今年の初めに大麻が非犯罪化された。彼らはアラブ系移民の影響を受けた逆さ言葉ヴェルランを話し、警吏ケフの目の前で堂々と大麻を吸い、ラジオからはローリング・ストーンズの『黒く塗れ』が流れている。それは過激派のテロへの恐怖を紛らわすための享楽さであり、ここだけベトナムの戦場に時代が逆戻りしたような退廃ぶりだ。ヴェルランで育った若者の貧困層は、その語彙の乏しさから思考を停止しやがて暴力に走る。社交的な言語によって見知らぬ人エトランゼと知り合い、また言葉によって自らを律する者を、紳士ジョンティルと呼ぶ。だがこの街で支配的なのは言語以前の快楽セックス堕落ドラッグのみだ。

 アノニマは屋外の喫茶店の席に座って遠くにその様子を眺めながら、大麻樹脂ハッシシのジョイントを吸っていた。その左耳にはハンズフリーが装着されている。彼女の背負うスリングバッグの、胸元あたりに装着されたスマートフォンを経由して通信が入った。

「フランスはいいところだろう、アノニマ。なにせフランス語が通じる。お前の嫌いな文明国ペイー・シヴィリゼさ」

「そうでもない。クルド人は白い目で見られる。イスラム教徒ブールだと思われているようだ」

「お前はヤズディだったか? まぁ今さら祈る天使マラクも居まい」

孔雀ターウースのような見た目の女ならそこらじゅうに溢れている。だがどうやらそれらはみな夢魔スキュブスのようだ」

「私としては、そんな理想の女に襲われたくもあるがな」

レズビアンのジェーン・クローディア・サンダースは冗談めかしてそう言った。アノニマは嫌悪感を隠さなかった。しかしながら、そういう何事も隠さない所を好かれているのだ。この女には。

 今年六月から開催される予定の女子ワールドカップ。イスラム過激派テロ組織『アーレン・ルージュ』は、それに乗じてテロ攻撃を仕掛けると予測されている。イスラム国ISIL以降のイスラム過激派組織にとって、西洋的なものは全てキリスト教的なもの、唾棄すべき異教徒のものである。それは、彼らをあくまで相対主義的に包括しようとする学術的な視点そのものを含めて、だ。

赤いニシンアーレン・ルージュは共産思想と関係ないのか?」

アノニマは運ばれてきたカフェ・オ・レを掻き混ぜると、それを一口飲みながら尋ねた。良い質問だ、と言ってクローディアが答える。

「全く無い。とは、言わない。七〇年代に世間を賑わした共産主義革命運動は、無差別テロの走りだったとも言える。世界革命の一環だと言ってな。今の時代、テロの思想すら個人化し、過激派組織はあくまでその援助という形が主流になっている」

「流行りの無政府主義アナキズムテロか。個人主義の肥大化と、わがままを言いたいだけの奴らの自殺攻撃カミカゼ。過激派のネットワークは、自分たちの都合に合わせて奴らに死に場所をくれてやるということだな」

降伏の白旗は血に赤く染まり、やがて黒となる。人生に敗北した若者たちは赤い理想の血の闘争を経て、無政府主義に染まる。そして何にも染まらない意志に塗り固められた黒の旗を掲げるのだ。

「アーレン・ルージュの元の母体組織は、東南アジアからの移民であるクメール・ルージュの残党だ。今でもフランスの裏社会は彼らの影響力が強い。娼婦の斡旋、麻薬の密売、武器の流通……そこにイスラム過激派の思想が共鳴した。ISILは異教徒の女子供を奴隷や娼婦としてしているしな。武器も彼らのネットワークのルートから輸入できる。そして何より、『日常ここではない何か特別な物語』の正当性を、彼らの聖典コーランが保証してくれるというわけさ」

「ふん。『真理の名におけるテロル』か……」

「人は自分に都合の良いようにしか言葉を解釈しないのさ」

アノニマは黙ってスマートフォンの画面を見た。それは3Dコンピュータ・グラフィックスによって仮想空間VR上に投影された街のワイヤーフレームの全景だ。過激派へのテロ対策として、現代の都市部では警察の無人偵察機UAVが飛び交っている。それらは言わば「目」である赤外線カメラの機能のみならず、「鼻」としてのイオン易動度分光測定式探知機や中性子後方散乱式探知機などを備え、総合的な爆発物の発見を容易にしている。アノニマの得ている情報は、その警察組織に集約された探知された爆発物の「匂い」の情報を、三次元グラフィックスの街の景色にリアルタイム投影したものだ。もちろんこれらの情報はそれぞれの都市の警察組織によって管理されているものだが、それを財団や連合GOCがハッキングし、中央情報局カンパニー諜報特務庁モサドといった下部組織に提供している。それらは全て反乱分子インサージェンシーを抑えるという、彼らに唯一共通する目的のためだ。

 アノニマは、ただの一介の武装少女ゲリラであった頃、その反乱分子インサージェンシーの末端組織を二つ壊滅させている。二〇一〇年のイラク懐中銃教会ガンチャーチの残党狩りと、二〇一一年の(かつてアノニマも所属していた)『新日本赤軍』のリーダー、アポロ・ヒムカイの抹殺。それらの実績があって、アノニマはのちに組織に拾われた。彼女の使用する超指向性小型電磁波EMP装置や電子消音器eサイレンサー、喪った左手を補完する筋電義手バイオニック・アームも、そこから貸与されたものだ。

「アポロの構築した情報網・流通経路ネットワークは、アル=カイダやISIL、ORIAのネットワークと接続され、今やそれらを通じて世界の主要都市のどこへでも手が伸びるようユビキタスになっている。そして主に『鉄砲玉』として使われるのが、もと『懐中銃教会』の信徒たちだ」

クローディアが言った。アノニマはカフェの隅に座っている男をスマートフォンのカメラで捉えた。やがてソフトウェアは身分IDの一致を確認。今の時代、顔写真ひとつあれば個人の情報を特定するのは難しくない。大衆がメディア発信者と化した昨今、SNSなどにアップロードされた写真はクローラされ、データベースとして構築、諜報機関によるオシント/イミントの情報源となる。

 今回の標的ターゲット。通称『司教ビショップ』。もと懐中銃教会の中核、現在はアーレン・ルージュの幹部の一人。電話口で米国英語アメリカンを話しているから、すぐに分かる。フランスで他に英語を話す奴など居ない。『司教』は最後に盗聴された典礼ミサにおいて次のように述べている。

『我々;懐中銃教会信徒は、放たれるべき銃弾である。万物の造物主たるデリンジャー、放たれた銃弾ブレット、そして標的デッド・エンドの三位一体。その銃もまた引鉄・撃鉄・銃身の三要素から成り、その弾薬もまた雷管・火薬・銃弾の三要素から成るものである。これは言わばヘーゲル式の、エンサイクロペヂの円環を成すものである』

「何を言ってるのか分からんな」

「話してる言語が違うのさ」

『では、とは何であるか? 我々は、一八六五年のリンカーン大統領暗殺事件に使用された、雷管パーカッション式フィラデルフィア・デリンジャー拳銃を万物の造物主と考える信徒である。いわゆる、世界五分前仮説の一種であると考えてもいい。では何故そこから世界が始まったか? それはまさしく、そこにが存在したからである。我々は狙いを定めて引き金を絞る。銃弾は撃鉄の叩く雷管によって点火され、膨張する火薬の推進力を得て銃口から飛び出す。銃身内部からの圧力を失った銃弾は、いずれ空気抵抗に失速し、標的に到達することなく落下するだろう。銃弾われわれは造物主より放たれ、標的に着弾することで初めて、三位一体の実現が図られる。それこそが造物主の望まれること。我々銃弾たる信徒は、標的に到達したときに、ようやくその意味や価値を持つものである。アーメン』

そこで再生が終わった。標的に動きはない。クローディアが続ける。

懐中銃教会ホーリー・デリンジャー・チャーチはアメリカ発足の秘密結社カルトだ。彼らは幾多にも分散し、中東の暗殺アサシン教団との連動性も報告されている。『司教』はその中でも、特に教会を異端のグノーシス主義的性格から世界宗教的な性格へと疎外させ、イスラム過激派の小ジハード主義とも接続し――大衆への働き掛けを強くした。つまり、より門戸を広げて世の中に不満な奴らを集めるのに成功した、という意味だ」

「十字軍か?」

「もっと性質タチが悪い。彼らは自称する通りのだ。アーレン・ルージュは彼らをまさしく消耗品として利用している」

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるWer oft schießt, trifft endlichか?」

「管理されない銃口ほど危険なものは無い。今回の任務は――懐中銃教会とアーレン・ルージュ幹部の会合の盗聴、および『司教』の暗殺だ」

「泳がせなくていいのか?」

「もう充分だ。会合を超指向性集音マイクで盗聴・録音の後に、両名を消せ」

了解ダコー

『司教』は電話を終えて席を立った。目立った武装や警備は無い。身体に爆弾も巻かれていないようだ。「匂い」センサーは反応していない。市民の散歩させている犬が、『司教』に向かって吠えている。アノニマは尾行を悟られない距離まで彼が離れると、カフェ・オ・レを飲み干して立ち上がった。

「動きがあった。位置へ移動する」

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