ウェット・ガール

名無し

殺し<リクヮデイション>は静かにやってくる

二年前

二〇一八年初頭 韓国 平昌ピョンチャン郡 冬季オリンピック開催前夜

月蝕の日


 雨が降っている。むかし「私が泣くから空も泣いているのだ」と嘯いた女が居た。彼女は感傷センチメンタルに浸りすぎる。その女はもう居ない。少女(と言っても問題ない年齢だろう)はパーカーのフードを目深に被って、首から提げた十字架のペンダントを揺らしていた。周囲はにわかに盛り上がっており、祭りフェスティバルの雰囲気だ。

 地球温暖化というやつだろう。と、少女は思った。冬季五輪が目前に迫っているのに、この雨とはな。皮肉なものだ。そう思う少女の瞳には、化石燃料を消費して真っ白な氷の結晶を吐き出す人工降雪機たちが映っていた。もともと、この隔絶されたひなびた地方都市に限らず、一部の競技は、近郊のソウルや隣国のナガノでも開催する予定があるのだとか。そのせいでどこもかしこも、やかましい機械音に満ちている。

 アーレン・ルージュ、赤いニシン。フランス発足のイスラム過激派組織。その人員は、フランス本国で育った純フランス人の若者の、行き場の無い怒りが過激派思想と共鳴して、志願し参加したホームグロウン・テロリストたちで構成されている。すなわち、彼らにやましい過去はない。深層ウェブの活動歴やプライベートの交流を精査されなければ、渡航も自由だ。彼らは市民であり、人権を持っている。脳味噌の中は治外法権というわけだ。

 五輪に向け、急ピッチで進められた高速鉄道のインフラストラクチャーがあり、その軋む音がする。この冬季五輪と月蝕に合わせたイベントの主催者でもあるIOCの委員長が、観客に見えない場所でスタッフに檄を飛ばしている。雲を晴らせろだとか、雨を雪に変えろとか。無能な上司など、世界中どこでもそんなものだ。が今回の目標ターゲットの殺害。少女は十字架のペンダントをぎゅっと握り締めた。救世主キリストはそこに磔にされている。

 少しの晴れ間に月が顔を出す。人びとの顔に安堵が宿る。委員長も機嫌を良くしたのか、笑顔で舞台ステージに躍り出て演説を始める。予算の少ない中、だとか、プレ五輪もなんとか乗り越え、であるとか。要するに言い訳だ。商業主義に塗れた欧米社会の肉の祭典が。と、少女は乱暴に人混みを掻き分けて、舞台の傍まで近付く。

…………さあ、それでは本日のメインイベント。みなさんと一緒に月蝕を観察しましょう。双眼鏡の無い方は、受付にて貸し出しております。ライトが消えますので、足元にご注意ください…………

――真夜中の皆既月食。月が翳って赤くなりだす。時間だ。と、少女は思った。皆の注目が一斉に月へと集まる中、ゆるりと動き出した影があった。十字架のペンダントを捻ると、その先端が螺子になって外れ、プラスチック爆弾セムテックスの起爆装置が姿を現した。もう少しに近付く。ここが射程距離だ。と、呼吸が荒くなる。心拍数が上がり、瞳孔が開かれる。それは周りが暗く翳ったからではなく――彼女が死を覚悟したからだ。呼吸を落ち着ける。血は立ったまま凍っている。人工降雪機がやかましく稼働するなか、みな空を見上げている――やるなら今だ。少女はそう思った。親指がスイッチを押しかけていた。その手は寒さに震えていた。


 どこかで子供の泣き出す声がした。

 無音、周囲の静寂。そして背後からの衝撃。


 一瞬だけ思いとどまったその女の背中に二発、アノニマは拳銃を撃ち込んだ。彼女の厚ぼったい服の内側に巻かれたプラスチック爆弾は、銃弾の衝撃では起爆しない。銃口の先端には小さな台形の箱が取り付けてあり、その発声器スピーカーから火薬の爆発音とは真逆の位相を発する事で、銃声を打ち消していた。電子消音器eサイレンサーだ。銃声の破裂音を拡散する抑声器サプレッサーと違って、その銃声は蚊の羽音ほども響かない。

 女は左手で口を強く塞がれたまま腎臓を撃ち抜かれ、叫び声を上げる事なく絶命し、眠ったようにその眼を閉じた。

 アノニマは彼女の体重を預かると、ゆっくりと起爆装置の蓋を閉じた。それから素早く服の中に手を入れて、爆弾の信管を抜いた。遠隔で起爆される可能性もあったからだ。

「今回のテロは、いわば計画されたものである。彼らにとって失敗は許されない。一方は隣国のような『悲劇』を求め――他方は、本国に巣食うイスラム教徒一掃の口実を欲している。だが我々はそんな事態を許さない。我々は、平和を希求する世界の警察なのだから。騒ぎを起こさずに――しかしながら、暗殺が起きた証拠を残す事。これが今回の条件だ」

ゆえにアノニマは排出された五・七ミリ弾の薬莢を回収しなかった。この仕事ウェット・ワークはフランスと韓国両政府への牽制でもあるのだから。我々の監視を忘れるなという警告。この世の中には人権も無ければ、治外法権もあり得ない。全ては監視され、管理・制御されている。

 アノニマはあくまで、その末端の薄汚れた少女ウェット・ガールだ。実行部隊と言えば聞こえはいいが、その実、ただの鉄砲玉だ。その安全や身分は保障されず、言わば存在しない暗殺者No Such Assassinatorである。彼女の胸には、琥珀アンバーと狼犬の牙から出来た首飾りが提げられていた。アノニマは、クルドだ。彼女に戻る家は無い。尽くす国家も無い。

 周りは月蝕の観察に忙しくて、一連の騒動に気付きもしなかった。唯一、隣に居た眼鏡をかけた小太りの優しそうな男が異常に気付き、「大丈夫ですかケンチャン スムニカ?」と話しかけてきた。アノニマは「大丈夫ですよケンチャナヨ彼女、貧血があるんですクニョヌン ピニョル イエヨ」と答えた。韓国人の男は「そうでしたかクレッソックンヨ手伝いますかトワ トゥリルッカヨ?」と全くの善意から提案したが、アノニマはあくまで丁寧に「いいえアニョでもありがとうトゥェッスムニダ」と断った。男は一瞬だけ全身を眺めるように二人の少女をて(或いは見惚れて)、その欧米風の顔立ちに思わず「あなた、可愛いですねタンシン キヨウシネヨ」と、照れながら言った。アノニマはぎこちなく笑い返して「どうもコマプスムニダ」とだけ答え、殺した女に肩を貸しながらその場から姿を消した。

(とかく、男は苦手だ。あのに耐えられない)

アノニマは英語とフランス語で(混線コードスイッチングが起きているのだ)そう思った。十年ほど前に村を追われてから、母語であるクルド語はどんどん薄れていって、それを補うように外国の言葉が彼女を支配した。言葉は人間を統治するが、同様に、個人それ自体をも規範付ける。それは過激派の連中も同じで、彼ら彼女らは、聖典の言葉で自らを規範付けていると考えている。その解釈の是非を反故とすれば。

 死体をゴミ捨て場に片付けると、アノニマは近くに停めていたUAE製ネイキッド・バイク『アル=カマル』に跨って、高速道路ハイウェイに乗った。行先は埋め立て地、仁川インチョン国際空港だ。この国にもう用はない。

終わったかエティル フィニ?」

スマートフォンから通信が入った。ハンズフリーで受けると、アノニマは「ああウイ」とだけ短く答えた。相手も「いいぞボン」とだけ言った。事務的な連絡だ。あのレズババアと長々と話し込みたくもない。アノニマは報告を終えると通信を切った。

 殺しはあくまで静かシロンスにやる。それはテロリストどもの叫び声クライとは違う。叫ぶのは怖いからだ。恐怖を克服したと、錯覚したいからだ。銃声も同じこと。それは動物の咆哮と変わらない。――自然界に、限度を超えた殺戮は存在しない。人は違う。我々は恐怖を抑圧サプレスするのではなく、恐怖テロルに麻痺することで人を殺す事が出来る、と。

 恐怖主義者テロリストどもの戦略もそこにある。燻製ニシンの虚偽アーレン・ルージュ……匂いの強い魚の燻製は、追跡する犬の嗅覚を惑わし、逃げ切る事が出来る……そんなものは寓話に過ぎない。私は叫ばない。怯えた一匹狼とは違う。番犬ウォッチドッグだ。どこまでも追いかけて始末する。それが私の仕事、唯一の才能なのだから。アノニマはそう思った。

 地球の影に月はすっかり隠れ、それでも雨は降り注いでいた。濡れた少女は闇に融けてゆく。

 偽りの人工雪もやがては溶け出しリクヮデイション、殺しは静かにやってくる。

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