第2話
『単項式順序』
「先輩、何飲みますか?」
彼女、北条
室内のクーラーからの冷風で、彼女の髪がわずかに揺れている。
「え、あ、ええと、じゃあ、アイスコーヒーかな。」
「じゃあ、私はホットのカフェラテにします。……ええと、ここ注文ボタンないんですね。」
彼女は、手を挙げて『すみません』と店員を呼ぶ仕草をする。
混雑する時間帯のカフェで、店員さんたちは忙しいそうに動き回っている。
俺が手を挙げると、ようやく注文を伺いに来てくれた。
「アイスコーヒーと……ホットのカフェラテをください。」
「??えっと、アイスコーヒーと,ホットのカフェラテ、2つでよろしいですか?」
「はい。あ、あと、おしぼりください。こぼしちゃって。」
「かしこまりました。」
すぐにおしぼりを持ってきてから、小柄の女性の店員はそそくさと奥の厨房に入る。
それを確認してから、俺はりんの方を向いた。
「それで、いつぶりだっけ?」
りんは、指を折りながら数字を数える。
「えっと、11月の初めに会ったきりですかね。」
そうか。もうそんなになるのか。
通りで懐かしく感じるわけだ。
「あ、そういえば。」
りんが何か思いついたように声を出す。
白いニットの袖が、彼女の手を半分まで隠している。
「『グレブナー基底』について詳しく教えてくれませんか?この前、先輩はグレブナー基底を使うと、ピタゴラ数…じゃなくて代数的数が計算できるって言ってましたよね?」
少し間をおいて俺は答える。
「ああ、いいよ。」
そうしてカバンから大学ノートを取り出した。
「……グレブナー基底の定義は知っているんだっけ?」
「あ、はい。今、私たちが受けている『計算機代数特論2』の授業でもやったので、一応定義は知っているんです……が……」
「が?」
「なんというか……ええと……」
「いまいちピンと来ていないと?」
「そうなんです!」
りんは無意識に勢いよくテーブルを叩いた。
そして、すぐさま自分の行動に反省したのか、顔を赤らめる。
「す、すみません……」
「はは。大丈夫だよ。りんの落ち着きの
「えへへ。」
彼女は照れるように自分の頭を軽く撫でる。
りんは俺の1つ下の後輩だ。
去年、俺が受けていた講義で、初めてりんに出会った。
数学科にはただでさえ女の子は珍しいのに、見たことない女の子が講義を受けていたので自然と目に留まった。
俺がりんを知らなかった理由は、彼女が同学年ではなく1つ下の3年生だったからだ。
「話を戻すけど、グレブナー基底の定義がよくわからないんだよね?」
「はい。なんていうか、群とか環の定義とか違って、グレブナー基底を定義するのに、色々なものをものすごく準備をして定義をして時間がかかるじゃないですか?」
「うん。確かにそうだね。」
「そうこうしているうちに、何がなんだか分からなくてなっちゃって、頭が混乱しちゃうんです……」
グレブナー基底をちゃんと定義するには、イデアル、単項式順序、先頭項などを事前に定義しておく必要がある。
数学に馴染みのない人には、なかなか難しいかもしれない。
「グレブナー基底の定義する上で、最も重要なファクターとなるのは、『単項式順序』って概念なんだ。」
「単項式……順序?」
「えっと、授業でもやったと思うんだけど。」
「あ、え、そうでしたっけ?」
「……完全に忘れてるみたいだね…」
「す、すみません……」
りんは下を向きながら落ち込む。
ちょうどその時、アイスコーヒーとカフェラテがテーブルにやって来た。
「こちらアイスコーヒーとカフェラテでございます。」
店員さんは、こぼさないように慎重に、2つとも俺の側に置く。
「ご注文以上でよろしいでしょうか。」
「はい。大丈夫です。」
俺は、店員さんが十分テーブルから離れた後で、カフェラテをりんの方に置いた。
「それじゃあ、コーヒーでも飲んで気を取り直していこうか。」
「はい!」
「……そうだな。じゃあ、簡単なクイズで単項式順序について勉強していくかな。」
「ふふ……先輩のクイズ楽しみです。」
「おほん。まず、『単項式』とは文字通り、項が1つしかない多項式のことだ。例えば、」
xy^2
「は単項式だ。」
「はい。そうですね。」
「他にも、」
x、x^2、y^3、xyz、yz^2、1
「はどれも単項式だ。ここまではいいかな?」
「はい。余裕です。」
「うん。それに対して、」
xy^2+1
「は単項式ではない。xy^2と1の2つの項があるからだ。」
「ですね。」
「もちろん、2xy^2というように係数がついててもこれは単項式だ。ただ、今からは係数が1の単項式についてだけ考えていくことにする。」
「りょーかいです!」
りんは、右手を挙げ敬礼の真似をする。
こうやって数学を教えていると、妹に教えている時を思い出すが、りんには、環奈にはないアグレッシブさというか、元気の良さがある気がする。
年が1つしか違わないのに、りんは俺よりずっとフレッシュだった。
「では問題。次の2つの単項式うち、大きいのどっちかな?」
x^2 と x
「えーと、普通に考えると、x^2の次数は 2 で、x の次数は 1 で、だから、次数の大きい x^2 の方が大きいですよね。」
「正解!」
「やった!」
「では、第二問目。次の2つの単項式で大きいのは?」
xy と x
「うーんと、xy ですか?」
「どうして?」
「えっと、xy の方が、y が付いている分、x より大きいと考える方が自然だから……ですか?」
「まあ、そうだね。これも正解!」
「やったぜ!笑」
りんは、半ばふざけるように喜ぶ。
彼女は、俺と話す時はいつも敬語だが、時折くだけた独り言のような言葉を漏らす。よくよく考えてみると、俺は、りんが他の人とどんな感じで話すのかを一度も見たことがなかった。
「で、先輩。もちろん、これで終わりじゃないですよね?」
「うん。そうだね。」
「やっぱり。」
「……それでは、次のうちどっちが大きいかな?」
xy^2 と x^2
「うーーん。ん?ん?んんん?」
「どうした?」
「えーえーと。……どっちが大きいか分からなくないですか?」
「なんで?」
「……さっきの次数の話でいえば、xy^2 は、xの次数が1、yの次数が2で、合計の次数は1+2=3 だから、x^2の次数 2 より大きいですよね?」
「うん。そうだね。」
「でも、x が多く付いてる x^2 を大きいとした方がなんかスッキリする気がするんですよね。だって、x が一番大事で、yはその次に大事な文字って考えると、x^2 は x が 2 個あって、xy^2 は x が1個しかないからそんなに大きくなくて……あれ?なんかよく分からなくなってきた……」
りんは頭を抱えて、目をぐるぐる回している。
このままその姿を見てても楽しかったが、流石にそこは止めに入った。
「正解だ。」
「え?」
「りんが今言ったように、xy^2 と x^2 はどっちが大きいかは決められない。正確には、xy^2 の方が大きくなるように単項式順序を設定することもできるし、逆に x^2
の方が大きくなるように単項式順序を設定することもできるんだ。」
「?どういうことですか?『単項式順序』っていうものが、ただ1つあるんじゃないんですか?」
俺は、りんがまだ若干混乱しているのを見て、もう少し砕いて説明することにした。
「1変数の場合だと、単項式の順序っていうのは、」
…x^5,x^4,x^3,x^2,x,1
「というように単純に次数が小さい順から並べればよかった。つまり、順序の記号>を用いて書けば、
…>x^5>x^4>x^3>x^2>x>1
「だ。しかし、2変数以上になるとそう安直にはいかなくなるんだ。実は、2変数以上だと、単項式順序っていうものは、1つだけじゃなくて複数存在するんだ。例えば、"次数の大きいものが大きい"というルールのある順序で並べれば、」
xy^2 > x^2
「となるし、一方、"xの次数が大きい方が大きい"というルールのある順序で並べれば」
xy^2 < x^2
「となるんだ。」
「うーん。まだイマイチよく分かってないんですが、変数が多くなると、順序にも自由が生まれてきちゃうってことですか?」
「そう。でも、だからと言って、めちゃくちゃな順序を考えても意味がない。ちゃんと最低限の条件は決めなくちゃ、グレブナー基底を考える上で上手くいかなくなる。」
「ほー……??」
少し矢継ぎ早に説明しすぎたかもしれない。
「まあ、多分ここまでは、ざっくり説明しただけだから、理解できていなくても大丈夫だよ。一番分かってもらいたかったのは、」
『変数が2個以上だと、単項式の順序というものを数学的にきちんと考える必要がある』
「ということだったんだ。」
「それはなんとなく分かった気がします。」
「よし。それでは、さっそく単項式順序の厳密な定義を書いていこうか。」
***
定義.(単項式順序)
> をn個の変数 x_1,...,x_n からなる単項式の間に定められた順序とする. ここで, 単項式 x_1^{a_1}…x_n^{a_n} を簡単に a=(a_1,...,a_n) として, x^a で表す. このとき, 次の3つの条件を満たすならば, >は単項式順序と呼ばれる.
1. >は全順序である.
2. 任意の単項式 x^a, x^b, x^c に対し、x^a>x^b ならば、x^a x^c > x^b x^c.
3. >は整列順序である.
***
「うう…。やっぱり難しいですよね…」
「見た目はね。でも、一時間も経たないうちには、この定義がすべて理解できるようになっているさ。」
「頑張ります……」
りんは気合いを入れて口に力を込める。
「そして、この定義はある視点から考えると、必要な要素がぎゅっと詰まった定義になっているんだ。」
「ぎゅっと……ですか?」
りんは、手を温めるためか、カフェラテを包むように持っている。
透明でまっすぐな瞳が、じっとこちらを見つめている。
「ああ。そして、単項式順序の謎を紐解くためのキーワード……それは……」
「ごくっ…」
喫茶店の外では、季節的にはまだ少し早いセミが弱々しく鳴いている。
俺は、ゆっくりとそのワードを口に出した。
「割り算だ。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます