グレブナー基底と恋人
第1話
「再会」
東京都千代田区竹橋 国立数理情報学研究所(通称、NIMI)
23階、大会議室。
その扉の前に、杉浦解析は立っていた。
彼の肩書きは、数学科学生連合、高層第9位。
専門は偏微分方程式。相対的に見ても、絶対的に見ても優秀な学生である。
/********* 杉浦解析 ***************************************
*血液型:A型
*ランク:高層第9位
*能力:「
*専門:偏微分方程式
*********************************************************/
(ヤレヤレ……憂鬱デスね……)
杉浦解析は、1つ、深いため息をついた。
その顔色は暗く、ひどく落ち込んでいるように見える。
無理もない。この扉の向こうには、彼より優秀な化け物たちが揃っているのだから。
「おっひさ〜!!杉裏解析ちゃんじゃーん!元気にして
会議室に入った杉浦解析に、茶髪にサングラスの男が声をかけた。
「あ、今は、杉『浦』解析に戻ったんだっけ?うっかりしちゃった!メン
杉浦解析は、黙ったまま、大テーブルの末席に着いた。
10人掛けのテーブルには、彼を含めて9人が既に座っている。
杉浦解析は、部屋を漂う重苦しい
「ふふ……高層の
杉浦解析の隣に座っている男がおもむろに話し始める。
その男は、和服姿の腰に長い刀を差していた。
先ほどの茶髪が彼の問いに返答する。
「あは〜!やっぱり分かる?さすが、伊藤ちゃん!筋トレとか頑張ったんだよ
茶髪の視線の先には、女の子が静かに文庫本を読んでいた。
黒い髪を三つ編みにして、大きな丸メガネをかけている。
彼女は茶髪の言葉に一切反応せず、ゆっくりとページをめくる。
「ふ、不埒な!!」
その時、先ほどの和服が激昂し、テーブルの上に身を乗り出した。
「お、
和服の侍は、懐の刀を抜いて、テーブル越しの茶髪に切りかかる。
「安心せえ!痛みなどなくすぐ死ねるだろう!拙者に切れぬものなど、
侍の名は、伊藤確率。高層第7位の統計の天才だ。
/********* 伊藤確率 ***************************************
*血液型:A型
*ランク:高層第7位
*能力:「
*専門:統計学
*特徴:???
*********************************************************/
伊藤確率が、上から振り下ろした刀を、茶髪の男は、両手に巻き付いた鎖で受け止めた。
鎖は太く、日本刀でも切れる様子がない。
彼の名は、安藤ホモロジー。生粋のホモロジストだ。
「にゃはは!
/********* 安藤ホモロジー ***************************************
*血液型:B型
*ランク:高層第5位
*能力:「
*専門;ホモロジー代数学
*特徴:???
*********************************************************/
2人のいざこざに、おさげの女の子がポツリとつぶやいた。
「あ、ごめん聞いてなかった。とりあえず、次、貧乳って言ったら2人とも殺す。」
本の表紙には「ゲーデル」の名前が書いてある。
彼女の名は、新井基礎。真面目な
/********* 新井基礎 ***************************************
*血液型:O型
*ランク:高層第10位
*能力:「
*専門;数学基礎論
*特徴:???
*********************************************************/
そんな5位、7位、10位の下位陣の会話に、狐顔の男が、微笑みながらつぶやく。
「みんな元気で喜ばしいことやなあ。あ、ぶぶ漬け持ってきたんやけど、どうどす?」
そうして白い扇子を振りかざす。
京都を代表する
/********* 竹内層 ***************************************
*血液型:O型
*ランク:高層第4位
*能力:「
*専門;圏論
*特徴:???
*********************************************************/
(ああ…早く帰りたいですわ……せめて雪江姉さまの隣に座りたい……)
金髪ゴスロリの少女は、不服そうな顔をしていた。
室内にも関わらず、彼女は傘を差していた。
高層のニューウェーブ。
お嬢様系、
/********* 内田位相***************************************
*血液型:O型
*ランク:高層第6位
*能力:「
*専門:位相空間論
*特徴:空間把握が得意。
*********************************************************/
「しかも、こんな筋肉バカの隣だなんて……最悪ですわ……」
「おい、心の声が漏れてるぞ。」
内田位相の隣には、軍服姿の筋肉質の男が腕を組んで座っていた。
「それに、数学は一に体力、二に体力、三、四なくて五に体力だ。」
/********* 松本多様体 ***************************************
*血液型:O型
*ランク:高層第8位
*能力:「
*専門:微分幾何学
*特徴:???
*********************************************************/
内田位相と松本多様体が歪みあっているなか、寡黙な男は8×8×8のルービックキューブを解き終えた。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………下らん。」
非可換を愛し、非可換に愛された男。
群れを嫌い、豪腕1つでこの地位まで勝ち上がって来た。
常にシンプルな方法で物事を解決する。
一匹狼な
/********* 近藤群論 ***************************************
*血液型:B型
*ランク:高層第3位
*能力:「
*専門:有限群の表現論
*特徴:???
*********************************************************/
「……みなさん、そろそろ『彼』が来ますよ。」
紅茶を飲みながら、長髪の美女はつぶやく。
京都数学科学生連合、首席。
数連合のプリンセスであり、クイーン。
そして、異世界を蹂躙する
雪江整数。
/********* 雪江整数 ***************************************
*血液型:B型
*ランク:高層第2位
*能力:「
*専門:数論幾何学
*特徴:???
*********************************************************/
もちろん、彼ら彼女らの名前は本名ではない。
例えば、内田位相の本名は白百合桃であり、杉浦解析の本名はアンドリュー・ベネットである。
数連合のメンバーは、高層に入ると、栄誉の証として、名誉の明かしとして、2つ目の名前をもらう。
「
数連合において、会長の次に権力を持つ高層ならではの特典である。
また、彼らにとってこの名前は、誇りであり、1つの人格であった。
しかし、高層において、ただ1人、2つ目の名を持たない者がいる。
会議室の扉がゆっくりと開く。
その時、新井基礎の文庫本が切れ、杉浦解析の眼鏡が割れ、松本多様体の軍服が裂け、伊藤確率の刀が折れ、内田位相の傘が逆さに開き、安藤ホモロジーの鎖が錆び、竹内層の扇子が破れ、近藤群論のルービックキューブが崩れ、雪江整数の紅茶のカップの取手が落ちた。
「みんな。お待たせ。『僕』だ。」
数連合において、『僕』と名乗るものは、彼を除いてただ一人として存在しない。
誰もが、その一人称の使用を禁じられているからだ。
唯一無二の代数幾何学徒。色中英祐。
/********* 色中英祐 ***************************************
*血液型:AB型
*ランク:高層第1位
*能力:「
*専門:代数幾何学
*特徴:???
*********************************************************/
「さて、次の会長を決めようか。」
***
俺は、研究室の扉をノックした。
今年は卒研がなかったから、ここに来るのは久しぶりになる。
俺はゆっくりと扉を開けた。
「やあ、本条くん。こんにちわ。」
暖かく迎えてくれたのは、俺の去年の指導教官であり、数学科主任でもある、古城山教授だ。
古城山教授は、日本を代表する計算機代数の専門家で、グレブナー基底に関する論文を数多く出している。
50代ではあるが、見た目は若く、ダンディな風貌は女学生からも人気があるほどだ。
「あ、ミルクティーでも飲むかい?そうだこの前、出張で行った時のお菓子もあるんだ。サルタナビスケットっていうんだけど。食べるよね?」
俺に答える間も与えずに、次から次へと喋り立てる。
しかし、全体的にふんわりとしていて、この辺のギャップが人気を生んでいるというわけだ。
「ふう。それで、用事はなんだっけ?」
俺たちはミルクティーやレーズンのお菓子を食べ、一息ついた。
古城山教授の質問に、俺は包み隠さず正直に返す。
「先生。僕は、大学院修士課程は、先生の研究室、つまり、古城山ゼミに配属を希望したいと思っています。今日は、その許可を頂きに伺いました。」
カップを持つ教授の手がピタッと止まった。
「大学院?」
俺は、今一度背筋を伸ばして、教授を一心に見つめる。
「はい。このまま行けば、僕も今年で卒業できるので、卒業後は修士過程に進みたいと思っています。」
古城山教授は、俺の意図が掴めないかのように、再び質問する。
「あ、えーと、それは、修士を出てから就職活動をするってことかい?」
俺は、勇気を振り絞って、かつ、できる限り声を落ち着かせて答えた。
「いえ。修士を卒業したらそのまま博士課程に進み、将来的には大学に残って研究者になる予定です。」
ミルクティーのカップが、受け皿とぶつかり高い音が出る。
古城山教授の顔は一気に険しいものへと変わった。
「大学院はどんなとこか知ってる?勉強するところじゃなくて研究するところなんだよ?平日も休日も祝日も研究、研究、研究だ。まず金銭的な問題として修士2年、博士3年、合計5年間で、学費は250万〜300万円くらいかかる。もちろん生きているんだからそれ以上に生活費もかかる。その間はあくまで学生で基本的に収入がないのだから、親が裕福でない限り、奨学金を借りたり、TA(ティーチング・アシスタント)やRA(リサーチ・アシスタント)で働く必要がある。第二に、いくら優秀な人だからって絶対に研究者になれるとは限らない。研究者への登竜門の1つ『学振』は知ってるかな?DC1やDC2の採択率は全体でたったの約20%だ。つまり優秀な人が行くはずの大学院ですらその8割が学振に落ちるんだ。それに学振に通ったからってそれで将来が保証されるわけじゃない。博士課程卒業後、同期とのポスト争いがある。運よく助教のポストに就けたとしてもほとんどの場合任期がある。約5年の任期の後には昇進できなかった場合またポストを探さなければならない。それを教授や准教授などのテニュア(任期なし役職)に就けるまで続けるんだ。場合によっては、テニュアに就けず35歳くらいで無職なんてのもあり得る。その頃、一般企業に就職した大学の同期は年収も順調に増え、結婚し子供もいる幸せな家庭を築いているだろう。そして、教授になれたとしても、事務作業や教授会などで研究時間が全然取れない場合だってある。君の考えるような幸せはそこにないかもしれんぞ。」
教授は最後に一言、念を押すように言った。
「それでも、君は研究者を目指すのかい?」
研究室に沈黙が流れる。
俺は、覚悟を決めて言った。
「はい。」
教授は、ミルクティーを少量、口に含む。
そして、それを飲み込んでから発した。
「合格だ。」
ふう。と、俺は緊張を解く。
重苦しかった空気が、少し軽くなったような気がした。
「君を我が古城山研究室に歓迎しよう。脅かすようなことを言ってすまなかった。私が今説明したことは、現実ではあるが、真実ではない。奨学金だって多くの場合、半額や全額免除になったりするし、大学からもらえる給与の奨学金だってある。学振の採用率も全体では2割だが大学によってはもっと高いし、学振が通れば月20万円を国からもらえる。研究者だって大学以外にも、企業の研究職という道もある。もちろん海外でポストに就くって手段もある。現実は厳しいがそこまで悲観的になる必要はない。そして何より、」
古城山教授は、満面の笑みで言った。
「研究は、人生は、数学は、夢のように楽しいからね。」
その後、俺は、9月にある大学院試験について説明を受けた。
本来ならば内部推薦で、筆記試験を免除にできるのだが、申請期間をすぎてしまったため、俺は他大学から来る学生と一緒に試験を受ける。
今はまだ7月だから、準備としてはまだ余裕がある。
「それでは、失礼します。今日はありがとうございました。」
俺は、一通り聞きたいことも聞けたので、頭を深く下げて研究室を去ろうとする。
扉を開け出ようとした時、「あ、そうだ。」と古城山教授に呼び止められた。
「ところで、1つ聞いていいかい?」
「はい?」
それは俺にとって、もっとも答えにくい、そしてもっとも避けては通れない質問だった。
「成績優秀な君が、どうして卒業間際に、わざと留年をするような真似をしたのかな?」
***
喫茶店。
教授の研究室を後にした俺は、待ち合わせをしていた。
大学の近くにあるこのカフェテリアは、ガラス張りのおしゃれな内装で、カップルに評判があるそうだ。
まだ暦の上では7月だが、夏の暑さをひしひしと感じる。
アイスコーヒーをストローで飲みながら、俺は時計を確認する。
もうそろそろ来る頃だ。
周囲を確認するが、それらしき姿は見えない。
授業でも長引いているのかな。
まあ、入り口は1つだけだし、来たら分かるだろうと、俺はスマホをいじり始めた。
「先輩。お待たせしました。」
その聞きなれた懐かしい声に、俺は顔を上げた。
そして、思わずアイスコーヒーをこぼす。
「あ!先輩、大丈夫ですか!?」
俺はこぼれるコーヒーも気にしないで、ハンカチでテーブルを拭く彼女の様子をまじまじと眺めた。
花柄のスカートに、ロングのブーツ、白のニットに、ハーフアップされた綺麗な髪。
その姿に俺は見とれていた。
「先輩。デートってなんだか久しぶりですね。」
彼女の名は、
留年のきっかけとなった人物。
そして、俺の最愛なる恋人だ。
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