第3話

『ピタゴラスとアルキメデス』


「どういう意味?実際にあるから、実数なんじゃないの?」

不思議そうに環奈が、問う。

現実にあるから、実数。

実在するから、実数。

Real Numberと呼ばれるその数を、我々はどこまでリアルに扱えるのだろう。


俺はそう心の中で反芻して、妹の質問に応える。

「じゃあ、実数って具体的にはなんだろう。」

「具体的にって……さっきまでやった有理数だって実数だし……あとは、√2とか√3とか?」

「そうだね。他には?」

「うーん……。あっ!円周率とかもそう?」

「そうそう。πもその一つだな。」

「なんだ。結構あるじゃん。」


環奈は、独り言のようにつぶやいた。

思えば、今はこうして普通に話しているが、妹とちゃんと会話をするのは、存外、久しぶりかもしれない。

そう物思いにふけっていると、妹が聞いてきた。


「どうして、『まだ早すぎる』なんて言ったの?円の面積を求めるときとか、数学で普通に使ってるよね?」

「その理由を明らかにする前に、まず実数を2つに分けてみようか。」

「2つに?」


僕は、ノートに長い縦線を一本引く。


「実数は、2種類の数に分けられる。有理数と無理数だ。これは知ってるよな?」

「うん。中学生のときにやった気がする。」

「無理数には、さっき出た、√2、√3、πなどが含まれる。」

「そうだね。」

「さらに、無理数の中でも2種類の数に分けられる。」


無理数の欄にもう一本、縦線を引く。


「もっと分けるの?」

「そうだ。この場合だと、√2と√3は同じチーム。πは別のチームだ。」

「え、何が違うの?」

「一言でいえば、多項式を使って表せるか、否かなんだけど……」


妹の顔が少し曇ったので、話題を少し変えることにした。


「ちょっと昔の話をしようか。」

「昔っていつ?」

「ざっと2500年くらい前。」

「だいぶ昔だね笑」

「むかし、むかし、あるところに、古代ギリシャに、ピタゴラスという数学者がいました。」


なんだか小さい頃、妹に絵本を読み聞かせたのを思い出す。


「ピタゴラスは、数学のカリスマで、ピタゴラス教団という秘密結社を作り、多くの信者に囲まれていました。」

「なんかすごく怪しそう……」

「彼の教理はこうでした、『すべての数は有理数である』と。」

「有理数?」

「そう。彼らにとって、数の世界は、今よりとても狭かった。信者たちは、それを疑わず、みんなその教理に従っていた。でも、それは永遠には続かなかった。」

「何が起きたの?」

「彼の名前の付いている『ピタゴラスの定理』は聞いたことあるよな?」

「ああ、たぶん中学校でやったと思う。三角形の長さの話だよね?」


けい線に合わせて、直角三角形ABCを描く。


「別名、三平方の定理とも呼ばれるこの定理は、『直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和になる』というものだ。式でいうと、」


a^2+b^2=c^2


「ということだ。」

「そんな感じがしてきた。」

「ここで、a=b=1とると、つまり、二つの辺の長さが1の直角二等辺三角形を考えると、斜辺の長さはどうなる?」

「ちょっと待って……。ちょっかくにとうへんさんかっけい、とか、数学の言葉って、変に長いからわかりづらいんだよね……。えーと、a=1で、b=1だから、」


1^2+1^2=c^2


「で、」


c^2=2


「かな。」

「そうだな。つまり、cは?」

「二乗すると、2になる数……?あ、√2か。」

「その通り。ここで、√2は有理数ではない。皮肉なことに、『ピタゴラスの定理』から、『ピタゴラスの教理』は否定されてしまったんだ!」

「かわいそう。」

「もっと、かわいそうなのは、それに気づいたある信者だ。ピタゴラスは、無理数の存在を否定したいがために、その信者を船から落として溺死させたとも言われる。」

「えー!殺しちゃったの!?」

「現代風にまとめるとこんな感じかな。」


ピタゴラス「万物は数ナリ(有理数ナリ)」

ピタゴラ厨「ピタゴラス様wwwwまじネ申wwwブフォwwwピタゴラスの定理ww最高www(´^ω^`)」

ある信者「ピタゴラスの定理からwwwwwww無理数が出た件wwwwwwwwwww」

ピタゴラ厨「は?何いってんのこいつ。はい特定。凸った。」

ある信者「アーーーーッ!!」


「なんか、余計わかりづらくない?凸ったってなに?」

「……話を進めよう。」

「え、凸ったってなに?」

「とにかく、√2が無理数だったことが、彼らにとって悲劇の始まりだったってわけだ。」

「う、うん。」


なんとか環奈を誤魔化して、話を元に戻す。


「それでは、√2が本当に無理数なのか確認してみようか。これは中学でやってるはずだけど、覚えてる?」

「え、あ、えーと、微妙かも。」

「たぶん、背理法を使って証明しなかったか?」

「あ、なんとなく思い出したような、出さないような……。よくわかんなかったって印象かな。へへ。」


妹は、そう言って頭を軽く撫でる。

その仕草は、まだ幼い。


「じゃあ今から簡単に復習しよう。ポイントは、2の個数だ。」

「2のコスー?」


ノートの新しいページを開いて、



とだけ書く。


「さて、2の中に2はいくつあるでしょう?」

「え?どゆこと?」

「そゆこと。」

「…………………………1個?」


俺との禅問答にも慣れてきたのか、環奈は文句も言わず答える。


「そう。正解。」

「ほっ。」


こういう質問には、当たり前に答えればいいことが分かってきたのだろう。


「では、6には?」

「うーん、と。………………あ、2×3だから、これも1個?」

「合ってる。では、6の二乗、つまり36には?」

「えーーーと。36は、2かける、2かける、3かける、3。だから、2個?」

正解エセクタ!」


ノートに今の計算結果を書きつける。

それでは、本題に入る。


「では、pを整数としたとき、p^2(pの二乗)には、いくつ2がある?」

「うぇ!?」

「整数の二乗したときの2の個数だ。」

「……そんなのわかんなくない?pは整数ってだけでしょ?」

「本当に、何にも分からないかな?」


俺は、真剣な眼差しで環奈を見る。

環奈は、少しびっくりしたが、ノートの数字を見て、ひらめく。


「あ、偶数個?」


この妹はときたま、理解がとても早い。

こいつは、頭がいいのか悪いのか分からない。


「どうしてかは分かるかな?」

「んと、二乗するってことは、同じものを2つ掛けるわけだから、元の2の個数が倍になるってことでしょ?さっきの6だったら、2の個数が1個だったのが、36だと2個になってるわけだし。」

「その通り!」

「……でも、これがどう√2と関係があるの?」


いい質問ですねえ、と言いかけたが、流石に古いなと思って、胸にしまう。


「ここで、もう一つの整数qを考える。これは、0ではないとしておこう。同じように、q^2にも偶数個の2が含まれる。」

「うん。」

「では、次の数には2はいくつあるだろうか?」


2q^2


「えーとこれって、q^2に2をかけたってこと?」

「そうだよ。」

「そしたら……q^2には、偶数個の2が入ってて、2には、2が1個あるから、足して、偶数+1個?」

「それって、いわゆるなんだろう?」

「え?えっと、あ、奇数か!」

「ここで、整理しよう。p^2には、2が偶数個ある。一方、2q^2には、2が奇数個ある。これが意味することは……」

「p^2、と、2q^2、は違う数?」

「大正解!」


環奈は、こういう抽象的な思考にもだんだん慣れてきたみたいだ。


「でも、これがなんで√2と関係あるの?」

「これを見て欲しい。」


p^2 ≠ 2q^2


「これは、さっき言ったことだ。」

「うん。」

「これは、両辺をq^2で割っても異なるままだ。」


p^2/q^2 ≠ 2


「うんそうだね。」

「そして、ルートをかぶせても異なる。」


√(p^2/q^2 )≠ √ 2


「あ!」

「ここで、√ 2が出てきたね。これは、√ 2は左辺の数と異なることを意味している。左辺は、どんな数かな?」

「うーんと、」


√(p^2/q^2 ) = √(p^2)/√(q^2)


「ってなって、二乗と、ルートは、逆の動きだから……」



√(p^2) = p、

√(q^2) = q、


√(p^2/q^2 )= √(p^2)/√(q^2) = p / q


「かな!」


環奈は、自分の答えにも自信が持てるようになってきたみたいだ。


「正確には、p、qが負の数のときには、√(p^2) =−p、√(q^2) = −qってなるけど。まあ、ここでは特に問題ないから、√(p^2/q^2 )= p / qと考えていいだろう。」

「うー。負の数め。」


環奈はそう言って、−pたちを恨めしそうににらむ。


「これで、準備は整った。結論として得られたのは、」


p / q ≠ √ 2


「ということだ。改めて聞こう。左辺はどんな数かな?」

「どんな数って…………。分数?」

「ここで、pとqは、特にこの数って決めてなかったから、自由に決めていいんだ。つまり、p / qも?」

「自由な分数?」

「そう、pとqが整数全体を動けば、p / q はどんな有理数にも姿を変える。つまり、」

「”√ 2はどんな有理数にも一致しない”ってこと?」

「大大大正解!」


思ったより、理解が早く、俺は、ふう。とため息をつく。


「これで√2が有理数でないことが証明できた。どうかな?」


俺は、環奈の方を向き、様子を伺う。


「うーん、話が長かったから、なんかキツネに包まれたような感じかな。」


つままれた、だろと思ったが、口は挟まなかった。


「でも、矛盾とかが出てこなかったから、わかりやすかったかも。」

「あとで、自分でもう一回確認してみればいいと思うぞ。数学で大事なのは、『自分の頭で、納得するまで考える』ことだから。」

「うん。わかった!」

「ちなみに、」


蛇足かと思ったが、口が止まらなかった。

俺の悪い癖だ。


「√3も同じように、3の個数を数えれば、無理数であることが証明できる。もっと言えば、整数mを素因数分解したときに、奇数回しか出てこない素数があれば、√mが無理数であることも示される。つまり、mが平方数でなければ、√mは無理数ってことだ。」

「ん?んんん?」


やっぱり、蛇足だったようだ。戻ろう。


「それじゃあ、次にπの方の無理数のグループについて考えよう。」

「あ、うん!」

「ピタゴラスから、300年後、それでも、2000年以上前だけど、同じく古代ギリシャにアルキメデスという天才数学者がいた。」

「あるきめです?」

「そう、彼は、本当に数学の天才で、今でも、世界三大数学者の一人として挙げられる人だ。」

「へー。すごかったんだね。」

「彼の功績の一つとして、円周率の発見がある。」

「πの発見者だったんだ。」


歴史の話をしてるとき、妹は割と興味を持って聞いてくれることに気がついた。

ちょっと逸話も混ぜようか。


「アルキメデスは天才だったんだけど、なんというか、変人でもあった。ある日、お風呂で数学を考えてて、突然アイデアがひらめいて、エウレカ!(分かった!)エウレカ!(分かった!)と、裸のまま街を走り回ったとも言われる。」

「それ、変人というか、もはや変態だよね。」

「え、まあ、そうともいうかな。」


妹の一言に、まるで自分のことを言われたかのように傷つく。

いやいや、アルキメデスは変態じゃない、カッコイイんだ。

そう気を取り直して、


「でも、アルキメデスの最期は、とても壮絶だった。」

「最期って、死ぬときって、こと?」

「そう。当時、アルキメデスの街に、ローマの軍隊が攻めてきた。でも、アルキメデスは、そんなの気にも止めず、地面の上に円の図形を書いて、数学をしていた。そこに、ローマ兵がやってきた。ローマ兵は彼を連行しようとするも、アルキメデスが、数学の邪魔をするな!と拒絶する。それに、怒ったローマ兵は、その場で、アルキメデスを剣で殺してしまう。」

「……殺すなんて……ひどい。」

「アルキメデスは、死ぬ直前まで、数学について必死で考えてたんだ。彼にとって、数学とは、人生そのものだったのかもしれない……。そして、彼の偉業の一つが、円周率πの発見だった。πは、今でも最も重要な数の一つだ。まあ、現代風に言うと、こんな感じかな。」


ローマ兵「ローマから失礼するゾ~(謝罪) 自分、連行いいっすか? お前アルキメデスっぽいから将軍の元に連行するぜー」

アルキメデス「我の図を踏むな!(迫真)」

ローマ兵「なんだと!お、お前なんか殺してやる!(震え声)」


我ながら、なかなか分かり易かったかもしれない。


「…………お兄ちゃん?」


妹が震えている。そんなに面白かったか。


「なんかもう台無しじゃない!せっかく、『アルキメデス、かっこいいかも』って思い始めてたのに!」

「え、そ、そうか?」

「そうだよ!」


しまった。思わぬところで、妹の機嫌を損ねてしまった。

冗談が通じないヤツめ。


「と、と、とにかくだ。ここまで、2つの無理数を見た。ピタゴラスの√2と、アルキメデスのπがある。」

「……うん。」


妹が不機嫌そうに答える。


「それでは、便宜上、√2みたいな無理数をピタゴラ数、πみたいな無理数をアルキメデ数、と呼ぶことにしよう。」

「……それって、お兄ちゃんが考えたの?」

「え、あ、そうだけど?」

「なんかダサいね。」

「それでは、便宜上、√2みたいな無理数をピタゴラ数、πみたいな無理数をアルキメデ数、とは呼ばないことにしよう。」


もう心が折れそうだ。どこで道を間違えたんだろう。

さっきの現代風のくだりか……。

いくら妹とはいえ、女子高生からダサいと言われるのは、どう考えても死にたくなる。

落ち込んで黙っていると、なぜか分からないが、環奈がやさしく話しかけてきた。


「でも、いいんじゃない?ピタゴラ数、アルキメデ数ってなんかかわいいし。」

「え、いいのか?さっき、ダサいって……。」

「ダサくても、かわいいってこと。ほら、早く続きを話して。」


別にこぼれていない涙を拭いて、頑張って気持ちを上げる。


「ごほん。ちゃんとした数学の言葉でいうと、ピタゴラ数は『代数的数』、アルキメデ数は、『超越数』っていうんだ。」

「むー。なんか難しいね。」

「俺たちは、これから、前者のピタゴラ数、もとい『代数的数』の計算をしていこうと思う。」

「つまり、√2+√3みたいなことだよね?」

「そうそう。」

「どうやって、計算するの?」


環奈のテンポのいい相槌にようやく気分が乗ってきた。


「それはね、環奈がよく知っているものを使うんだよ。」

「私がよく知っているもの?」

「うん。中学2年くらいでやったやつかなあ。」

「もう、じらさないでよ。」


さて、楽しくなるのはこれからだ。

いよいよ、グレブナー基底まで、あと少し、というところまで来た。


「それはね。」

「うん……。」


環奈の視線をしっかりと惹きつけて、俺は言う。


「連立方程式だ。」

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