第2話
『 「数」って……なに? 』
「たん、端的に言うと、多項式の余りが一意的になるような多項式環のイデアルの基底で……」
そこまで言って、妹の顔が豆鉄砲を食らったハトのように、ぽかーんとしていることに気がついた。
部屋に上がり込み、急にグレブナー基底の定義を聞いてきた妹に、俺は激しく動揺していた。
こんなこと人生にそう起きるイベントでもないだろう。
「も、もういっかいお願い!」
そんな俺に構わず、妹は説明を催促する。
勉強熱心なその姿勢には正直感服だが、もう一度同じことを繰り返しても、おそらくちんぷんかんぷんなままだ。
「どうしてそんなこと知りたいんだ?」
こちらをじっと見つめる妹の視線をかわすため、俺は逆に攻めることにした。
「そ、それは…………」
俺の攻撃が功を奏したのか、ひるんだ環奈は目を泳がせる。
長いまつげが、窓から差し込む光でわずかにきらめいている。
「……今は、聞かないで欲しいの。」
そういって、口をすぼめながら、すっとしおらしくなる。
――――卑怯だ。
そんな態度を取られては、いくら6歳年上の俺でも、これ以上、追求できなくなる。
「仕方ないなあ」
観念した俺は、そう
「ほんと!?」
さっきまでの様子はなんだったのか、環奈は急に元気になった。
さて……どうしたものか。
単項式順序、割り算アルゴリズム、イデアル、ヒルベルトの基底定理…………
どこから話したらいいだろう。
いや、まだ高校2年になったばかりの妹だ、多変数多項式すら危ういかもしれない。
それに、俺の記憶が正しければ、数学はそれほど得意ではないはずだ。
ごはんを待つ子犬のようにわくわくして待つ妹を尻目に、数分、俺は考えに集中した。
決めた。
「コンピュータ」と「数」の話をしよう。
「……数って、なんだか知ってるか?」
隣の妹の部屋から椅子を取ってこさせて、俺の隣に座らせる。
女の子とすれ違った時にするような甘い柑橘系の香りが、環奈から感じられる。
とりあえず、机の上の数学書を片し、ノートを広げて、妹にそう質問した。
「え、数?」
日本語が理解できないかのように、環奈はオウム返す。
「数って、あの数?」
「そう、その数。」
「1とか2とか、3とか?」
「そうそう。よくできました。」
頭を撫でようかと思ったが、さすがにやめて、ノートに数字を書き込む。
1、2、3、…
「これらの数字は何と呼ばれるでしょうか?」
ノートに目を落としている妹に質問する。
「えーと、整数?」
「そうだね。もっというと、正の整数。つまり、自然数だね。まあ、0を自然数に入れるかどうかは、宗教戦争が勃発するから、とりあえず、0は抜いておこう。」
ハッシュタグ #0は自然数 のことは忘れて、俺は問う。
「では、自然数で何ができる?」
「なにがって、別に、ラインができるわけでもないし……」
ボケたのか、天然なのかわからないが、環奈は時々、変なことをいう。
しかし、この反応から分かるに、もう落ち着いているようだ。
俺は質問を変える。
「1+1は?」
「え?」
「1足す1は?」
「……2?」
「正解!」
少し、オーバに言いすぎたが、話を進めた。
「つまり、自然数では、足し算ができるんだ。」
「え、当たり前じゃないの?」
「まあ、当たり前だね。」
「小学生じゃないんだから……」
あまりにも簡単な答えであったためか、環奈は、ちょっと拗ねる。
そんな姿を見て、少しいじめたくなるのが、健全な兄というものだ。
「では、215389+574194は?」
「うぇ?」
環奈が変な声を出す。
「216389+574194だよ。」
「えっと…」
「正解は790583だ。」
あっけにとられ、半開きの口でこっちを見る環奈。
その唇は、スポンジケーキのように柔らかそうだ。
「……お兄ちゃん、そろばんやってたっけ?」
「いや、俺が計算できたのは……これのおかげだよ。」
そう言って俺は、引き出しから電卓を取り出した。
「さっき、環奈が椅子を取りに行ってる時に、こっそり計算しといたんだ。ほら。」
ノートの端にメモしておいた、計算結果を指差す。
「ずるい!」
眉間にしわを寄せて、環奈はそう叫ぶ。
いかん、いかん。
このままだとまた拗ねてしまう。
妹をからかうのはここまでにしておこう。
「ごめんごめん。……とにかく、」
電卓を机の上に置く。
「電卓を使えば、難しい足し算でも簡単にできる。」
「うん。」
すぐ謝ったのが良かったのか、妹は素直に頷く。
「では、自然数では、引き算はできるかな?」
「えーと、たとえば、2引く1は1だし、7引く3は4だし、できるんじゃない?」
「1引く2は?」
「あ。」
「そう、1引く2はマイナス1だから、自然数の範囲から出ちゃう。」
「出ちゃう。」
「逆にいうと、0と負の数にも広げれば、つまり整数の範囲ではマイナスもできるってわけだ。」
「なるほど。」
妹が納得しているのを確認して、自然数の下に、
…、−2、−1、0、1、2、3、…
と書き足す。
「こうして、」
軽い咳払いをして、続ける。
「マイナスを導入することで、数の世界は、自然数から整数の世界に広がった。」
「おおー。」
多少わざとらしく、妹は反応する。
「ここで大事なのは、整数も同じように電卓で計算できるってことだ。」
139583−4487205=−4347619
適当に数字を打って、電卓で計算をする。
「こんな複雑な数でも、この小さなコンピュータでね。」
「コンピュータ?それが?」
驚き、なかばあきれたように環奈が聞く。
「コンピュータっていうのは、日本語で、計算機ってことだからね。パソコンでも、電卓でも、スマホでも、原理的には同じ計算機だよ。」
「へー。」
「この小さなコンピュータを使えば、どんな整数だって、瞬時に、正確に計算できる。もちろん、数の大きさには限界はあるけど。でも、これは、整数という数学の世界を、コンピュータという現実の世界のもので実現できてるってことなんだ。」
「な、なるほど……。」
「ちょうど、コンピュータは、数学の世界と、人間の世界の橋渡しをしているような存在だな。」
「橋渡しかあ。」
少し、熱く話しすぎたかもしれない。
数学の話しだと、ついつい夢中になってしまうのが、俺の悪い癖だ。
「ここまでは、大丈夫か?」
妹の様子を伺いながら聞く。
「あ、うん大丈夫だよ。難しいことはしてないし。つまりは、コンピュータで数学の計算ができる!ってことだよね?」
「まあそうだな。」
大丈夫そうなので、俺は話を進めることにした。
「整数の世界は、それでも魅力的な世界だけど、もっと世界を広げたい。」
「もっと?」
「そうもっと。さっきは、引き算をして自然数の世界を広げたけど、今度はどうやって広げよう?」
「あ、掛け算?」
「整数の中で掛け算をすると、どうなるだろう。」
「……あ、別に変わらないか。」
「そうだな。整数に整数を掛けても、整数のままだ。」
「じゃあ、割り算か。」
「そうそう!」
なかなかテンポが良くなってきた。
−2、−1、−2/3、0、1、2、5/2、8/3
とノートに書く。
「このように、分数を含めた数全体を何というかというと。」
「有理数!」
「そこは即答なんだな。」
「なんか、ユーリって女の子が出てくる小説を読んだことがあって……」
「へー、知らないな。」
「え、知らないの!?数学勉強しているのに?」
「え、えっと……。」
話が脱線しそうになったので、元に戻す。
「と、とにかく、今から、電卓を使って、この有理数たちを正確に計算したい。」
そう言って、環奈に電卓を渡す。
71/131 + 37/297
とノートに書いて、
「今から、それを使って、これを計算してみてくれ。」
環奈はじっと、電卓を見つめた後、
「あ、ちょっと待って。」
と言って、スカートのポケットから携帯を取り出す。
そのスマホはかわいいキャラクターが描かれたケースに包まれている。
「えっと……」
とつぶやきながら、携帯をいじって、
「これでもいい?」
と、デフォルトで入っている電卓アプリを見せる。
「あ、別にいいけど、なんで?」
「だって、電卓だと打ちづらそうだし。」
俺にとっては、スマホの方が打ちづらそうだが、そこは世代である。
これだけ年が離れていれば、ジェネレーションギャップも感じる。
そう心の中でため息をついている間に環奈は計算できたようだった。
「えーと、0.66656385?」
「どうやって、計算した?」
想定内の答えに、俺はその理由を尋ねる。
「まず、71/131を計算して、0.54198473って出たから、それをちょっとメモっといて、次に37/297を計算して、0.12457912ってなったから、その2つを足した感じかな。合ってる?」
「たぶん合ってると思うよ。」
「たぶんって、計算してないの?」
「計算した。正確には、もっと正確に計算した。」
レトリックが過ぎたのか、それとも単に理解できていないのか、妹は真顔でこっちを向いている。
「さっきも言ったけど、俺たちの目的は、数学の世界を正確に再現することなんだ。0.66656385って数字は、71/131+37/297の値を十分に表していると思うけど、それは厳密には『正確に』ではない。」
環奈は、僕の言葉を一つ一つ丁寧に聞いて、考える。
考え、答えを出す。
「0.66656385…の続きがあるんだ。」
「そう。有理数ってのは、小数部分を無限に持っているものがある。それを小数に直して計算すると、だいたいどのくらいの大きさか分かって、とても便利だけど、無限個の小数部分は、コンピュータには入らない。すると……」
「誤差が出ちゃう。」
環奈が先に口に出す。
僕は嬉しい気持ちを少し抑えて、続けて話す。
「数値計算の分野では、小数のままでもいいんだ。でも、俺たちが今やろうとしてるのは、計算機代数という、コンピュータで数学を正確に計算する分野なんだ。と、すると、さっきの問題の答えは……」
「待って。私がやる。」
そういって、環奈は、俺からペンを取った。
夢中になってペンを走らす。
このとき、環奈と俺の距離はすごく近づいていたが、俺は気づかないふりをした。
「まず、71/131 + 37/297の分母同士をかけると……」
131×297=38907
右手で、数式を書き、左手で、スマホを操作してと、環奈は器用にこなす。
「そして、通分するために、71×297と、37×131をすると……」
71×297=21087
37×131=4847
「それを足せば……」
21087+4847=25934
71/131 + 37/297
=(71×297 + 37×131)/131×297
=(21087 + 4847)/38907
= 25934/38907
「できた!」
環奈は嬉しそうに、式変形を眺める。
「どう?」
少し誇らしそうに、俺に笑顔を向ける。
馬鹿め。こんなのまだまだ序の口だ。
俺は、口角が上がってにやけないように、顔の筋肉を引き締める。
「オホン。ちなみに、25934/38907を電卓で打てば、同じ0.66656385出てくるけど……」
「25934/38907の方が、数学的に『正確』ってことだよね?」
「ああ、そうだな。」
完全に妹にペースを取られちゃったようだ。
「この調子で考えていこう。有理数全体より、大きな数の集まりを考える。」
「えーとっ、それって実数?」
妹が、そうでしょと言わんばかりに、俺を見つめる。
「そう、実数だ。」
「それで、実数も計算するの?」
「……………………。」
俺は妹の質問には答えず、口を閉ざす。
西日が、俺たちだけの部屋の中に差し込む。
黙ったままの俺に、妹の怪訝な眼差しが向いた。
深い沈黙が二人の間のわずかな空気も重くする。
「実数は、」
俺は、その口を慎重に、
そして、堅牢に開いて言った。
「実数は、まだ人類には早すぎる。」
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