若草萌ゆ/Wake Up, Alice!

 まだ寒さの残る明け方に、吐いた息だけが白くありました。くるくるの癖毛をした浅黒い肌の女の子は、身体中あちこち傷だらけで、ツギハギだらけの(元は白かったのであろう)ワンピースを着ていました。カラフルな数珠のようなネックレスを首から提げ、合成樹脂製のサボ・サンダルをペタペタさせておりました。

 女の子は、自分は魔法マギヤを使えるのだと思っていました。すなわちそれは針と、糸と、はさみです。布の端切れを縫い合わせて一張羅の服を修繕することができるし、必要があればポケットを作ることもできました。ダクトテープがあればビニールシートを張り合わせて夜の寒さを凌ぐことも出来ましたし、認識票ドッグタグのように首に提げたP38缶切りを使わずとも、はさみやスプーンを駆使して缶詰を開けて食べたり、ツナ缶やピーナッツ・バターのオイルにライターで火を点けてストーブの代わりにすることも出来ました。

 その女の子には名前がありませんでした(子供は名付けられるまで名前を持たないものです)。正確に言えば、ほとんど覚えていないのでした。なにかラ・メールみたいな欧米風の名前と、それから「月に向かって」みたいな意味のアジアっぽい名前をふたつ持っていたような気はしていました。

 自分の名前より、他人の名前をよく覚えていました。家族の名前はちっとも思い出せないのですが。むかし仲の良かった元娼婦で、薬物中毒になって脳をやりホームレスになってしまったベティのことなんかは、よく覚えていました。

「東の果てにはね……とても豊かな幸福の国があるんだよ」

まだ彼女が言葉を話せていた頃に、ベティがそう言っていた事を覚えていました。名前のない女の子は、自分はその神話に従って、ずっと西から東に向かって歩き続けてきたと自認していました。夕陽が沈む砂漠から朝日の昇る海に向かって旅をしてきたのだと思っていました。(そりゃあ、歩き続けてきたというのは比喩であって、実際はトラックに忍び込んだりしてだいぶ長い距離を進んできたというのが実態でしょうが……)

 夏はまだ良いのですが、困るのは冬でした。水浴びや洗濯も寒くていけませんし、太陽が沈んでから眠ると凍えてしまうわけです。そのため、冬は意図的に昼夜逆転して温かい昼間に眠り夜は歩き通しで目を覚ましておく必要があるのです。

 野良猫は、ちょうどいい湯たんぽや懐炉代わりにもなりましたが。

 皆が寝静まった頃に、拠点にしている空き家や地下道から這い出しました。これまで色々な街を点々としてきましたが、食べるものに困ったことはほとんど無く、それは毎日まいにち沢山のゴミが棄てられるからです。一口だけ齧られて棄てられたリンゴ、コーラの飲み残し、期限切れのハンバーガー、誰かの落としたバナナ、ドライエイジングでトリミングされた肉の外周ペリクル、少しカビの生えたパン……。虫が這っていても避妊具が落ちていても女の子は平気でしたが、なにかにあたって酷く腹を下すこともままありました。それでもたまたま運良く、今まで死なずに生き延びることが出来ました。

 その意味では、確かに豊かで食べることには困りませんでした。

 その潮流が変わってきたのがここ最近でした。いつものようにゴミ箱を漁ろうとしましたが――蓋が開きませんでした。大手チェーンのハンバーガー・ショップのゴミ箱は、廃棄と一緒に鍵が掛けられるようになったのです。まだ食べられるのに捨てるだなんて、そんな馬鹿らしい事はないと女の子は憤慨した頃もありましたが、腹を立ててもカロリーを消費するだけで膨れはしないので諦めました。

 自分がどうして帰る家を持っていないのか、直接的な切っ掛けはあまり思い出せませんでした。気にもしていませんでした。本当にそれが両親だったのか祖父母なのかも覚えていないのですが、自分の父親は黒い肌の医者か軍人で、母親はオニユリのように染めた赤毛の、アジア系の元娼婦だったような気がしました。ほんの一時いっとき、三〇がらみ四〇がらみの血縁関係のない三つ編みの小母おばさんに匿われていて、――別に居心地も悪くなかったと思いますが、何となく嫌になったか嫌なことがあって逃げ出した、というような曖昧な事しか判然としませんでした。

 ある朝、目が覚めたら目の前で娼婦が死んでいたこともありました。彼女はヒナギクのように白い髪をして、その表情は恐怖と後悔に歪んでいました。しばらくゴミ箱の傍で彼女に虫がたかるのを眺めていました。死んでしまったベティのことを何となく思い出しながら。しばらくしたら、誰かが通報したのか警察がやってきて、周辺を確保して、自分は誰にも気付かれず無視されていて……。女の子にとっては肉体を分解する虫も死体の社会的身分を調査する警察も同じような構造のエコ・システムで動いているように見えました。

 つまり人間は死ねば肉のみならず、その社会的身分をも清算・解体リクヮデイションされる必要があるということです。

 虫や微生物によって肉が腐って分解されれば液状化リクヮデイションするように、その個人の所有物や財産、或いは負債や勘定なんかも清算リクヮデイションされて、その人物の罪と負債が弁済リクヮデイションされるように、その肉も精神も社会的身分も同じ原則で処理されているのだと……十歳かそこらの女の子がそこまで思ったかは定かではありませんが。

 人もまたコヨーテや虫と同じように、次の世代の土壌ゼムリャとなる腐敗していく肉に群がるのだな、くらいには思っていました。

 だからウトウトしていた頃に、若い女刑事が「お おはよう 何か見てなかった?」と話しかけてきたときは、何かが悪くなって逃げ出してしまいました。

 本当は、その娼婦が殺されるところを黙って見ていたのですから。

 殺人者と被害者は、なにか口論をしていたように思います。あんた、私を誰だと勘違いしてんの? だとか、いい加減にしなさいよ! だとか。殺人者は一人でブツブツ何かを言っていましたが、おもむろに拳銃を取り出すと、わりあい静かな銃声がして、眼の前には撃ち殻の空薬莢が転がってきて……まあその後の顛末は酷い話ですから、ここに書くのはやめておきましょうね。

 それで、女の子はというと、映画を見ているような気持ちでした。よく寝る場所に困ったときにはチケット売り場をすり抜けて深夜の映画館で暖を取ることも多かったのですが、そのため女の子は結構映画を見る機会が多くありました。だいたい、不必要にセクシーな女性が出てきたり、恐ろしい怪物が出てきたり、ぴっちりしたスーツに身を包んだマンガのヒーローが登場して、銃を撃ったり、人を殴ったり、爆発もたくさんあって、殺したり殺されたり……。食べかけのポップコーンや飲みかけのコーラもよく落ちていましたからそういうのを拾って食べながら……こんな娯楽を眺めていられるなんて、ここはなんて平和で心地よく(見つかって追い出されるまでは)いい場所なんだろうと思うのでした。

 映画では、事故でもない限り、実際に人は死なないのですから。

 かと言って、そこまで斜に構えているわけでもなく、やっぱり物語はどこか真実味があって信じられるところがあったり、馬鹿馬鹿しいところはウソっぽく、空包を撃って銃声のSEが鳴り弾着の血糊が吹き出すのでした。

 空包で、あるいは銃を撃ったフリをすると「バキューン!」とサウンドエフェクトが鳴り人が死ぬ(演技をする)という力学が、物語フィクションの面白いところです。

 現実はそうではありませんから。

 殺人者はコトを終えたのちに女の子の存在に気付きました。黒檀の髪を後ろで束ねて、昼と夜がいつも混ぜこぜになって、区別が付いてないような感じの人でした。長い睫毛の吸い込まれるような瞳をして、革手袋から転がっていた空薬莢をつまみながら、

「これは、君にプレゼントしよう」

と言ってそれを地面に置き、目を狐のように細めて笑いました。殺人者は静かに闇に消えていきましたが、女の子はなんか嫌だったので薬莢には触らず、そのままにしていました。(と思っていたら、件の女刑事がやってきて薬莢を拾っていったというわけです)

 というのが一年半くらい前の話でした。生きるのに精一杯でその事も大分忘れていたのですが、それを思い出したのは偶然、街の外れで殺人者を再び見かけたからでした。

 殺人者は橋の下にコンテナハウスを借りていました。住んでいるという感じではなく、女の子と同じ家なき子でした。たぶん世界中を転々としていて、この辺りに立ち寄った際の寝床として使っているという風でした。目が合って、殺人者はニコリと笑い「やあ」と挨拶しました。

 女の子のアーモンド形の眼の前で、殺人者はコンテナハウスの鍵を開けました。南京錠の暗証番号は1207。「僕の誕生日だよ」と言いました。潮風に錆びついた扉を開けると、静かに流れ始めるのはベートーヴェンの第十四番、『月光ソナタ』……の、第二楽章。その中には様々な国から密輸された銃と、様々なパスポートがありました。殺人者はそれらを物色しながら、必要なものを机から棚から取り出して、アタッシェケースに詰めつつ独り言のように、

「僕の先祖はバスク地方、フランス南西部からスペイン北部、アリスクンと呼ばれる小さな集落の大工だった」

聞いても居ないのに自分の物語を話し始めました。

「もしくは肉屋か縄職人だったのかも。要は、カゴだとかカナールと呼ばれる不可触民。彼らは隔離され、コップも教会の扉も聖水盤も別。裸足はだしで歩くことすら禁じられていた。彼らが触れたものは穢れてしまい、死や疫病ペストを運ぶものと考えられていたからね」

三年くらい前に、重症急性呼吸器症候群SARSコロナウィルスが中国の広東省から、アジアとアメリカ、カナダを中心に流行ったろ?

「何も変わっちゃいない、全部同じままさ。――冷戦が終わって、ここ十数年くらいはアフリカ諸国や中東、中央アジアに東南アジア、あとは東欧の辺りで仕事をしていたんだけど――、」

ソマリア、リベリア、コンゴ、南アフリカ。ユーゴスラヴィア、イラク、アフガン、レバノン。インドネシア、北アイルランドとかね。

「ペストとかコレラ、天然痘にエイズとか。アパルトヘイトに民族浄化。デマと迷信、隔離、分断、狂信者に宗教過激派、分離主義者……どこもいつでも人の為す事は似たようなものさ」

殺人者は抑声器サプレッサーの付いたマカロフ拳銃の銃身を覗いて、それが装填されていないことを確認して机の上に置きました。

「で、僕はそういうところに武器を売るわけ。拳銃からミサイル、戦車にヘリコプターまで。双方に売りたい理由も、買いたい理由もあるわけだから。つまり需要と供給ってやつだよね」

殺人者はコンテナハウスから海のほうを覗いて「あそこ」と指差しながら言いました。(女の子も一緒になって海のほうを見ました)

「見えるかなぁ、あの島。あそこには元々病院があったんだ。それこそ西部劇の時代にね。サンタクロース病院さ。要は船でやってくるとき、本島に病気が広まらないように。あそこでまず検疫・隔離したんだよね」

それで、当時は確か黄熱おうねつが流行ってたのかな。蚊が媒介するウィルス性の感染症だよ。(空では、白い渡り鳥がいていました)

「そもそも住民は居住区に程近い病院に感染症患者が隔離されていることや、死体が墓地に運ばれてくることに恐怖と不安を抱いていたわけだけど……ある時パニックが発生して、住民は暴徒と化し、藁やら焚き木を積み重ね――病院に火をつけて焼き払ったんだ」

この街では十七世紀に有名な魔女裁判があった。二〇〇人近くが魔女扱いされ、二〇人以上が処刑されたり、獄死した。清教徒的な抑圧からの集団ヒステリーが原因とも、麦角菌による集団幻覚が原因とも言われている。けれど、それはその時だって、そして今だって変わらないことさ。

「それで、何だっけな――ああ、事態の鎮圧と警備のために何十挺ものヴォルカニック銃が売れたんだよ。ヘンリー銃やウィンチェスター銃に繋がる、当時の最新式だぜ。手動連発銃と言えば精々六発の雷管パーカッション式リヴォルバーやハーモニカ銃だった頃に、拳銃なら十発、ライフルならその倍の数も連射することが出来たんだ」

今は、引き金を絞るだけで更にその倍の弾を撃ち続けることだって出来る。合衆国が規定するところの修正第二条、市民の武装権だよ。

「僕の生まれはベトナムの禿げた密林ジャングルの中のシャーマン戦車『ファイアフライ』で、育ちは三不管サンブーグヮン九龍クーロン城。それは、ひょっとして君も同じ……かな?」

その数珠のネックレスには見覚えがあると思うよ。君のお母さんかお婆ちゃんが付けていたものだろう。……あるいは、小母おばさんだったか忘れたけど……。

「『どうして?』とでも訊きたげな感じだね」

殺人者は女の子に小さなピストルを差し出しましたが、女の子は首を横に振って応えました。

「まあ何というか、身辺整理リクヮデイションというのもあるけど」

殺人者は必要なものをアタッシェケースに詰め終わると、ばちんとそれを閉じて言いました。

「その方がみんな面白いかな、って」


 ぢりりりりりん! と電話のベルが鳴りました。

 受付の女性がネイルを気にしながら受話器を取って、「はい、こちらアーカム市警察ですが」と言い「ご用件は?」と訊きました。公衆電話ボックスの中で女の子は、英語を話すのがあまり上手くありませんでしたから戸惑ってしまい……「はしのした ウノ ドス セロ シエテ」とだけスペイン語で言って、電話を切りました。

 受付の女性(女の子は知る由もありませんが、名前をスザンナと言いました)は最初いたずらだと思ったのですが……気になるところがあって同僚の女刑事を呼んで「あんたこれ、何だと思う?」と言って電話の発信元の場所と一緒に数字を伝えました。

 女刑事は受付の女性(タレコミ情報を聞いた重要参考人だとか言って、内勤を代わってもらいました)と一緒に車に乗って、現場に向かいました。まずコンテナハウスを見つけて、「あれの事じゃない?」と近付きました。それから地面を眺めていると、刑事は「歩幅……」と言って一年半前のことを思い出していました。

 受付の女性が南京錠を見て「これじゃない?」と言い、暗証番号を揃えると「ひらけゴマ!」鍵が開いて、二人は拳銃を抜いて慎重にコンテナハウスの中を調べました。

 女刑事がコンテナから出ると、パトカーから無線通信して、それで女の子が遠巻きに眺めていたら、あれよあれよと言う間に警官が集まってきて、ちょっとしたお祭りのようになりました。

「あっ、あんた。ちょっと」

受付の女性が女の子を見つけて、追いかけました。女の子は癖で逃げ出したのですが、すぐ捕まってしまいました。

「電話してきたの。あんたでしょ?」

何故かお互い、一目で分かってしまうのでした。

「あんた、お手柄だよ。連邦捜査局でも尻尾を掴めなかったのに」

辺りを見回すと、「ちょっと待ってな」と受付の女性は、近くの屋台からソフトクリームを二つ注文して「こんなものしかあげられないけど」と言って、女の子に片方をあげました。

(どうかこれが天上のアイスクリームになって

 おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに)

女の子はその時はじめて、この世で最も優れた食物を口にして――世界にはこのような素晴らしい事物が存在しているのだと知ったのでした。

「……そういや、あんた、おうちは……」

と女性が訊く前に、夢中でソフトクリームを舐めていた女の子は目を大きくして、ぴゅーと走って逃げ去ってしまいました。

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