* * * * * *
ピアノという楽器は平均律で調律され音の歪みを許容しながら和音を奏でます。それは純正律では得られない、多様で多彩な移調や転調を可能にしているとも言えます……この世界に様々な人たちが存在し、各々の生活を営んでいるのと、全く同じように。
灰色の猫の毛並みを撫ぜていました。
おもちゃ箱の中身のような部屋にはトイピアノ、トウシューズ、家族写真、アルバム、ぬいぐるみ、猫のおもちゃ、紅茶、コーヒー、お砂糖、スパイス、それから素敵なものがたくさん! ありました。
(お姉ちゃんの部屋にも、父さんのくれたテディベアがあったっけ)
アリスは棚に仕舞われているレコードを一枚取り出すと、それはアメリカという名前のバンドの『名前のない馬』というレコードでした。7インチのいわゆる「ドーナツ盤」のシングルで、もともとジュークボックス用なのか33RPMで再生する必要がありました。A面にはタイトル曲の『名前のない馬』と『カリフォルニアの仲間たち』、そしてB面には『サンドマン』という曲が収録されていました。
(『サンドマン』……ブラームスの『
アリスはトイピアノの鍵盤に指を置きました。いざ弾こうと息を吸った瞬間、ふと
「あなたは誰なの?」
その部屋の主はそう言いました。けれどそこに不安の色はありませんでした。アリスはすっかり驚いてしまって、それは目の前に居るのが、自分の知っている似姿の知らない女の子だったからです。
「――会った事、ある?」
覚えてくれてるわけないか。けれど
「ねえ、あなた――ひょっとして、」
(
アリスがそう思うと、ハンナは驚きつつも頷きました。
すっかり伝わってしまう訳ではないけれど。
そのために、人の持つ痛みや悲しみだとか、世界の
だけどあなたの考えてることは、普通の人ほどは分からない。
「だから驚いたの。あなたの心は透き通っていて、落ち着く」
アリスの屈託のない心は、光を屈折させず透過させるのみでした。
元来あまり、
ハンナのお腹がぐうとなって、アリスは鞄から紙袋を取り出し、テーブルに紅茶やコーヒーの準備をして言いました。
「これ、おいしいよ。ハロウィンや
それはたっぷりのオリーブ油で揚げられた、ハンナの作ったかぼちゃドーナツでした。その他にもバタをたっぷり使ったクッキーですとか、アップルパイにシナモンロールはもちろん、カスタード・プリン、お饅頭、どら焼き、カステラそれから、
「甘すぎるのは苦手」
痩せ細った女の子は骨と皮でしか出来ていないように思えました。
それでもハンナは、
「……ねえ、あなたにはきっと大切な人が居て、」
冷蔵庫のピザ生地や
「そして、ひょっとすると、もう二度とその人に逢えないのかもしれないと感じ始めているのね……?」
「…………」
二人はそれぞれ、静かに紅茶とコーヒーを飲みました。アリスがダイナと呼び、ハンナがけむりと呼ぶ灰色の猫が、遊びたそうにトウシューズを咥えて持ってきました。
「聞いてもいいかな。あなたは、どうしてバレエを?」
わたし? ハンナは突然訊かれて戸惑いましたが、少し悩んでから、
「私は宝石になりたいと思ったの。宝石になれば愛されるんじゃないかと……だけど本当はね、あの人との赤ちゃんが欲しかった。それで、そう思って、……【月のモノ】が来ないから……お医者様に行ったのだけれど……、」
ハンナはコーヒーの
「……私には、子供が、作れないと……」
その時はショックだったと思う。出来ることがないから、やっとの事で諦めはついたわ。結局、無い物ねだりなんだろうと思うけど。
「私は何も、特別になりたかったわけじゃないの。ただ他の人と同じように、愛する人と結婚して、――あるいは子供を産み育てて、家族と苦楽を共にして……それって、そんな
人々は幻想に期待して現実に落胆するけれど、私たちは幻想に幻滅して現実に期待してしまっている。
「ねえ、わたしの知らない私は、……あなたにとって、そんなに大切な人だったのね」
アリスは、ぽたぽた涙を零していました。大切な人が遠くに行ってしまって、もう二度と会えないという事を覚え始めていました。
「私、あなたのこと、思い出した。むかし夢の中で、どこかの森の中で出会ったことのある女の子。一人ぼっちの迷子の私を慰めてくれたよね」
灰色の猫がにゃあと鳴きました。遠くに感じるのは海の気配。ハンナ手作りのクッキーは、塩を少しだけ混ぜる事で甘さをより強く感じるものです。アリスはその涙を手で拭って言いました。
「あなたに渡すものがあるの」
アリスは呼吸を整えると、再びトイピアノの鍵盤に指を置きました。それはドイツ語で歌われる『ベツレヘムに生まれたもう』と同じフランスのメロディの――、クララの夫であるシューマンが亡くなったのち、遺された子供たちのためにブラームスが編曲した『子供のための15の民謡集』の四曲目。
月の光に花も眠り
細い茎の上に
木に咲く花も ざわめいて
夢であるかのように
眠れ、眠れよ 我が小さき子よ
陽の光に小鳥は甘く歌い
小さな巣にその羽根を休める
トウモロコシ畑のコオロギも
静かに音を立てている
眠れ、眠れよ 我が小さき子よ
窓ガラスから覗いている
愛しい子供がはしゃいでいれば
その目に砂かけ眠らせる
眠れ、眠れよ 我が小さき子よ
眠りの精は部屋を出て
愛しき我が子は眠りに落ちる
小さきその目は閉じられて
再び朝には迎えてくれるだろう
眠れ、眠れよ 我が小さき子よ
「母さんの唄だ」
とハンナは言いました。まだ小さい私を抱きながら、お母さんがよく唄ってくれた子守唄。ハンナはアリスを抱きとめて、両の頬にキスをしました。その頭を撫ぜられながらアリスは言いました。
「あのね、……ハンナって呼んでもいい?」
「もちろんだよ」
ずっと一緒に居てあげる。せめてあなたが眠りにつくまでの間は。
「あなた、おなまえは?」
二人は頬を寄せ合って、砂糖菓子のように触れてしまえば壊れてしまうほど静かな声で囁きました。
「アリスです。アリサ・イワノヴナ・ソーンツェワ」
それはまったく双子の姉妹が、孤独と寒さに打ち震えて、寄り添いながら眠っているようでした。
「おやすみなさい……私の大切な、小さな迷い子のアリス」
互いの心臓の鼓動にいつまでも耳を澄ましていました。
* * * * * *
うっすらと粉砂糖を振りかけたように薄く雪の積もる朝、喫茶店では静かにコポコポとお湯の沸く音がしていました。甘ったい砂糖とコーヒーの匂いが漂っていました。
ちりんちりん! と扉の鈴が鳴って、冷たく澄んだ空気が温かな店内に滑り込みました。
頬はぼうっと赤らみ寒さに雪化粧して、吐く息だけがいつまでも白くありました。冬の陽は柔らかくあり、初めに
「おはよう、アリスちゃん」
ハンナはいつものようにニヤニヤ笑いながら、眠った子供を起こさないように「しーっ」と人差し指を唇に当てました。いたずらっぽく笑うチェシャ猫の耳たぶでは、真珠のような白珊瑚の輝きがちいさく煌めきました。
「ハンナさん、」
あなたは
そう問いかけようとして、やっぱりやめました。
アリスは、きっとどちらでも同じことなんだと思いました。
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