* * * * * *

 冬の柔らかな朝陽あさひが窓から覗いて顔を照らしたかと思うと、それは灰色の猫がそのザラザラした舌で顔を舐めてくるのでした。

「んん……やめてよ、けむり……くすぐったいってば、ふふ」

そこまで寝言でむにゃむにゃ言うと、がばっと上体を起こしました。

 くしゃくしゃの寝癖の髪の毛をした女の子は、くぁ~っと欠伸あくびをして睫毛を涙で濡らしました。寝惚け眼を擦りながら、習慣みたいにぼんやりと歯を磨いて鏡の前でうがいをしますと、大きな碧翠色の瞳をぱちくりさせて、知らない顔の自分を見て呟きました。

「……わたし、……あれ? 大きくなってる……??」

と呼ばれた灰色の猫が足元でにゃあと鳴きました。


 ぢりりりりん! と古めかしい黒電話が鳴って春野櫻子サクラコは受話器を取り電話口に出て「もしもし春野ですけど」と言うと、なんだか聞いた覚えのある声が取り乱しているのが騒がしく聞こえて、

「あー、ハンちゃん? なんや藪から棒に、急にどないしたん?」

「ハンちゃんて? さーちゃん、あたしのこと誰やと思うとるん?」

あ、と思ってサクラコは言いました。

「ああ、なんや、あっちゃんやんか」

「なんや、ってなんやねん。知らん呼び方やめてーな。――あんな、あたし、目が覚めたら急にせいが伸びててん。お父ちゃんも居らへんし。色々てれこなって、もう混乱してもうて……」

「ああ、そっちは朝かいな。うち今、しーちゃん、かなちゃんと遊んでてん。もう夕方うてもくらなってきてん、ほとんど夜みたいなもんやから、どないする、ご飯食べてく? とか言うとったとこ」

「しーちゃん、かなちゃんて……あー、えーと椎名麻美と杉村佳奈?」

うわーえろう懐かしい名前や。小学校からの幼馴染やったっけ?

「せやね。あっちゃんも確か会うたことあったんちゃう?」

「夏祭りと初詣のときやったっけ? うち正月と盆しか帰らんかったさかい」

正月と盆に帰っとったら、それで充分やわ。

「うわー懐かしい。あれなん、しーちゃんはまだブラスバンドで、かなちゃんはバレーボールとか続けとるん?」

「ブラバンいうか吹奏楽? バレーボールかハンドボールか忘れたけど……(かなちゃん何部やったっけ?)あっ兼部やって」

「わー変わらへんな。さーちゃんも茶道とか華道とか続けとるん?」

話が脱線してきたのでサクラコは襟を正し、わざとらしく咳払いをして言いました。

「あっちゃん、あんな、こうやって昔話に花を咲かすのもええけど……たしか国際電話ってえろうお金かかるんとちゃうん?」

え? うわー! (と表示機の数字を見てハンナは)また掛け直す! と言って慌ただしく受話器を切る音が聞こえました。

 ツー、ツー、ツー……という音がしばらく耳元で鳴って……サクラコは「ふー」と溜息をついて、

ひとってしばらく放っといても、あんま変わらんもんやなー」

そう口に出すと何だか変に安心して「ふふん」と鼻で笑ってしまい、二人から「誰やったー?」と訊かれたので「従姉妹いとこのあっちゃん」と答えました。

 手首に結び付けられた紅白の組紐ミサンガを無意識にいじっていました。


* * * * * *


 手首に結び付けられた紅白の組紐ミサンガを触りながらハンナは、とにかく状況を整理しようと思いました。

 いつものように目が覚めたら急に背が伸びて大人になっていたし、

 男っぽいというか中性的な服で……髪の毛も、短い気がする?

 お父ちゃんも見当たらんし……(お仕事かな?)。

 部屋の様子は、……大体いつもの感じだけれど、

 なんとなく、誰かが暮らしていた気配を感じる。……気がする。

 さーちゃんも特に普通やったし……国際電話は忘れとったなぁ。

 でも、他に誰に相談できる?

「そうだ、クレアは?」

ハンナは我ながらアイデアに感心して受話器を取り意気揚々と電話番号を押したのですが、うまく思い出せないのですが、なんだか不安になって静かに受話器を置きました。

「クレアに……わたし、クレアになにか酷い事を言った……気が、する?」

そしたらお腹がぐうと鳴って、猫も足元でにゃあと鳴きました。ご飯にしよっか。ハンナは猫を抱きかかえてキッチンに向かいました。冷蔵庫も変わってないや(けど、知らない筆跡のレシピがいくつか磁石で貼ってある……)。と思いながら扉を開けると、香辛料に漬けられた七面鳥ターキーが準備されており思わず面食らって「えーなんや今クリスマスなん?」と言ってしまいました。

 あたしもお父ちゃんによう味噌汁とか作ってあげてたけど。

 初めて作ったげたときは涙を流して喜んどったわ。

 けどなんか、すぐ食べれそうなの、あんまないなぁ。(でもコーヒーメーカーに温かいコーヒーがあったので、それを手近なマグカップに注いで飲み始めました)アップルソースとヨーグルトあった。

「あ。なんやろ、これ。パン?」

ハンナが手に取ったボウルにはピザ生地の種が寝かせてあり、すぐ隣にはピザ生地に塗るのであろう(ラップを取って匂いを嗅いでみました)ニンニクとハーブのチーズも手作りされていました。

 混ぜられたハーブはパセリ、芸香ヘンルーダ、コリアンダー。いわゆるモレトゥムと呼ばれるチーズ・スプレッドで、ウェルギリウス曰く【数多から1つへE pluribus unum】すなわち合衆国を象徴する成句でした。

「あたしの家で暮らしとった人は、きっと誰かに料理食べてもらうんが好きな人なんやろなぁ」

と、何の気なしに思いました。それからやや深刻そうになって、

「えっでも待って……情報を総合すると……あたしは男物の服を着ていて……お父ちゃんは居らへんし……知らん筆跡のレシピもあるし……皆で食べるような料理の準備があって……そ、それってつまり……」

カフェインのせいか分かりませんが胸がドキドキしていました。

「あたしって今、誰かと同棲しとる?!」

そんでお父ちゃん怒らせて、娘さんを僕に下さい! 的な?! きゃー! ――あかんあかん、十八禁やわ。頭冷やさんと、うわ外ごっつ寒そ、雪積もっとるやんか。やっぱクリスマスなんや。

「――ああ、そうだ、」

一番大切にしていたことを思い出しました。

「あの人に会いに行こう」

ハンナは緊張して、思わず唾をごくりと飲み込みました。

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