珊瑚と踊る

「どうですか。最近は」

カウンセラーのルイス・フランクリン医師は当たり障りのない質問から治療を始めました。若い割に白髪の目立つマイペース気味の彼は、クレアいわく、ハンナの父親に印象が少し似ていました。

「よしてよ、フランク先生。クレアにどうしても、って言われて来てるだけなんだから」

煙草は? 勤務中は吸わんよ。ハンナはニヤニヤ笑っていました。

「先生、またシャツ出てる」

「おっと」

ターコイズブルー色のシャツの裾を慌ててズボンに仕舞いました。看護師のエドは遠巻きにそれを見ながら「ボタンも留め忘れてる……」とボヤきました。

「記憶喪失にはもう、慣れた?」

「まあまあ」

表向きは全生活史健忘、解離性障害ということになっていました。麻酔分析療法も催眠療法もあまり効き目がなく、ハンナ本人も(というよりも、名前のないオバケカボチャジャック・オ・ランタンと言ったほうが正確ですが)あまり思い出せないことに困っていませんでしたから、彼女自身を取り戻してほしいのはむしろクレアのほうなのでした。

「まあ焦らず、少しずつ治療していきましょう」

 昔のものに触れてみるとか。

 おれには、思い出がないのに?

 友達が覚えていてくれてるよ。

 だといいけど。

 コーヒーは?

「くれるんなら、浅煎りアメリカンでよろしく」

「砂糖とミルクは?」

「甘すぎるのは苦手」

フランク医師が「エド、コーヒー淹れてくれ」と指を鳴らして、エドは「俺はウェイターとは違うんですけどね」と零しました。

「クレアはさぁ、」

マグカップのコーヒーがテーブルに供されて、それがコトリと音を立てました。ハンナは椅子に肘を付き指を唇に当て、中庭をガラス越しに眺めていました。

「きっと昔のハンナに戻って欲しいんだろうね」

その年のハヌカーは十六日から、つまり翌週にクリスマスを控えていました。雪の結晶が降り積もる頃でした。室内にはクリスマス・ツリーが飾られていて、誰かの作った雪だるまの人参の鼻が曲がっていました。

「ボストンじゃ毎年雪が降るんだものな」

山背ノーイースターが吹くからね。って聞いたけど」

「生まれはカリフォルニアだろ?」

「記憶喪失じゃなくたって覚えてないよ。小さいときにすぐ越してきたんだって」

先生だってフランス人でしょ? ここの生まれじゃなく。

「フランス系だよ。ルイジアナじゃ一昨年おととしの丁度今ごろ、百年ぶりに吹雪ふぶいたとか」

ふーん……とハンナとフランクは一緒になってコーヒーを口にして、ハンナはわざとらしく顔を歪ませて「にがぁ」と言って見せました。フランクは「ご飯食べてる?」と訊いて、ニヤリと笑い「考えとく」と答えました。

「雪のない冬なんて、想像も出来ないや」

名前のないオバケカボチャジャック・オ・ランタンがコーヒーの水面みなもに映る知らない自分の顔を見つめて、ポツリと零しました。


「あの子は良くなってるよ」

「そうですか?」

「うん。心を開き始めてる」

 結局はお互いの信頼の話だからな。

 信頼ですか。(エドは眉を上げ、内心呆れたように言いました)

「おれはこの五年でずいぶん人間不信が続きましたよ」

「なんだ、お前もカウンセリングか?」

カウンセリングが必要なのは俺じゃない、イスラム・アレルギーを起こしてる社会のほうだと思ってますよ。

「それもそうだ。つまるところ個人と社会の関係だ」

「ええ、いや、まあ、そういう話でもなくて。もっと私的なことで」

「お前の姉貴か」

ポケットから両切りのジタンを取り出しました。ネクタイがちゃんと結ばれず曲がっていたのが気になって、エドはそれを直しながら言いました。

「センセ、こういうネクタイもさ。おれの姉ちゃんに直してもらったらどうですか」

エドは気付いてきていました……。先生は一見、アラン・ドロンとかジャン=ルイ・トランティニャンみたいな深遠な顔付きをした細身のイケメンでモテそうだけど、その実、生活がものすごくダラしない事に。カルテにはコーヒーの染みが付いているし灰皿も気付けば吸い殻だらけ。シャツも裾からはみ出してネクタイの結びはプレーン・ノットだけ。今日だってよく見れば靴下が互い違いだし、胸ポケットに提げたメガネを取ろうとして空振りするのも何度も目撃しましたし……だから姉に「イケメンを紹介する」と言った手前、ちゃんとしてもらわないと困るのでした。

 フランクは少し冷めたコーヒーを一口飲んで、満更でもないといった表情でタバコに火を点けると、

「考えとくよ」

なんて勿体ぶって答えました。


* * * * * *


「……とまあ、そういう訳で。まるで俺が先生の女房役よ」

「気苦労が絶えなさそうな職場だな」

もう俺ってさ、どうすりゃいいかな? 喫茶店でエドは店主のアルバートにボヤきました。井戸端会議も立派な情報交換で花粉媒介者ポリネーターも蜜を介して受粉させるわけです。

「そりゃもう、愛よ、愛。料理が大味で俺より射撃が上手くて、ちょっと度を越して世間知らずなところも含めて愛しい気持ちになってくるわけよ」

「あー、またノロケだー」

ギルがまた大口を叩いてハンナが茶化しました。

「気苦労で言えばさ、おれは実際、職場の外で患者と会うのもどうかとは思ってるけどさあ」

「固いこと言わないでよ、もう割と友達じゃん」

「その言い方はなんか含みがあるな……」

エドはちらと腕時計を見て言いました。

「あ、やべ。そろそろ戻らなきゃ」

を待たせてるのか?」

「勘弁してくれよ。下手したらそうなりそうだけどさ」

「あとでまた暇なときゲームでもやろうな」

エドが挨拶もそこそこに帰ろうとすると、ちりんちりん! とドアの音が鳴って入れ替わりにやってきたレベッカとぶっつかって互いに「あ、すいません」と言ってそそくさと捌けていきました。

 レベッカはエドの後ろ姿を目で追って言いました。

「あの人の着てらったセーターの柄……なんか可笑おがしくがった?」

エドは見た目が完全にアラブ人であることから周囲から警戒されているのではないかと神経質になっていて、ピンク色のシャツとか見たこともないキャラクターの描かれた服を着ることで無害さを演出しようと適応していました。

「なんでぁベッキー、まだ一目惚れだが。えらすぐねァごど」

「おれがえらすぐねァならんがさがりづいだもぢゃぽいなすだぢゃ。ただ、何処どごであったら服買ってんだが気になっただげでヨ」

「んだら、行っで訊いでみだら良がべ」

姉のシェーラに言われるとレベッカは目から鱗の出たように、黙って後を追いかけていきました。外の空気は冷えていて、雪がちらつきはじめていました。

「雪が積もると客足が鈍るな」

「たまには良いんじゃない? 人間が働くのは少しでいいよ」

「バイトは気楽なもんだ……」

普段よりチップが少ないシェーラにとっては死活問題でした。食事は賄いで済ますので、趣味の漫画やゲーム・アニメ、それから服飾や化粧品などに使う分が減ってしまう程度の意味でしたが。

「俺たちも二人の時間が欲しいから警察辞めて私立探偵PIになったら? って勧めてる」

「でもイリスさんキャリアに全く興味無いでしょ。森で生きていけるんだし」

「俺がもっと稼がなきゃいけないかなぁ。芝生のある家とか買ってさ……そんで大きい犬も飼ってさ」

「あ、またノロケだ……」

 ちりんちりん! と音が鳴ってヘンリーが、「いやー寒い寒い」と言いながら真っ黒い袋を携えてやってきました。

「なんだその袋は」

ビニル製の黒いそれはあらゆる光を通さず、まるで昔のカートゥーンに出てくる爆弾みたいでした。

「部屋を掃除してたら見つかったんだよ。ひょっとしたらアルのなんじゃないかって」

ヘンリーが袋の中を開けて見せると、その中には特撮映画のVHSが十本以上はありました。

 見せてみろ、と言ってアルはおもむろに爆弾解体を始めました。それは慎重かつ大胆、そして『パルプ・フィクション』でアタッシェケースを開けたときみたいに光り輝いておりメガネに反射しました。(少なくとも、アルの主観的イメージにおいては……)

「すごい、日本のオリジナル版じゃないか! 保存状態も良い……『ゴジラvsヘドラ』に『ガメラ2』それに『ウルトラマン』まで!」

すごい、スーパーファミコン版のゴジラも、と呟いたところでアルはと気付いてハンナにVHSのパッケージを見せながら、

「これ、何年か前におれがお前に頼んだやつじゃないか?」

と訊きました。

「えぇ? たぶんそうなんじゃない? 時期的にほら、おれは忘れてるかもだけど」

それもそうか、とアルは独り言ちましたが「ここ数年でゴジラシリーズのDVDがこっちでもかなり出始めたが」と付け加えた上で、兎にも角にも「このVHSはかなり貴重なものだ!」という事を褒め称え、あらゆる感謝の言葉を尽くしプライスレスな代価を支払っても、どうしたってハンナにとっては他人事のままでした。

「まあでも、そんなに喜んでくれるんだったらきっと良かったよ」

「これってどんくらいすごいの?」

とヘンリーが暇そうなシェーラに訊いて、

「んー? あーほら、一昨年おどどしに『最前線物語』の再構築リコンストラクション版が出ますたけんど、それさくわえで『ベートーヴェン通りの死んだ鳩』のディレクターズ・カット版が発掘されだぐらい、すンごい」

と、ちょっと盛って答えました。

「『死んだ鳩』はまだ短縮版しか出てないんだっけ?」

シェーラは内心ビックリしましたが、平静を装って、

「あーはい。自伝さ書いでらったけど、冒頭でキャスト・クレジットが道化ピエロさ扮すてらシークエンスとかが、劇場公開版だとくて」

「『ホワイト・ドッグ』もソフト化してないよね」

「はい、たぶんVHSしか。『夜の泥棒たち』とか『デンジャー・ヒート/地獄の最前線』も、まだ」

「『夜の泥棒たち』は見たことあるよ、フランス語版だけど。トリュフォーの『ピアニストを撃て』オマージュって感じだった」

マジすか、あれってどったら映画なのスか、とシェーラが訊いて、

「うーん、主人公は無職のチェリストなんだけど、ステージでの演奏に憧れてて。職業安定所で騒動を起こした女性と恋に落ちて、職安で彼女を苛めてた職員……といっても仕事なんだから普通なんだけど、彼女の主観では意地悪されてると思ってて。その職員に復讐したり美術品を盗んだりするんだけど……って、ネタバレ大丈夫?」

「はい、平気です。おらサンタクロースを信じでらった事ないので」

「すごい」

えーと何の話だっけ、とヘンリーが言いました。

「偶発事故的に覗き魔が死んでしまって警察に追われることになって、結局終盤は『ピアニストを撃て』よろしく雪景色の逃避行になるんだけど。主人公は最後、ステージでチェロを演奏するために、暴力を行使する! その辺がフラー節って感じだよね」

『最前線物語』とか『1941』のボビー・ディ・シッコが主演で……ヒロインのヴェロニーク・ジャノは僕としては歌手の印象が強いかも……あ、でも『未知の戦場/ヨーロッパ198X』でアラン・ドロンと共演してたな。マルタ・ヴィラロンガとかステファーヌ・オードラン、それに奥さんのクリスタ・ラングも出てるよ。

「ああいつもの」

シェーラは一部分からない話もありましたが「語り得ぬものには沈黙せねばならぬ」の原則に従って分かったおべだフリをしていました。ここから話が展開し二人の物語が進行するかと思いきや、


 ちりんちりん!


と音が鳴って、皆は一斉に音の主――ヘンリーの妹であるクレアのほうを向きました。

「や、おはよう。何の話?」

「ん、おおよそでは映画の話スてらった」

「映画?」

クレアは視界の先に爆弾の黒い袋を見つけて「あー」と言いました。

「お兄ちゃん、私の部屋に入ったの?」

「え、ごめん。いやほら掃除してたら返すものとかも出てきたし」

ヘンリーは初手で謝っておきました。「全く、もー」とクレアは怒ったフリをしてシェーラもニヤニヤと「そら、えらすぐねァがもんね」と心の奥底で思って、同調しました。

「ほらもう帰るよ。今日が〆切で原稿ヤバいんでしょ」

「コーヒーの一杯くらい飲ませてくれたって良いだろー」

現実逃避させてくれー、サボらせてくださいー、と言いながら妹に引きずられていきました。

 また「ちりんちりん!」が鳴って帰る時、クレアは入口横にある雪だるまの鼻が曲がっているのが気になりました。

「え、あ。ちょっと」

その様子を見ていたハンナがコーヒーを飲むギルの横を通り抜けて(走れ、フォレスト!)駆け寄りました。しばらく吐いた息だけが白くありました。

「大丈夫?」

ハンナは訳も分からずそう言いました。

「大丈夫って、何が?」

クレアも何だかきょとんとしていました。

「え、いや。何となく」

ハンナは心の底の違和感を拭えないままでしたが、ヘンリーがくしゃみをしたので時間切れとなり、クレアもなんだか、

「優しい所は変わらないのね」

と、ちょっと困ったように笑って言いました。

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