ホトトギス鳴くや五月のあやめ草

「あの、猫を飼いたいときの申請窓口ってここで合ってるんでしょうか」

警察の事務の窓口に灰色の猫を抱えた赤毛の女性が言いました。

動物虐待防止協会ASPCAから一部業務を引き継いでいるから、まあここで申請できなくもないわよ」

でも、犬じゃなくて猫でしょ? 無駄足だと思うわ。無意識にペンのはじっこを噛みながら、浅黒い肌をした窓口の女性が答えました。

「野良猫を拾って……」

「この街に野良猫なんか居ないわよ」

「え? でも街で見かけるのは……」

「居ないのよ。アレは全部、書類上は飼い猫。首輪は無いけど。マイクロチップが埋め込んであるから調べれば分かるわ」

「全部が、ですか? それは一体、誰の」

「それは個人情報だから教えられないわね――」

ぐいと身を乗り出して窓口の女性がひそひそ声で教えてくれました。

「――名前くらい聞いたことあるでしょ。ガーネットよ。あそこの若い娘が、突然、野良猫の保護を言い出してね。殺処分は可哀想だからと、ぜんぶの猫を彼女の所有としたのよ」

「そうなんですね」

「そう。だから、その猫も、たぶん彼女の所有物。金持ちのすることは分からないわね」

まあでも一応調べてみましょうか。機械も使わないと錆びるしね。事務の女性は棚からなにかバタバタと取り出して、あくびをする灰色の猫にしばらく、かざしてみました。

「反応しないわね――もしかして、本当の野良猫かも」

「よかった、」

「よかった?」

「あ、いや、人のじゃなくて」

犯罪になっちゃうから。

ふん、まあそうね、(愛想のない事務の女性は、ここで初めて少しだけ鼻を鳴らして笑いました)

「名前は?」

「この子ですか? ダイナです」

「違うわよ、あんた新人? 制服のノリがまだ新しいわ」

「あ、はい。ソーンツェワ巡査です」

「あたしはマクローランよ。スザンナ・マクローラン」

「私はイリス――いえ、アイリス・イワノヴナ・ソーンツェワです」

「ロシア系?」

スザンナはさらさらと書類に記入して言いました。ペンを噛むのが彼女の無意識なクセのようでした。

「はい。母は、イングランド系ですが」

「じゃあ発音はイリスの方が近いか」

はい。マクローランさんは――、

「誰も私をマクローランさんなんて呼ばないわ」

スザンナは「ん」と言ってイリスに手続きの書類を渡しながら、言いました。

「スーでいいわよ」


* * * * * *


 そういうやり取りをしたのがもう二年前になりました。イリスは刑事に昇格しスザンナは同じ事務の椅子に座り続けていました。刑事への昇進は異例の速さでした。

 薄暗く湿った路地でイリスは、女の死体の顎を触っていました。ぶたれた痕はなく、転んだ形跡があり、脚には銃創が残っていました。

 殺人課課長のジョー・ハツシロ警部補は現場保存の巡査から上がってきた情報を読み上げるように言いました。

「ガイシャはベトナム系……財布の身分証明書によれば、名前はリン・ホア=クク。未婚。もと娼婦で、年齢は四、五〇代といったところ。ということは、犯人は怨恨を持った帰還兵か?」

「犯人は女性ですよ」

「何故分かる?」

「体重のかかり方と、歩幅です」

イリスは足跡を指差しながら説明しました。

「女性でなければ、5フィート4から6程度の小柄な男性、あるいは子供」

「子供?」

「あっいえ」

 なんとなくそう感じただけで……。

 滅多なことを言うなよ。

「凶器は銃か?」

「でも首元に絞めた痕が」

「撃ってから絞めたのか」

「たぶん」

「至近距離での発砲か?」

「銃創に火傷はありません」

イリスは血痕から撃った位置をだいたい想像しててくてく歩いていくと、かがんでゴミ箱の陰から目当ての物を拾い上げました。

「ありました。9ミリの鉄製です」

「ロシア製か」

「ロシアとか、あるいはブルガリアとか」

(あれ? でも この薬莢、なんか変だな)

その灰色の薬莢には施条痕のような三つの爪痕が残っているのでした。なんだろ? と思いながらイリスは薬莢を鑑識の袋に入れました。

「ロシアン・マフィア絡みにしては怨恨の線が強い気がするな」

「プロの犯行かも」

「なんでまた」

「何となく。腕が良いので。この距離を一発です」

イリスは指でピストルを撃つ仕草をしました。お前のカンは当たるからな。

「だがプロなら近付いて首を絞めないんじゃないか?」

「それが謎で」

イリスがふとゴミ箱の陰を覗くと、なにか蠢くものがあって退避たぢろぎました。

「お おはよう 何か見てなかった?」

それは薄汚れた身なりをした女の子でした。眠りを邪魔されて不機嫌そうな猫のように目をぱちくりさせて、くるくるの天然パーマにツギハギだらけの(元は白かったのであろう)ワンピースを着ており、黒人ともヒスパニックともアジア人ともつかない浅黒い肌をしていて、なにより、裸足はだしでした。

「あっ」

とイリスが言わない間に女の子はぴゅーと逃げ去ってしまいました。

「……子供……」

「どうかしたのか」

「いえ」

あとは鑑識と検死に任せよう。指紋が出るとは思えんが、足跡と薬莢は残ってるわけだしな。「はい」と答えてイリスは続けました。

「ハツシロさん、警部に昇進するんじゃないですか?」

見事な白髪で初老の警部補は意外そうに眉を上げました。

「そういう話もあるな」

今は、署長の席が空いているからな。警部補は襟足の辺りに手をやりながら続けました。

「だけど警察署長なんて俺の柄じゃあないよ。そのうち誰かに決まるんだろうが、ああいうのは、みんな政治だ」


* * * * * *


「よっ」

と言ってスーはイリスの肩を叩きました。

「今晩、暇?」

「空いてるよ」

スーは馴れ馴れしく肩を組んで言いました。やっぱり煙草とコーヒーとそれから香水の匂いがする、とイリスは思いました。

「ちょっと付き合えよ」

「またお酒?」

いいじゃん。あんた強いんだから。

潰れるまで酔うのはやめてよね……責任取れないんだから。

「十九時に前と同じパブで。遅れてもいいけど来ないんなら連絡頂戴よね」

イリスはふと目に入ったものですから、スーの左手首を指して、不思議そうに言いました。

「腕時計壊れてる」

「ああ」

スーも意外そうに腕時計を見て、それを外しながら答えました。

「これは良いのよ」

スーは壊れた腕時計をデスクに置くのでなく、そのままゴミ箱に棄てました。

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