* * * * * *

 空がぱちりと瞬きをすると、一滴の雫が零れました。それは秒速六メートルほどの速度で、やがてその寒さに結晶化し、雪となって地上に舞い降りました。

 あめの落ちる音がしたからです。明けの明星が浮かんでくる頃、春野櫻子サクラコはサクサクと音を立てさせつつ草履で霜柱を踏み壊しながら、

「なんで徒野あだしのって小高いとこにあるんやろ」

と、ぼやきました。山道の途中には桜の花が狂い咲いておりそれは実際のところ裸の枝に降り積もる雪の白の反射光なのでした。桜の枝には絡みついた枝々が鳥の巣のように蔓延はびこっており、

「テングス病なんよ。ソメイヨシノは」

それは魔女のホウキでした。日本の桜は接ぎ木でクローンされており、ウィルスが同じ遺伝子の個体群にその感染を広めます。内定の決まらない就活生たちが同じようなスーツに身を包み、うごめいています。腕時計とはじっさい手錠で、一組のと道連れを拘束するために見えない手錠のもう一方の先をぷらぷらとさせているのでした。

 眼下に広がる街の風景に、サクラコは「あそこ」と川の向かいの駄菓子屋を指差します。

「お祖父じいのお店や」

会うたことあらへんけど。店の家屋も全部手前で建てはったんやって。あれは立派な人やったっておばあが言うとったわ。サクラコの手首にはハンナが昔付けていたものと同じ紅白の組み紐ミサンガが結ばれていました。

 新聞紙にくるんだ花束がくしゃりとして鳴りました。サクラコはアメ底の草履をぺたぺたさせながら、

「便利なんよ。滑らんくて」

入り口にある蛇口を捻り桶に注ぎました。水は冷たくて凍るようで、小さなも垂れ下がっていました。白んできていて、東の空に朝日が昇るのだろうと思われました。

「あっちゃん、左利きやったっけ?」

手桶の持ち方からそう訊かれました。水面に映る自分の姿は鏡のようで、まるで左右がになり知らない人のようでした。

 春野家乃墓と楷書体で彫られた墓石の前に立ち止まりました。やっぱりその文字も自分の知っているものの鏡映しでした。この世界はよく似ているで、自分はやはりからやってきたのだ。と誰でもないハンナは思いました。

「人って、死んだらどこに行くんやろか」

独り言みたいにサクラコは言いました。

「たぶん、向こう側に行くんだよ。鏡の国に」

「鏡の向こうに別の世界があるんやろか」

を水面の境界に突っ込んで汲み取りました。揺れた水面は波紋を生んで、あの世とこの世のさかいを曖昧にしました。

「あるよ。あっちじゃ、右と左だけが逆なんだ」

「右も左もてれこなってもうたら、あちこち彷徨まよってまうやろなぁ」

だから、きっと森では道案内してくれる存在が居るんだよ。あすこは境界リーメンそのもので、向こう側とこちら側とを繋いでいる。今いる向こうの世界アルテルモンドとよく似ていて、僕たち、俺たち、私たちは死んで生まれてはを何度も繰り返している。蝶の夢なのか、天使の夢なのか。そこに違いは無いんだよ。

 ぱしゃりと水がかけられました。墓石は冷たそうに震えて隣のお地蔵さんにも水をかけてやりました。長男なんやて。陽一さんは次男。産子おぼこくて行かはったさかい、地蔵さんを置いたんやと。

「地蔵って?」

あっちゃん、知らへんの? 梵字サンスクリットでクシティガルバ言うんやで。地面ぢめんのぽんぽん。言うても御母おかんのな。ちっこい子が親より先に死んでまうと、三途の川を渡れへんから、鬼から地蔵さんが守護まもってくれるんやと。くなとの神さんともよう似てはる。

「――じゃあ、は渡れなかったのか」

と、ハンナは自分に言いました。

「しかし、おばあも、難儀やなぁ。急に胸が痛い言うて入院するんやから」

術後の経過は良いようでした。「おばあ」は自分のことよりも店のことばかり心配していて、配られた『退院時アンケート』の「入院期間」の項目を見て、……ごく他愛のない会話を交わしました。

 病院に搬送されたのが一〇日だから……。

 未明の翌日からやし、十一日からやない?

 ――そうとも言えるかも。

 一〇日から二十三日やから、二十三ひく一〇は…………、でも手術が一〇日の夜で、入院自体は十一日からやし。そしたら、ええと、十二日間?

 ううん、やっぱり一〇日からだよ。ほら、(ハンナは指折り数えて言いました)一〇、十一、十二、…………二十一、二十二、二十三。それで十四日間。

 あ、ほんまや。単純に二十三から一〇を引いて考えとったわ。アホやなー、ウチ。

「ね。お見舞いに行ったのにお年玉まで貰っちゃって」

「あっちゃん、一昨々日さきおとつい、誕生日やったやろ」

今日が旧正月やから。おばあはそういう事ちゃんと覚えとんねん。

「あるいは店番のバイト代ってところかな」

「商売人やからな。うちの家系いえは、何かしら計算高いとこはある」

 サクラコは花束を墓に供えると九輪のうちから一輪の花を地蔵の前に活けました。二人は手を合わせて拝みました。ハンナはこっそり目を開けてサクラコの顔を盗み見ました。するとサクラコも同じことをしているのでした。二人は見合って笑いました。

 リンゴの頬からあふれた呼気がぼうっと白く浮かびました。


* * * * * *


 線香の煙が漂っていました。寒桜の雪化粧も陽射しに溶けて、可視化された溜息、あるいはシャボン玉がふわふわと室内から縁側のほうへ飛んでいっては虹色に分光しやがて弾けて消えました。

「冬は乾燥しよるなー。リップクリーム、塗りすぎてもた」

 こたつの上にはミカン、賞味期限の過ぎた駄菓子、冷凍庫の奥で眠っていた時化しけた淡緑色のアイスクリン、壁のカレンダーの横にはクリント・イーストウッドのポートレイトが飾ってあって、猫はにわかに集まりだし、ハンナはその灰色の毛並みを撫ぜてやりました。サクラコはミカンを剥いて一粒食べました。

「切れたんやね、ミサンガ」

あ、うん。気付いたときには、いつの間にか……。「切れてもうたら、また結び直せばええ」サクラコはハンナから切れた手首飾りを受け取ると伏し目のまま手元で紡いで言いました。

 昔な、おばあがシロって呼んでた猫が居ったんよ。首輪も付いとらん、ニボシを投げても喰い付きもせんような、ひとりぽっちの野良猫やった。おばあが煙草を吹かしとると、どこからか庭先に歩いてきてな。目もくれんと、無愛想ぶあいそに通り過ぎるだけなんやけどな。

 でもある時からぱったりと来んくなった。おばあは最近シロを見いひんなぁ、車にでも轢かれたんやろかーなんて言うて淋しがっとったんやけど、その子な、けむり、灰色の猫が来るようになって、おばあは、ああきっと、シロにできた子供なんやな言うて、本真ほんまのとこは分からんけど、そう想像して、可愛がることにしたんやと。

「あかん、まだベタベタしよる」

「アイスの食べすぎだって。それとも、石鹸?」

「アイスクリームやのうて、リップクリーム。人の話聞いとる?」

サクラコは少しむくれて、薬指で自分の唇をいじいじしました。

「ウチもそうやって、いずれ結婚して子供産まなあかんのやろか」

ハンナはもくもくとミカンを食べながら答えました。

「どうなんだろう。おれは、ひとにそういうだと見られると思うだけで、ゾッとする」

するとサクラコはほとんど動物的なはやさで、不思議そうに、ハンナの両頬をがっちり包んでその瞳の奥を覗き込みました。


 勝って嬉しい花いちもんめ

 負けて悔しい花いちもんめ

 あの子が欲しい あの子じゃ分からん

 相談しましょ そうしましょ


 かごめ かごめ

 籠の中の鳥は

 いついつ出やる

 夜明けの晩に

 鶴と亀が滑った

 後ろの正面だあれ


、……ハンちゃん、目ェの色、変わった?」

白鳥オデット黒鳥オディールは同じ人が踊るものね)

「え、なんで?」

(だけど私はあくまでオデットの偽物なの。完璧な偽物を演じなくてはならないの)

「前は、も少し翡翠ヒスイみたいに緑がかったあお色やった」

サクラコは「今は、空色みたいな青や」と続けて、それから思い出したようにハンナを解放しました。あーびっくりした。目の色が変わるのはたまにあるらしいよ。メラニンの量がどうこう。瞳孔?

「ハンちゃん、好きな食べ物は?」

「え。タコ焼きとクラムチャウダー」

「嫌いなのは?」

「嫌いっていうか苦手なのは、つるんとしたゆで卵。表面がボロボロだったり、切ってあるのは平気」

(……そこは変わらないんやな)

「ハンちゃんは小さい頃ウチからあっちゃんと呼ばれていましたが、その理由は何?」

「えっクイズ? わかんないよ、よく『あ』ってどもりがちだったから?」

「正解! では次の問題です」

「なんなのもう」

「むかしウチと一緒にビデオ買いに行ったとき、あれは盆の頃やったな、ウチがアイスを渡したあと、ハンちゃんはなんと言ったでしょう?」

「えー……? 『ありがとう』とか、『つめたい』とか?」

「――……ふぅん……、(サクラコは一度切れたミサンガを直し終わると、それを手元にじっと眺めて、それから言いました)……ハンちゃんは、仮令もしまたに行っても、ウチに逢いに来てくれる?」

「そりゃ、もちろんだよ。正月と盆には、きっと」

「ほんならええわ」

はい。と言って☦傷跡の残る手首に結びつけました。

「……まだベタベタしよる」

サクラコは薬指で、それからほとんど動物的なはやさで、

「ハンちゃんにあげたるわ」


 ハンナは再び吃驚びっくりしてミカンを落としてしまったのでした。


* * * * * *


 昇る朝日の海岸に、赤いカエデの女の子は訊ねました。

 あなたは黒鳥? それとも白鳥なの?

「わたしは黄色い小麦なの。

 陽に焦がされて黒くもなるし、

 磨り潰されるために白くもなるわ」

「わたしにはあなたが分からないわ」

 赤毛の女の子が困ったふうにそう訊くと、

「ブセデル、アナッフヌ ナ・アセー レハキール コル・エハッド」

え? と言って戸惑う彼女の頬にキスをしました。

「これから分かり合えれば、いいよ」

明けの明星の輝く東の空の水平線に、宝石の女の子はいたずらっぽく笑って、そう囁きました。

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