* * * * * *

(さて、今日はみんなでイースターエッグを綺麗に塗って飾っていきましょうね)

先生が言いました。小学校の頃の思い出かもしれません。あるいは私か、彼女の夢かも。白い蝶がひらひらと飛んでいました。

(ハンナさんは、どんな風にしているのかな?)

再び先生が言って、彼女の手元を覗き込みました。クレアもそうしました。ハンナは玉ねぎの皮で赤黒く煮出された染め卵クラーシャンカの殻を絵の具マリュヴァーティで、一心に真っ白く塗りつぶしていました。

 それはひかり

 ハンナは首を横にふるふると振りました。

 卵は、だったんです。

 たとえそれが表面メッキだけでも。

 黒鳥は白鳥にならなくてはいけなかったんです。

 クレアは自分の手元の卵を見ました。

 死んだ雛鳥が孵っていました。


(誰がコマドリを殺したのか?)


 バレエコンクールで入賞を逃してからの日月は恐ろしく早く過ぎていった。高校に上がって二年目、ヨーイチさんはアフガンに続くイラク戦争の取材に向かった。そして二度と帰ってこなかった。

 行方不明になったのだ。新聞やニュースでもちょっとした騒ぎになって、だけど(だから)ハンナは、ぼうっと遠くを見つめていた。その頃からハンナはだんだん暗く、好きだったバレエの話もしなくなった。ただ拒食だけが残った。「ネコに引っ掻かれたんだよ」と、よく言い訳するようになった。泣き虫で、わがままで、痩せっぽっちのハンナ。

 ヨーイチさんが最後に送ってきた写真は、クルド人の幼い姉妹のものだった。写真の中でお姉さんは不器用そうに笑っていて、その腕に抱かれる幼い妹はまだ無垢な瞳を持っていた。

 姉の名前は言葉カリマ、そして妹の名前をけものゾーイといった。

 手紙によれば、ゾーイという名前はお姉さんにせがまれてヨーイチさんが付けたんだそうだ。

(……帰るべき母国のない離散の民たち……)

 私たちはこの二人より幸せかな?

 ハンナが言った。訊ねられたかどうかも怪しかった。

 人は自分より不幸な存在を見て安心したり笑ったりするわ。

 私は月並みな言葉しか返す事ができなかった。


……彼女がそうなったのは、私のせい?


 内部に多くの傷を抱えるエメラルドの硬度は高いものの、ゆえに砕けやすい。エメラルドは未来を予言し、女性の貞節を守り夫の愛を保つとされる。それは真実だったらしく宝石である彼女は両親のお互いへの秘めたる想いを繋ぎ止めていたしどちらも別の相手と再婚しようとは思わなかった。愛は確かに存在していたがその交流コミュニケーションが不足不十分であった。

 さて何が原因だったのでしょう? サムエル記を参照してみましょうか(お手元の聖書テスタメントをお開きください)。

 エルカナの妻であるペニナは、もう一人の妻であるハンナのほうが夫に愛されていることに嫉妬を燃やしていました。そんなペニナの拠り所となったのは、自分には息子も娘も居るのにハンナには子供が居なかったという事です。

 神がそのはらを閉ざされたからです。ハンナはさめざめと泣いて主に祈りました。 …………


「――ふふ、」

「なに?」

「なんでも。言うとあんた、怒るじゃない」

「すぐそうやって。いいから、話してってば」

それじゃあ、と言ってペニナは続けました。

「気の毒なマリヤとヨシュアの事を考えていたわ」

「かわいそうなマルヤムとイーサーの事を?」

ほんの数千年前の話だわ。

 にとってはそうでしょうよ。凍る窓の外では雪が眩しく反射していました。

「イーサーは確か、医者だったわね」

(彼は触れたところからに苦しみを取り除くのだった)

「そう。あんたと同じで」

「いいえ、」

私は子を産むたびに、子どもたちを神に殺されてきただけの女よ。

 リリスはそう言って笑いました。彼女は森で産婆ミッドワイフをしていたのです。そうでなくとも彼女は大地の母でした。あなたのお母さんの話、する? リリスは、小さな赤ん坊を抱くペニナの姿をうっとり眺めながら言いました。

「聞きたくない」

「そう言うと思った」

 ヨシュアにも子供があれば……。

 彼は父ユースフに似て不能だったのよ。それは別に仕方のないことだわ。

 偶像アイドルは常に象徴ファルスであるわけにはいかない……。

 張形でもない限りね。

って?」

ドアの傍で、赤い髪をした小さな女の子が母親に尋ねました。寒くないようウシャンカを被り旧いソ連のコートを重ね着していました。

 イリス? お父さんと一緒に薪割りじゃなかったの?

 おとうさんが、あぶないから離れていなさいって。

 ワーニャったら! まったく心配性なんだから。

「わたしももう、六才だよ! 二二こうけいのライフルで、ウサギだって、狩れるもん」

ウェーブがかった赤毛のペニナは、赤ん坊を腕に暖炉のそばで、にっこりと聖母であるかのように微笑みかけました。

「お久しぶりね、イリーシャちゃん」

「こんにちわ、ペニナさん」

「いくつになったの?」

まだ内気な少女は腕を後ろに組んでちらちらと床を眺めました。

「恥ずかしがらないで、いいのよ」

イリスはまず右手を開いて見せましたが、足りないことに気付いて、慌てて両手で「六」を作って指し出しました。

「おばさんはか、お母さんから聞いてる?」

イリスはもじもじして母親をちらりと覗きましたが、リリスが微笑むのを見ると、やや遠慮がちにペニナに目をやって、

「さんぜん……ごじゅうよんさい?」

「おりこうさん!」

と言ってペニナはイリスの頭を撫ぜました。

「あの夜はたしか月食だったわ」

三月シワンの六日、二六九四年初夏の七週祭シャブオット

「あなたと同じ誕生日よ、イリス。五月さつきの十四日」

「それは、今の暦で計算し直したらの話でしょう?」

そんなの単なる数字あそび、ノンセンスだわ。――あら、国と誕生日が同じだって言って喜んでたじゃない。イリスはペニナの傍に近づいて、

「あかちゃん?」

「そうよ」

「だっこしても、いいですか」

と訊ねました。良いわよ。まだ首が据わってないから、腕で支えてあげて。少女は苦労して母親からすうすう眠る赤ん坊を受け取って、

「あなた、おなまえは?」

赤ん坊の母親の胸には燃えるような紅いガーネットのネックレスが提げられていました。

「彼女は、ハナよ。あの人が付けた名前! ハンナ・ハルノ=ホセア。」…………


「――あっちゃん?」

麦わら帽のハンナは急に呼びかけられて、はっとしました。入道雲が空に高く、蝉の啼く夏の頃でした。

「どしたん? ぼっとして」

春野櫻子サクラコは風通しの良いしじら織の単衣ひとえに身を包んで、気楽な兵児帯で留め、両手にビデオ屋とコンビニのビニル袋を持っていました。

「熱にでも中てられたんかと思ったわ」

「熱……」

サクラコは袋から空色の氷菓を取り出して、袋から出してハンナに「ほい」と言って差し出しました。

「そうなんかもしれん……」

ハンナは赤い顔をしてアイスを受け取ると、「木陰で休もか」と言うサクラコの裾を掴みました。

「さーちゃん、……あの、あんな……!」

サクラコはハンナの尋常でない様子に目を丸くして驚いてしまって、ビニル袋をバサリと取り落してしまいました。

「わたし、私は、……こ、恋を! しているのかもしれない……!」


* * * * * *


 卵が落ちて、黄身きみが潰れました。買い物帰りの主婦は嫌そうな顔をして、諦めてその場を立ち去りました。蟻が群がっていて、沈む夕焼けを背に、海には夜が迫っていました。

「トウシューズがね。いつも少しだけ、小さかったのよ」

ハンナは砂浜で裸足になって、靴ずれの足を波に晒していました。その骨格は私が初めて彼女に出会ったときと変わらなかった。

「でも言えなかった。父さんが苦労しているのは知っていたから。彼の期待に応えたかった。でも、駄目だった」

皮膚の張り付いた骸骨のよう。それは社会が、文化が、歴史が、彼女にそう要請するからだ。彼女は隠しているけれど手首には傷跡が残っている。私は知らないふりをして、黙っている。

「ビデオ……渡してくれた? 才能あるって、むかし言ってくれたよね?」

私は頷いた。ハンナは私の瞳の奥を覗いて言った。

「わたし知ってたんだ。ウソだって」

踊っているから分かるのよ、私には才能がないってこと。……ショーウィンドウ越しの私は、ちゃんと宝石のように光り輝いていた? そう言うとハンナは膝を抱えて、塞ぎ込んでしまった。

「……私って、誰の子供なんだろう……」

ハンナが尋ねるでもなく言った。私はハンナの肩に手をそっと置きながら、静かに答えた。

「分からない。だけど私ならきっと、いつでも貴女の力になれると信じてるわ」

あなたのお母さんと違って。そう思った私の手を振り払って睨みつけると、

「お母さんのこと、悪く言わないでよ!」

ハンナはそう叫んだ。波が打ち寄せて、弾けた。私は、戸惑っていた、と思う。傷跡があらわになって、「あ……」とだけ言い残して彼女は走り去った。


 お願い、聞いて?

 聞いてよ。ねえ神様。

 あなたは私から何もかも取り上げるのね。

 お母さんも、お父さんも、夢も、希望も。

 そうしたら、お団子シニヨンを作る長い髪の毛も、

 切り落として、全部燃やしてしまいます。

 トウシューズだって、もう要りません。

 あたしはもうずっと裸足で踊るのです。

 それでもまだ供物ハナクが必要でしょうか?

(ひとは何をも所有できない

 その強さも、弱さも、そして心も

 両腕を広げ迎え入れても

 その影は十字架に似て

 幸せを掴もうとして

 握り潰してしまう)


(クレアは良いよね。はじめからお母さんが居ないんだから)

そんなことは言われていないのに、彼女にそう責められているような気がした。

 私が赦されるために、彼女との関係を修復なおすために、一体どんな言葉が必要だったのだろう。


* * * * * *


 その晩、ハンナは帰らなかった。病院の一室で説明を受けた。傷口をバスタブに浸けていて失血が酷く、意識がまだ戻らないのだと。髪は短かったけど、確かに彼女だった。手首の傷跡が☦八端十字架のように滲んでいた……。

「ねえ、ハンナ?」

私はベッドに眠る彼女の短い髪を撫ぜた。キスをしても目覚めなかった。当然だ。私は王子様ではなかったのだ。

「踊りたくなければ、バレエをする必要はないわ。宝石にならなくたって、良い。ましてその逆でも! あなたは、あなたの権利と自由を持っている。――重要なのは、選ぶということ」

彼女の右手を取って私は言った。

「私はガーネットよ。資産家の、富豪の娘よ。欲しいものは何だって手に入れてみせるわ」

 嘘をついた。才能があるだなんて。

 恋路を邪魔した、協力しなかった。

 私のものにしたかったから。

 ただあの子が楽しそうに踊ってくれていればと。

(それは私の独り善がりだったわけね)

 金銭や物品で、彼女を私の所有とする事はできない、

 だけど命は買う事ができるわ。

「ねえ、ハンナ、」

あなたがお団子シニヨンを作るための髪を切り刻むなら、私だってこの長ったらしい髪の毛なんて、要らないわ。

――だから昔のように。手をつないで、一緒に、…………


(何かを切るハサミの音)


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