* * * * * *

 その時期、秋から冬にかけて、私たちは一緒に暮らしていた。ヨーイチさんがアフガニスタンへと長期の取材に行ったからだ。彼はベビーシッターを雇うか一時的に日本に帰国させるか、悩んだようだったけど、月遅れ盆と夏休みを日本で過ごしたあとだったので、学校も始まっているしという事で、私から提案してそういう事になった。ヨーイチさんも家からは多からず疎ましく思われているようだった。若いうちに勝手にアメリカに行って、子供までこさえて……と。うちに電話がかかってくると、ハンナは一目散に走り出して行くのだった。

「日本でビデオ、買ったんだよ。かさばって大変だった」

ハンナはお土産の袋を持ち上げて見せて言った。にやにやを抑えようとして隠しきれていなかった。

「そう、」

私は表情を崩さないように注意した。

「私から渡しておこうか?」

「ほんと? お願いしていいかな、助かる」

彼の連絡先も知らなくて。お兄さん経由で渡してもらえれば、きっと早いよね。

――昨日ホーム・シアターで見せてくれた『カラスの飼育』って映画、面白かった。姉妹が踊るシーンの背景にクリント・イーストウッドのポートレイトが飾ってあって……。父さんが好きなんだ、イーストウッド。

「クレアのお家って、大きいよね。何をするにも執事さんとかメイドさんたちがやってくれて……」

「そう?」

カナダの家よりは随分小さいのだけど。

「うん。櫻子サクラコの実家みたいだった」

サクラコちゃんというのはハンナのひとつ違いの従妹いとこだ(写真を見せてもらった事がある。いつも和服を着ていて、華道や茶道、それから書道といった習い事に「せわしない」らしい。濡れ鴉の黒髪を桜色の髪留めバレッタでアップしていて、上に跳ねる毛先が彼女生来の奔放さのようだった)。伯母さんは躾に厳しい人らしく、何をするにも「あきまへん」「早うし」「はしたない」が口癖で、いい加減我慢の限界に来た彼女は、

「ああしんど、そない何もかんもキツキツ言われとったらうちのおつむも禿げ上がってまうわ。素人の盆栽とちゃうんやで。よう付き合わん、サラピンの堪忍袋かんにんぶくろ探すさかい、ほなさいなら」と言い捨てて「おばあ」の家に駆け込み寺したそうだ。伯母さんも実母の「おばあ」には頭が上がらずサクラコちゃんの所在を巡っては冷戦状態が続いているらしいが、親の心子知らず、彼女の飼っている「けむり」という名前の灰色の猫と同じく呑気なもので、お婆さんは「これも勉強の一環やで、夕子」とたしなめてサクラコちゃんを甘やかすのだった。

「見て、ミサンガ。(ハンナは右の手首に紅白の糸で紡がれた組み紐を結んでいました)サッカーのやつで、日本でちょっと前から流行ってるんだって。サクラコが編んでくれたの」

「フレンドシップ・ブレスレット?」

「似てるけど、ちょっと違うて、願い事をしながら編んで自然に切れるとその願いが叶うんだって」

「どんな願い?」

「それは『ひみつ』なんやって。願い事は話してしまうと叶わなくなるから」

「コトダマね」

さて編み物がそうであるように人間は言葉を紡いで幻想全体としての強度を高めますが、求められるのはその実際性プラグマティズムばかりで、価値は金銭リキッドに為替され社会幻想の経済基盤インフラストラクチャを構造します。言葉が意味を運ぶように金銭リキッドは価値を媒介し、血液ヘモグロビンもまた酸素と二酸化炭素とを交換します。

 つまるところ猫も液体だったというわけです。トラックは潤滑油の白いを吐いて物事を運送し、泣きじゃくる子供は親にその手を引かれていて、「わたしにもあんな時分じぶんがあったのかしら」と思いました。「クレアは『泣かなくて手のかからない』って、メイド長さんから聞いたよ」とハンナは言いました。

「セロのお稽古は?」

 普段通り。変わらないわ。

「ふーん……ピアノのほうは?」

 あんまり才能、ないみたい。不器用ゴーシュだからかな。

 そう。…………。

 どうしたの?

 なんでも。

 すぐそうやって。「なんでもない」わけないじゃない。

 別に……。

 いいから言ってみて。

「……クレアの演奏で踊りたいなって、ちょっとだけ……」

クレアはその言葉にすっかり嬉しくなってしまいました。

「バレエのほうは?」

 コンクールがあったでしょ?

 予選通過したんだ。

 ――すごいじゃない!

 何を踊るの?

 『白鳥の湖』。

 オデット? それともオディール?

 オディールのバリエーション。だけど私はあくまでオデットの偽物なの。完璧な偽物を演じなくてはならないの。

 白鳥オデット黒鳥オディールは同じ人が踊るものね。

 うん。私は、きっとオディールはオデットのようになりたかったと思うんだ。あるいは白鳥オデットにならなくてはいけないと誰かから要求されたのか。けれど生まれが違うからそれは叶わない。悪魔の子だから。オデットは白鳥たちの長だから永遠の愛を誓って呪いを解いてくれる男性を見つける責務があるけれど、王子もまた踊りの上手い女なら誰でもいいのね。結局は黒鳥と悪魔に騙されてしまうのだから。――そう、本当は相手なんて、誰でもいいのよ。だけどオディールは違う。彼女はオデットを忠実に模倣しなくてはならないの。彼女より魅力的でなくてはならないの。

「ハンナは、どうしてバレエを?」

わたし? ハンナは突然訊かれて戸惑いましたが、少し悩んでから、

「前に言った事あるよね。お母さんが『宝石商』で【忙しい】からうちにはお母さんが居ないんだ、って。私は【宝石】になりたいと思ったの。エメラルドって、内部にいくつも傷があるけれど、それでも輝いている。それこそ『エスメラルダ』みたいにね。……わたし、うっすらと気付いていたの、両親が離婚していた事に。直接の原因は知らないけど、もし私に宝石のような価値があったなら、みんな離れ離れディアスポラにならなくて済んだんじゃないか、って……」

二人は私の事を愛してくれていると信じているけど。子供を育てるのに、お金が要るって事も分かってる。その為に仕事をしなくちゃいけない事も。だけど、だから、私は…………。

 クレアは思わずハンナの唇を塞ぎました。

「――え?」

再び戸惑うハンナにクレアは困ったように笑って言いました。

「わかんない。なんでかな」

あなたはきっともう、宝石なのよ。ガーネットの私よりもずっと。クレアは、わたしは本当にハンナの事が好きなんだなぁと、それだけは嘘じゃないと思いました。


 彼女のキスは、……。

 いっぽうハンナは何故だか、そのように感じました。


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